第4話 霧の集落
道端に立っていたのは、年齢の異なる三人の男だった。
いずれも色褪せた作業着を着ており、一人は薪割り用らしい鉈を腰へ差し、もう一人は濡れた縄を手に巻きつけ、最も若い男だけが何も持たずに立っていたが、三人とも車の音に驚いた様子はなく、まるで仁がこの道から現れることを前もって知らされていたように、黙ったまま運転席を見つめていた。
仁は窓を少し開け、工事予定地を探していることと、道を間違えたらしいことを伝えた。
「ここは何という集落ですか」
誰も答えなかった。
三人は互いに顔を見合わせることもなく、仁の作業着、助手席に置いた図面、後部座席の測量器具へ順に視線を移し、最後に車の後方へ目を凝らした。
「ほかの者は」
縄を持った男が尋ねた。
「今日は私一人です」
答えた途端、三人の表情にわずかな変化が生じた。
驚いたのではなく、何かを確認し終えたような顔だった。
若い男が車の後ろへ回り、荷室の窓から中を覗き込んだため、仁は不快に思いながらも、会社の仕事で来たことをもう一度説明したが、彼らが気にしているのは仁の用件ではなく、本当に同行者がいないかどうかだけらしかった。
「この先で車を返せますか」
仁が尋ねると、鉈を差した男が集落の奥を指した。
道は家々の間を抜けており、その先に少し広い空き地が見えた。そこで方向を変えられるのだろうと思い、仁は礼を言って車を進めようとしたが、若い男がボンネットの前へ回り込み、両手を広げた。
「車はここへ置け」
「すぐ戻ります。道を確認したいだけなので」
「ここへ置け」
声を荒らげたわけではないのに、拒める余地のない言い方だった。
仁は三人の顔を見比べた。
山中の私有地へ無断で入った可能性もあり、刺激するより事情を聞いた方がよいと考え、道の脇へ車を寄せてエンジンを切った。
降りると、若い男がすぐに運転席へ近づき、窓越しには分からなかったほど近い距離から仁の顔を見た。
視線は目元に留まらず、耳、口、首筋へと動き、最後には仁の胸元に縫いつけられた会社名と、作業着の内側に下げた社員証を確かめるように止まった。
「名前は」
「佐久間です」
男は返事をせず、残る二人へ顔を向けた。
その沈黙に居心地の悪さを覚え、仁は自分から続けた。
「佐久間仁といいます」
三人は、初めて聞いた名前を覚えようとするのではなく、以前から知っていた音と一致するかを確かめるように、一人ずつ口の中で繰り返した。
「さくま、じん」
「佐久間仁」
「仁か」
自分の名前が他人の口から続けて発せられることは、それだけなら不自然ではないはずなのに、仁はなぜか、姓名の一部を少しずつ削り取られているような不快感を覚えた。
集落は十数軒ほどの家から成り、どの家も古かったが、荒れてはいなかった。軒下には薪が揃えて積まれ、畑には支柱が立ち、濡れた洗濯物まで干されているのに、窓辺や戸口からこちらを見ている者たちは誰も外へ出てこず、仁と目が合いそうになるたび、顔だけを室内へ引っ込めた。
人に会えた安堵は、集落へ足を踏み入れるほど薄れていった。
道を尋ねても答えず、挨拶をしても返さない者たちが、仁の背後へ回るときだけは、足音を忍ばせるように距離を詰め、何を持っているのか、何を置いてきたのか、どこまで一人で来たのかを黙って確かめている。
先ほどの三人に促され、仁は集落の中央にある平屋の建物へ連れていかれた。
玄関脇には「公民館」と書かれた木札が掛かっていたが、文字は黒ずみ、何度も上から塗り直された跡があった。
中には十人ほどの村人が待っていた。
男も女も、仁が入ると一斉に話すのをやめた。
奥に座っていた老婆が、仁のために用意されていたように空いている座布団を指し、その前には、湯気の立つ汁物と、山菜を盛った皿、それに白い飯が置かれていた。
「食べていけ」
仁は空腹ではなかった。
それでも断れば、今以上に相手を刺激するような気がしたため、礼を言って座った。
箸を取ると、村人たちは視線を伏せたものの、食べ始める者はいなかった。
仁だけが食事をし、その箸の動きを全員が黙って見ていた。
山菜には強い苦味があり、汁物には見慣れない白い肉が沈んでいたが、尋ねても誰も答えなかった。仁が何口か食べたところで箸を置くと、老婆が椀を押し戻した。
「残すな」
「すみません。あまり食欲がなくて」
「残すな」
最初よりも低い声だった。
周囲の者たちも、仁ではなく、残った飯へ目を向けていた。
無理に食べさせること自体より、その食べ物が仁の口へ入らず、この建物の中に残ることを恐れているように見えた。
仁は再び箸を取り、飯を飲み込んだ。
最後の一粒まで椀が空になると、村人たちの肩から、わずかに力が抜けた。
しばらくして、頭に白い布を巻いた女が仁の正面へ座り、改めて姓名を尋ねた。
先ほど答えたばかりだと言っても、女は表情を変えず、もう一度と促した。
「佐久間仁です」
女は仁の顔を見たまま、その名をゆっくり復唱した。
「佐久間仁」
その声につられるように、広間のあちこちから同じ名が重なった。
村人たちは仁を見ず、名前だけを確認するように繰り返し、やがて女が手を上げると、同時に口を閉じた。
「これから外で呼ばれる」
女は言った。
「名前を呼ばれたら、お前が返事をしろ」
仁は、林道で会った老人の顔を思い出した。
声がしても返事をするな。
名前を呼ばれても、後ろを見るな。
正反対の言葉を、どちらも当たり前の決まりであるかのように告げられ、仁が理由を尋ねようとしたとき、公民館の外から、誰かの足が濡れた地面を踏む音がした。
村人たちの顔色が変わった。
女は仁から目を離さず、もう一度だけ言った。
「呼ばれたら、自分で返事をしろ」




