第8話 背後
窓ガラスに映っていた男は、胸元に縫いつけられた会社名も、右肩から斜めに下がる鞄の紐も、林道の泥で黒ずんだズボンの裾も仁と同じであり、薄暗い広間の中に立つその姿には、見覚えのない部分が一つもなかったが、俯いた顔だけは闇へ沈み、目鼻の形を確かめることができなかった。
ガラスに映り込んでいる位置からすれば、男は仁のすぐ後ろに立っているはずだった。
それにもかかわらず、呼吸も衣服の擦れる音も聞こえず、背中には人間の体温も伝わってこないため、振り向けば何もいないのではないかという考えが一瞬浮かんだものの、何もいないのであれば、窓の中に立つ男を説明することができなかった。
仁がわずかに首を動かすと、男も首を傾けた。
鏡のように同時に動いたのではなく、仁の動きを見届け、それを覚えてから真似るように、ほんの一瞬だけ遅れていた。
集落へ入る前、鎌を持った老人から言われた言葉が、頭の奥によみがえった。
名前を呼ばれても、後ろを見るな。
しかし、返事をするなという老人の忠告を信じた結果、仁は自分の声を外のものへ渡してしまったのだから、もう一つの言葉だけを正しいものとして受け入れることはできず、振り向かなければ助かるのか、それとも振り向かない人間の背後に立つため、老人はそう教えたのか、いくら考えても答えは出なかった。
仁は窓ガラスから目を離せないまま、背後の男を見続けた。
やがて、男がゆっくりと顔を上げた。
薄暗いガラスの中へ現れたのは、やはり仁の顔だった。
額の形も、頬の痩せ方も、鼻筋も、口元に残る小さな傷も記憶と一致していたが、目と口が正しい位置へ置かれているだけで、その顔には表情がなく、人間の顔が本来持っているはずの微細な動きさえ見られなかった。
仁の顔を見たことのないものが、声や名前だけを頼りに組み立てた、まだ完成していない顔のようだった。
男の口が動いた。
「振り向け」
聞こえてきたのは、完全に仁の声だった。
録音された自分の声を聞くときの違和感さえなく、胸の内側に浮かんだ考えが、耳からもう一度入り込んできたのかと錯覚するほど自然であり、仁は返事をしそうになった口を慌てて閉じた。
「顔を見るだけでいい」
ガラスの中で、男が一歩近づいた。
畳の軋む音も、足を運ぶ気配もなかったが、仁の肩越しに浮かぶ顔だけが次第に大きくなり、やがて耳のすぐ後ろまで迫ってきた。
「俺は、佐久間仁だ」
それは自分が誰であるかを確かめる声ではなく、すでに決まった事実を、仁へ教える声だった。
その言葉を聞いたとき、背後のものが振り向かせようとする理由に、仁はようやく気づいた。
あれはすでに姓名を知り、声を手に入れ、言葉の使い方や話し方の癖まで覚えているにもかかわらず、なお仁に顔を向けるよう求めている。
窓の中に作られた顔は仁によく似ていたが、そこには人間の表情がなく、目が何を見て、口元がどのように感情を表すのかまでは再現できていなかった。
あれには、正面から見た仁の顔が足りないのだ。
仁は目を閉じ、両手で顔を覆った。
その瞬間、背後にあった呼吸が止まった。
それまで何も聞こえていなかったはずなのに、息が途絶えたことだけははっきりと分かり、仁が掌へ強く顔を押しつけていると、長い沈黙の末に、耳元から静かな声が聞こえた。
「声だけじゃ、足りない」
怒りも焦りもなく、断られることなど考えていないような調子だった。
「顔を見せてくれ」
仁は動かなかった。
正面から顔を見せれば、目や口の形を知られるだけではなく、佐久間仁がどのように人を見て、どのように笑い、どのように恐怖を隠そうとするのかまで、あれは一度の対面ですべて覚えてしまうのだと思った。
そうなれば、朝になって公民館から出ていく佐久間仁が、自分である保証はどこにもない。
背後のものは、それ以上何も話さず、顔を覆う手を外そうともせず、仁が恐怖と疲労に耐えられなくなる瞬間を待つように、その場へ立ち続けた。
しばらくすると、仁と同じ呼吸が、すぐ後ろから再び聞こえ始めた。
息を吸う間も、吐き終えるまでの長さも、初めはわずかにずれていたはずなのに、次第に差がなくなり、やがて二つの呼吸は完全に重なった。
仁は試すように、途中で息を止めた。
背後の呼吸も、同じ瞬間に止まった。
どちらが先に息を止めたのか。
自分が背後のものへ合わせたのか、それとも背後のものが自分を真似たのか、仁にはもう分からなかった。




