第5話 返事
公民館の外を歩く足音は、建物の周囲を確かめるようにゆっくりと巡り、正面の引き戸の前まで来ると、不意に止まった。
広間には十数人の村人がいたが、咳払いをする者も、身じろぎする者もなく、先ほどまで仁へ向けられていた視線さえ一斉に畳へ落ちており、頭に白い布を巻いた女だけが、仁の目を見たまま、返事をするよう無言で促していた。
仁には、その意味が分からなかった。
外にいるのが村人の知り合いなら、彼ら自身が応じればよく、見知らぬ来訪者に名を呼ばせ、その返事まで強いる必要はない。それにもかかわらず、彼らが恐れているのは外の何者かではなく、仁が返事をしないことのように見えた。
戸の向こうから、声がした。
「佐久間仁」
男とも女ともつかない、低く湿った声だった。
大声ではなかったが、戸板や壁を通して聞こえたのではなく、仁の耳のすぐ近くへ直接落ちてきたように鮮明で、姓名の区切り方まで、公民館の中で村人たちが繰り返したものとよく似ていた。
白い布を巻いた女が、唇だけを動かした。
返事をしろ。
仁は喉を開きかけた。
その瞬間、林道で会った鎌の老人の声が蘇った。
声がしても返事をするな。
名前を呼ばれても、後ろを見るな。
鎌の老人の様子は異様だったが、少なくとも仁をこの集落へ連れ込んだ者ではなく、立ち去る前には戻った方がよいとも告げていた。一方、目の前の村人たちは仁の車を止め、姓名を何度も口にし、理由も説明しないまま、外にいる何かへ返事をするよう迫っている。
どちらを信じるべきかを考えるまでもなく、仁には村人たちの方が、自分を何かへ差し出そうとしているように思えた。
再び、戸の外から名を呼ばれた。
「佐久間仁」
今度は、最初よりも自然な声だった。
仁が黙っていると、白い布を巻いた女の顔から血の気が引き、周囲の男たちが立ち上がりかけたが、誰も仁へ触れようとはせず、ただ間に合わなくなることを恐れるように、口々に「言え」「返せ」と囁いた。
仁は答えなかった。
何を言われても声を出すまいと、奥歯を噛みしめた。
外の気配は、しばらく動かなかった。
村人たちも沈黙し、広間の空気が耳を圧迫するほど張り詰めたころ、戸の向こうで何かが小さく息を吸った。
「佐久間仁」
三度目に名を呼んだ声は、仁自身のものだった。
仕事先で名乗るときの落ち着いた調子も、語尾にわずかに残る息も、喉が乾いたときに生じる掠れまで同じであり、録音された声に似ているという程度ではなく、自分が戸の外に立ち、室内の自分へ呼びかけているとしか思えなかった。
仁は、声を上げそうになった。
しかし、それさえ外のものが待っている反応のように思え、両手で口を覆った。
白い布を巻いた女が、初めて仁の腕へ手を伸ばした。
「今だ。自分で返せ」
切迫した声だった。
仁はその手を振り払い、首を横へ振った。
すると戸の外のものは、まるで仁が答えるのを諦めたのではなく、必要な沈黙が十分に得られたと判断したように、仁の声で穏やかに返事をした。
「はい」
その一音が響いた途端、広間にいた者たちの表情が崩れた。
誰かが短く悲鳴を上げ、老婆は空になった椀を取り落とし、男たちは仁から一斉に距離を取った。白い布を巻いた女だけはその場を動かなかったが、仁を見る目には、先ほどまでの警戒とも敵意とも異なる、取り返しのつかない失敗を目の前にした者の絶望が浮かんでいた。
仁は、自分が鎌の老人の忠告を守ったのだと思った。
返事をしなかった。
声を渡さなかった。
それなのに、村人たちは助かった者を見る顔をしていなかった。
戸の外では、仁の声がもう一度、今度は誰へ聞かせるでもなく、確かめるように姓名を口にしていた。
「佐久間仁」
女はゆっくりと手を引き、掠れた声で言った。
「覚えた」
何を、と仁が尋ねても、誰も答えなかった。
村人たちは仁を囲むのをやめ、触れてはならないものから離れるように壁際へ退き、それ以降、誰一人として仁の名を呼ばなくなった。




