第97話 I Want to Keep Watching
蒼真が目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。
薄く目を開けると、見慣れた医療棟の天井があった。
心電図モニターの電子音と腕に繋がれた点滴。
顔には酸素マスクが装着され、身体を少し動かしただけでいくつもの管が引かれる。
「……最悪」
掠れた声で呟く。
「起きた?」
声がした方へ目を向けると、蒼志がベッドの横に座り、白衣を着たまま、カルテを確認している。
「ここ……集中治療室?」
「そう」
「帰る」
「起きて最初に言うこと、それ?」
「トイレの心配はもうした」
「覚えてるんだ……」
蒼志は額を押さえた。
「尿カテ抜いて、点滴外して」
「ダメ」
「心臓戻ったんだろ」
「今のところはね」
「じゃあ帰れるだろ?」
「帰れません」
蒼志が即答すると、蒼真は不満そうに眉を寄せた。
「入院しない」
「もう入院してます」
「今から退院する」
「昨日、心臓のリズムを電気で戻したばかりなんだよ。心不全もまだ治まってない」
「家で休めば同じだろ」
「同じじゃない」
「酸素もある。お前も渚も麗華もいて医療者の体制、最強の家だろ」
「それはそうだけど、今は帰せない」
しばらく睨み合うと蒼真は先に目を逸らし、天井を見つめた。
「……俺は、延命は望まない」
蒼志の表情が止まった。
モニターの電子音だけが、一定の間隔で響いている。
「昨日みたいなことがまた起きても、無理やり戻さなくていい」
「父さん」
「俺は十分、生きた」
「そんな話、今しなくても——」
「今だからしてんだよ」
蒼真は蒼志へ顔を向けた。
蒼真の目は、混乱しているわけでも、投げやりになっているわけでもない。
「総統も辞めた。悠真とお前に全部渡せた。紬も蒼空も大きくなった」
「……」
「麗華とも、ちゃんと暮らせた。蓮とも好きなだけ馬鹿やった」
穏やかな声だった。
「だから、機械に繋がれてまで延ばさなくていい。俺は家に帰りたい」
蒼志はすぐに答えられなかった。
医師としてなら、患者の意思を尊重すべきだと分かっていても息子としては、そんな言葉を聞きたくなかった。
「父さんは、死にたいの?」
蒼志が静かに尋ねた。
「違う」
蒼真は迷わず答えた。
「家で生きたいんだよ。みんなの笑ってる顔を見ていたい……本当はもっと長く、な。でも、それが叶わない事だって事もわかってる…。人に永遠なんてないだろ」
その言葉に、蒼志は俯いた。
父は治療そのものを拒否しているのではない。
残された時間をどこで、どう生きるかを選ぼうとしている。
「……延命と、今受けてる治療は違うだろ」
蒼志は顔を上げた。
家族の事になると父は頑固だ。
だから自分も頑固にならなきゃ、ここに繋ぎ止められない。
「昨日の処置は、父さんをただ生かしておくためにしたんじゃない。もう一度、家へ帰すためにしたんだよ」
「……」
「今帰ったら、家に着く前に同じ不整脈が起きるかもしれない。心不全もまだ悪化する可能性がある」
蒼真は黙って聞いてくれていた。
「状態が落ち着くまで、ここにいて」
「どれくらい」
「今は分からない。数日は必要だと思う」
「数日で帰す?」
「帰せる状態にする」
「誤魔化すな」
「誤魔化してない」
蒼志は父の目を真っ直ぐに見た。
「帰すよ。俺が必ず、父さんを家へ連れて帰る」
「……本当に?」
「その代わり、帰るための治療は受けて」
蒼真はしばらく蒼志を見つめた後、口を開いた。
「帰れなくなるだけの延命は、いらない」
「分かった」
「挿管して、意識もないまま何か月も生きるのも嫌だ」
「分かった。父さんの希望は、きちんと記録する」
「麗華たちにも話す」
「うん。父さんから話して」
蒼志は父の手へ触れた。
昨日は冷たく、握り返す力もなかった手。
今は僅かに温かさが戻っている。
その手を蒼志は強く握った。
「今回はまだ帰れる」
蒼真の指が、蒼志の手を弱く握り返した。
「だから今は、帰るために治療しよう」
蒼真を見つめる蒼志の目は揺れることなく、まっすぐに向けられていた。
長い沈黙のあと、蒼真は小さく息を吐いた。
「……分かったよ」
「ありがとう」
「じゃあ尿カテ抜いて」
「それはまだダメ」
「話が違うだろ」
「何も違わない」
「帰るために必要ないだろ」
「尿量の管理に必要です」
蒼真は露骨に嫌そうな顔で目を閉じた。
その表情を見て、蒼志はようやく少しだけ笑った。
延命は望まない。
それでも、家へ帰るための治療は受ける。
神代蒼真が望む最期の形が、初めて明確な言葉になった。
集中治療室を出て3日目。
暁本部医療棟の特別室は、朝から妙に騒がしかった。
「神代、ぶっ倒れたってマジか?」
扉を開けるなり、葛城が言った。
「しかもトイレに行こうとして?」
その後ろから顔を出した白石が、真っ先にベッド脇の床を確認する。
「……漏らさなかったか?」
「お前ら、見舞いに来たんだよな?」
電動ベッドの背を起こし、蒼真は二人を睨みつけた。
顔色はまだ悪い。頬は痩せ、鼻には酸素チューブがかかっている。点滴の管も胸元から伸びた心電図のコードも、どう見ても軽い入院患者の姿ではなかった。
それでも葛城は、遠慮なく笑った。
「そこは重要だろ。長年の付き合いとして」
「何が長年の付き合いだ。漏らしてねぇよ。大人としての尊厳は守った」
「よく守ったな」
「よく頑張った」
「命が危なかった人間に最初にかける言葉かよ、それ」
ソファに座っていた蓮が肩を揺らした。
「俺も最初に確認した」
「お前が言ったな?」
「いや、倒れた場所を悠真から聞いた、それで2人にも伝えた」
「悠真…来たら説教してやる…廊下で倒れたの、ろ、う、か!!」
「そこ、威張るところか?」
葛城と白石は笑いながら、ベッド脇の椅子を引いた。
「しかし、本当に一人で行こうとしたのか。前の日から不整脈が出てたんだろ?」
「前の日じゃねぇ。起きた時に気づいたんだよ」
「それでなぜ歩く」
「トイレに行きたかったから」
「麗華さんを起こせよ」
「寝てたんだよ」
「だから起こせよ」
「たかがトイレで起こすのも悪いだろ」
蒼真が当然のように答えると、室内に短い沈黙が落ちた。
葛城と白石が同時に蓮を見ると、蓮は無言で首を横に振った。
「言っても無駄だ。こいつはそういう奴でしょ」
「なんだよ」
「全員、お前が悪いと思ってる」
「俺はトイレに行こうとしただけだぞ」
「その結果、救急車だろ」
蓮が呆れたように言うとまた葛城と白石が笑った。
しかし、笑っている2人の目は時折、酸素チューブの先と蒼真の呼吸へ向けられている。
2人とも笑っていたが、何も見ていないわけではなかった。
ただ笑いに来た訳じゃない事は蒼真にも分かっていた。
「それで、もう歩けるのか?」
「歩行禁止です」
蒼真に代わり蓮が即答した。
「ベッドから勝手に降りると、看護師と息子二人とこいつに怒られる…」
「厳重監視じゃねぇか」
「前科があるからな」
「まだ何もしてねぇよ」
「昨日、トイレまでの距離を目で測ってただろ」
「……見ただけだ」
「やる気だったな」
「だから、やってねぇだろ」
その時、病室の扉が二度、軽く叩かれた。
「蒼真さん、倒れたとお聞きして――」
黒崎兄弟と悠真が揃って入ってきた。
3人は葛城と白石に気がつき頭を下げ、それからベッドの上の蒼真を見た。
「うわっ、めっちゃ痩せた!」
「ダイエットしたんすか?」
「心不全をダイエットに含めんな」
蒼真が眉間に皺を寄せるが、兄弟は気にする様子もなく、顔を向き合うと悠真に視線を向ける。
「悠真ぁ、総統で稼ぎあるんだから、ちゃんと父ちゃんに食わせないとダメじゃん」
「息子の稼ぎが足りてねぇんじゃん?」
「食欲と俺の給料は関係ないだろ!」
黒崎兄弟の言葉に悠真が焦りながら反論した。
「悠真」
蒼真が神妙な顔で悠真を呼んだ。
「なに…父さん」
「父ちゃん、羊羹が食べたい」
真面目な顔でそう言う蒼真に黒崎兄弟はついに吹き出した。
「今、その流れに便乗しないでくれる?」
悠真はげんなりした顔で呟いた。
「ほら、ちゃんと食わせろって」
黒崎兄弟が揃って悠真を責めるると蓮が笑い、葛城と白石まで加勢し始めた。
「総統ともあろう者が、父親に羊羹も食わせられないのか」
「暁の福利厚生はどうなってる」
「なんで俺が責められてるんだよ!」
「騒がしいと思ったら、全員揃って何をしてるんですか」
凛とした蒼志の声が特別室に響いた。
開いた扉の前に立ち、白衣のポケットへ手を入れ、室内を見回す。その視線が、黒崎兄弟の持っている紙袋で止まった。
「それ、何?」
「見舞いの羊羹だよ」
「今は食べさせられないから、預かるよ」
「蒼志」
「駄目」
「まだ何も言ってねぇだろ」
「言う前に分かるよ」
蒼志は紙袋を受け取り、そのまま病室の棚へ置くと蒼真が名残惜しそうに目で追う。
「没収かよ」
「没収じゃない。状態が落ち着いたら少しずつ食べればいいでしょ」
「じゃあ、見えるところに置いとけ」
「どうして」
「希望になる」
「羊羹に生きる希望を見いださないでよ」
親子のやり取りに笑い声が重なった。
その最中、黒崎の弟がベッド脇へ視線を落とした。
尿バッグが見えないよう、蓮が掛けた布がある。
「蒼真さん、それ何を隠してんすか?」
「触るな」
「何すか?」
「俺の尊厳だ」
「尊厳?」
「いいから見るなよ」
黒崎兄弟が顔を見合わせる中、蓮が口元を押さえながら、小声で教えた。
「管につながってる」
「ああ……」
2人が同時に納得すると頷いた。
「それは確かに、隠したほうがいいっすね」
「元総統の尊厳は守りましょう」
「分かるか、お前達」
「分かります」
「お前ら……いい奴だな」
「なんの共感だよ」
葛城がそう呟くと白石が呟いた。
蒼志は額を押さえ、悠真は黒崎兄弟の横で笑いを堪えている。
かつての総統が心不全と不整脈で倒れた病室とは思えない騒がしさだった。
やがて葛城たちと黒崎兄弟と悠真が帰る頃になって、入れ替わるように奏と律が姿を見せた。
2人は先ほどまでの者たちとは違い、どこか緊張しているようだった。
「蒼真さん……体調、どうですか」
奏がそっと尋ねると蒼真は少し笑った。
「見ての通り。元気いっぱい管につながれてる」
「その言い方、やめてくださいよ」
律が困ったように笑った。
「笑っていいのか分からないじゃないですか」
「笑っていいぞー」
蓮がソファから声をかけた。
「さっきまで尿カテ気にして騒いでた」
「ぁあ、確かにいつもそうですもんね」
いつもの様に奏と律は笑うと蒼真も笑った。
しかし、すぐに小さく咳き込み、胸元へ手を置く。浅い呼吸が二度、三度と続くと室内の空気が一瞬で変わった。
蒼志がベッドへ近づき、モニターへ目を向け、蓮は蒼真の背中をさすってやる。
「父さん、ゆっくり息をして。無理に話さなくていいから」
「……笑わせすぎなんだよ、お前ら」
蒼真は酸素チューブを気にしながら、掠れた声で言った。
「病人なんだから、労われ」
「一番しゃべってたの、蒼真さんですよ」
いつもの調子で律が答えたけれど、その笑顔の奥に浮かんだものを、蒼真は見逃さなかった。
「そんな顔すんなよ。ちょっと疲れたから入院してるだけだ。暁の医療棟にいるんだから、何かあっても蒼志がどうにかする」
「父さん…」
「な?」
蒼志は何も答えず、ただ、乱れた掛け布団を直すふりをして、父の細くなった足元を覆った。
奏が小さく息を吸う。
「……また来ます」
「おう」
「今度は、もっと騒がしい奴らも連れてきますから」
律が言った。
「ここ病室だぞ」
「静かだと、蒼真さん、余計なことを考えるでしょう」
蒼真は一度目を瞬いた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「お前、たまに鋭いな」
「たまにって何ですか」
「また来い。羊羹持って」
「蒼志さんに見つからないようにします」
「聞こえてるよ、奏さん。じゃあ俺も1回戻るね」
蒼志の声に、二人は笑いながら病室を出ていき、蒼志も仕事へ戻って行った。
急に静かになった室内で、蒼真は枕元に置かれていたロシア語辞書を手に取った。
蓮はソファにただ静かに座ってくれていた。
奏と律が帰ってから、しばらく経った頃だった。
再び病室の扉が叩かれた。
「どうぞ」
蓮が返事をすると顔を覗かせたのは、雨宮だった。
「失礼します」
「雨宮さん」
蒼真がロシア語辞書から顔を上げる。
「葛城さん達と来ると思ってた。もう今日の見舞い、ほとんど終わったぞ」
「悪いな、用事を済ませて来たから」
雨宮は扉を閉め、ベッドのそばまで歩いて来ると、蒼真の顔を見るなり、わずかに眉を寄せる。
「……痩せたな」
「今日何人目の質問だと思う?」
「皆が同じことを言うなら、それだけ痩せたって事だよ」
「黒崎兄弟には、悠真がちゃんと食わせてねぇからだって言われた」
「アイツら兄弟らしいな。訓練生の頃から悠真を蒼志と一緒に構って遊んでたよ」
雨宮は淡々と言い、持ってきた紙袋をサイドテーブルへ置いた。
「これは退院してから開けてくれ」
「何が入ってる?」
「神代が食べそうなもの」
「羊羹?」
「違う」
「じゃあ、いらねぇ」
「持って帰るぞ」
「待て。中身を確認してから決める」
蒼真が紙袋へ手を伸ばそうとすると、その手を雨宮が軽く払い、袋を少し遠ざけた。
「退院してからだ」
「お前まで俺を子供扱いすんな」
「子供はもう少し言うことを聞くぞ」
ソファに座っていた蓮が吹き出した。
「正解だ。こいつは子供以下だぞ」
「お前はどっちの味方なんだよ」
「お前の味方だから、勝手に食わせねぇんだろ。雨宮さん、それ預かりますよ」
「冷蔵庫に入れといてくれ」
蒼真は不満そうに鼻を鳴らし、辞書を閉じると枕元へと置いた。
雨宮がベッドの上の辞書へ目を向ける。
「ロシア語か?」
「ボケ防止だよ。体も動かせない、頭も動かさないじゃ、ボケんのが早くなるだろ」
「ぁあ、なるほどな…」
時々、昔話をしたりして、しばらくした後、雨宮が椅子から立ち上がる。
「長居すると、蒼志に追い出されそうだから帰るわ」
「もう少しいてもいいぞ」
「疲れただろ」
「別に」
そう答えた蒼真の声は、来た時よりも掠れていたが、雨宮はそれを指摘しなかった。
「また来るよ」
「おう」
雨宮を見送ると蒼真は再びロシア語辞書を開いた。
だが、先ほど読んでいた場所が分からなくなったらしい。
何度かページを行き来したあと、諦めたように蓮へ差し出す。
「……栞、どこだ」
「ボケ防止はどうした」
「うるせぇな」
受け取った蓮は栞のページをみつけると蒼真にそのページを開いて差し出した。
「みんな、俺が暇だと思ってんな」
「暇だろ」
蓮が答えると蒼真は鼻をならした。
「忙しいんだよ。ボケ防止で」
「ヘリから降下する時にメット締め忘れるボケだけどな、お前」
蒼真の手が止まった。
「……重いから嫌いなんだよ、メット」
「いつもそう言うな」
「忘れたんじゃねぇ。意図的に締めなかったの」
「それを締め忘れって言うんだよ」
蒼真は不満そうに辞書に目を落とした。
けれど、数行も読まないうちに、瞼がゆっくりと落ちてくる。
指先から辞書が傾いたところで、蓮が黙って受け取った。
開いていたページへ栞を挟み、枕元へ戻す。
眠った蒼真の呼吸は浅い。
みんな前では笑っていた顔も、今は疲れを隠してはいなかった。
「相変わらずバカだな、お前は」
眠っているはずの蒼真の眉が、わずかに動いた。
蓮はそれに気づいたが、何も言わなかった。
窓から差し込む夏の日差しが、白い掛け布団の上を静かに照らしていた。




