第3話 鎌を持つ男
人影は、霧の中から現れたのではなかった。
仁がバックミラーへ目を向けるより前から、ずっと林道の中央に立っていたものが、霧の濃淡によってようやく見えるようになったのだと思わせる立ち方で、灰色の作業着を着た痩せた老人が、右手に古びた鎌を下げたまま、こちらを見ていた。
車を進めれば退く位置にいたが、老人は道を譲ろうとせず、仁がクラクションへ手を伸ばしかけたところで、ゆっくりと片腕を上げた。
止まれという合図に見えた。
こんな山中で人に会えたことへの安堵より、なぜこの男は車の来た方角ではなく、仁の進もうとしている奥から現れたのかという疑問の方が強かったものの、工事関係者か、近くで山仕事をしている住民なら道について聞けるかもしれず、仁は老人から少し距離を取って車を停めた。
窓を半分だけ開けると、湿った土と草の匂いに混じり、錆びた鉄のような臭いが入ってきた。
「すみません。この先に工事現場があるはずなんですが」
老人は返事をせず、開いた窓から仁の顔を覗き込むように首を伸ばした。
濁った赤い目をしていた。
酒に酔っているようにも、長く眠っていないようにも見えたが、表情には苛立ちも驚きもなく、仁の顔ではなく、その奥にあるものを確かめているような目つきだった。
「一人か」
しゃがれた声で尋ねられ、仁は反射的に頷いた。
「会社には行き先を伝えてあります。夕方までには戻る予定です」
必要以上のことを口にしたのは、自分が誰にも知られず山へ入った人間ではないと伝えたかったからだったが、老人は会社という言葉にも、戻るという言葉にも反応せず、助手席や後部座席へ順に目をやった。
「一人なんだな」
念を押され、仁はもう一度、今度は声に出して答えた。
「一人です」
老人はわずかに口元を緩めた。
笑ったのかもしれなかったが、霧に濡れた白い髭が動いただけにも見えた。
「この先に家はありますか」
仁が尋ねると、老人は林道の奥へ顔を向けた。
「見えたのか」
「何がですか」
老人は答えず、手にした鎌の刃先で、仁の車が踏んできた轍をなぞった。鎌は農作業に使うには小さく、刃には黒い染みがこびりついていたが、老人の指先には土も草の汁も付いていなかった。
「戻った方がいい」
「道が崩れているんですか」
「戻れるならな」
聞き返したときには、老人はすでに車から離れ始めていた。
仁は窓をさらに開け、道の番号が途中からすべて十六になっていること、図面にある調査地点がこの先で間違いないかを尋ねたが、老人は答えず、霧の中へ二、三歩進んでから立ち止まった。
「声がしても返事をするな」
振り向かないまま、老人は言った。
「名前を呼ばれても、後ろを見るな」
山で迷った人間に対する昔からの戒めなのか、単に仁を脅かしているのか判断できなかったが、その言い方には冗談らしい響きがなく、老人自身が何度も同じ言葉を口にし、そのたび誰かが従わなかったことを知っているような重さがあった。
「あなたは、この辺りの人ですか」
仁が声をかけると、老人は霧の中で立ち止まったものの、振り返らなかった。
「返事をするなと言っただろう」
それだけを残し、杉の幹の間へ入っていった。
仁はしばらく待った。
足音も、草を掻き分ける音も聞こえず、老人が消えた場所へ目を凝らしても、灰色の作業着も鎌の光も見つからなかった。
引き返すべきだった。
老人の様子が尋常でなかったことも、連続する杭も、道を覆い始めた霧も、仕事を中断する理由としては十分だったはずだが、後退するには道が狭く、方向を変えられる場所まで進むしかないという判断に、仁はしがみついた。
老人の言葉をまともに受け取れば、かえって恐怖に支配される。
山中では、土地の者がよそ者を試すような言い方をすることもあるのだと考え、仁は窓を閉め、車を発進させた。
数分も進まないうちに、霧はボンネットの先さえ曖昧にするほど濃くなった。
速度を落として走っていると、右手の杉林が突然途切れ、その向こうに黒い屋根が見えた。
仁はブレーキを踏んだ。
図面にも地図にも建物の印はなかった。
それでも霧の奥には、古い木造家屋が一軒だけではなく、道の両側へ間隔を空けて並び、軒下には濡れた薪や農具が置かれ、細い煙さえ屋根の上へ立ち上っていた。
廃村ではなかった。
人が暮らしている。
そのことは、道端に立つ三人の村人が、車を停めた仁を黙って見つめているだけで、十分に分かった。




