第96話 I Brought You Back
※本話には、医療・救命処置に関する描写が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
救急車の扉が閉まるとサイレンが鳴り響き、深夜の住宅街を走り出した。
車内には心電図モニターの警告音と、蒼真の浅い呼吸音がだけが響いている。
「神代さん、聞こえますか!」
救急隊員の呼び掛けに反応はない。
蒼真は目を閉じたまま、酸素マスクの下で苦しそうに呼吸を繰り返していた。
蒼志は担架の横へ座り、父の手首に指を当てる。
脈は速い。
それなのに間隔は不規則で、一瞬触れなくなった直後に激しく打ち始める。
「血圧、低下しています」
救急隊員が告げる。
「搬送先は?」
蒼志が尋ねた。
「暁本部医療棟、受け入れ可能です。第一処置室を準備しているそうです」
その名前を聞き、麗華は蒼真の手を強く握った。
かつて黎明と呼ばれていた頃から、何度も蒼真の命を繋いできた医療棟。
肺を失った時も。
瓦礫の下から帰ってきた時も。
その度に蒼真は、あの場所から家へ帰ってきた。
「蒼真、もうすぐ医療棟だからね」
麗華が耳元へ呼び掛けると、蒼真の指が僅かに動いた。
「父さん?」
蒼志が顔を近づけると、閉じていた瞼がゆっくりと開いた。
だが、焦点は合っていない。
「……れい、か」
酸素マスクの奥から、小さな声が漏れた。
「いるよ」
麗華がすぐに答える。
「ここにいるからね」
蒼真は声が聞こえたのか、僅かに麗華へ顔を向けた。
「……ごめ…ん」
「もう謝らないで」
麗華は冷たくなった手を両手で温めるように包み込んだ。
「ちゃんと戻ってきて。それだけでいいから」
蒼真は返事を出来ず、再び目を閉じる。
同時に、心電図モニターの警告音が激しくなった。
「脈拍、上がっています!」
救急隊員の声に、蒼志がモニターを見る。
波形が大きく乱れ、速く流れている。
心臓が空回りし、全身へ十分な血液を送り出せていない。
「父さん、聞こえる?」
蒼志は父の肩へ触れるが反応はない。
「父さん!」
呼び掛けながら、蒼志は酸素マスクの位置と呼吸を確認する。
胸は動いている。
脈もまだ触れる。
だが、どちらも弱い。
「医療棟まであと三分です!」
救急隊員が点滴を確保し、蒼志は父の既往歴と服薬内容を伝えていく。
肺線維症。
慢性呼吸不全。
心不全。
頻脈性不整脈。
つい先ほどまで父と呼んでいた人を、今は一人の患者として説明していた。
それでも、握った手だけは離せなかった。
握ったこの手を離したくなかった。
ずっと父がそうしてくれてきたように。
「父さん、もう着くから」
返事はなかった。
それでも、蒼志は蒼真に声をかけ続ける。
「俺も母さんもにいる。だから、もう少し頑張って」
救急車が大きく揺れ、速度を落とすと車窓の外に、暁本部の建物が見える。
その一角にある医療棟の救急搬入口には、既に複数の医療スタッフが待機してくれていた。
後部扉が開くと蒼志は救急隊員と共に担架を押し出す。
「64歳男性。頻脈性不整脈、血圧低下、意識レベル低下。急性心不全を疑います!」
担架を降ろしながら、救急隊員が状態を伝える。
「神代蒼真。肺線維症と慢性呼吸不全、心不全の既往があります。酸素は在宅で常時使用。不整脈に対して内服治療中です」
蒼志も歩きながら補足する。
「神代先生、普段の心電図データは?」
「全て医療棟のカルテに入っています。直近の検査は先月です」
担架はそのまま第一処置室へ運び込まれた。
麗華も後を追おうとしたが、入口で看護師に止められてしまって。
「ご家族はこちらでお待ちください」
「でも、蒼真が——」
────入れない事なんて分かっているのに。
私はもう何十年も前にここのスタッフとして働いていて、蒼真が怪我をすれば治療をしてきた。
退職を機にそれが叶わない事くらいわかっている。
それでも、ずっと蒼真の手を握っていてあげたかった。
本当は寂しがり屋の蒼真の手を。
「母さん」
蒼志が足を止め、麗華を振り返った。
「俺は中に入る」
「蒼志……」
「父さんの担当医だから」
蒼志は母の手を握った。
震えている。
それが母の手なのか、自分の手なのか分からなかった。
「蓮さんが来るまで、ここで待ってて」
「……分かった」
麗華は小さく頷き、蒼志の手を離した。
処置室の前では、現在の第一医療班長が待っていた。
「神代先生、こちらで引き継ぎます」
「俺も入る」
「……処置に入れますか」
蒼志は担架の上の父を見た。
医師ではなく息子としてなら、今すぐその手を握り、名前を呼び続けたい。
母が入れない以上、傍についててやりたかった。
父の病歴も、普段の呼吸状態も、薬の反応も、自分が一番よく知っている。
「入れます」
蒼志は父の手から指を離した。
「俺が担当医です」
白衣と手袋を受け取り、処置室へ入る。
扉が閉まる直前、麗華にはベッドを囲む医師たちと、その中へ向かっていく蒼志の背中が見えた。
やがて扉が完全に閉ざされる。
廊下に残された麗華は、処置室の前に並ぶ椅子へ座って待つことしか出来なかった。
中から慌ただしい声が聞こえてくるのが、やけに遠くに感じた。
「心電図、波形確認!」
「血圧、下がっています!」
「酸素濃度を上げて!」
その一つ一つの言葉が、麗華の胸を締め付ける。
両手を強く握り、俯いた。
大丈夫、蒼志がいる。
そして、この医療棟には、蒼真を何度も帰してきた人たちがいる。
今回も帰ってくる。と、何度も心の中で繰り返した。
それから間もなく、静かな廊下に走る足音が響いた。
「麗華さん!」
顔を上げると廊下の向こうから、蓮が走ってきた。
シャツの上から上着を羽織っただけで、髪も整っていない。
この場所へ何度も通った蓮は、案内を受けることもなく第一処置室へ辿り着いた。
「蒼真は」
「今、処置してる。蒼志も一緒に入ってる」
蓮は閉ざされた扉を見つめた。
扉の向こうから、心電図モニターの警告音が聞こえてくる。
何度も蒼真の帰りを待った扉だった。
若い頃から、何度も。
「心臓は」
「動いてる」
麗華が答えると蓮は一度だけ目を閉じ、短く息を吐いた。
「なら、帰ってくる」
そう言うと、蓮は処置室の扉の前に立った。
まるで蒼真が戻ってくる道を、そこで待つように。
処置室の中では、複数の医療スタッフが蒼真を囲んでいた。
衣服が開かれ、胸元へ心電図の電極が貼られる。
酸素マスクは、より高い濃度の酸素を送れるものへ交換された。
「心拍180。波形、不規則です」
「血圧、70台」
読み上げられる数値に、蒼志は心電図モニターを睨みつける。
速く、乱れた波形。
心臓は動いている。
だが、正常に血液を送り出すことができていない。
「神代補佐官、直近の不整脈発作は?」
「先月です。その時は数分で自然に戻っています。意識消失も血圧低下もありませんでした」
蒼志は父のカルテを開き、内服薬とこれまでの検査結果を確認する。
頭は冷静に動いていた。
必要な情報を伝え、次の処置を考える。
普段の仕事と何も変わらない。
ベッドに横たわっている患者が、自分の父親であること以外は。
「父さん、聞こえる?」
蒼志は蒼真の耳元へはっきりとした声で呼び掛けた。
反応はない。
「父さん」
頬へ触れると瞼が僅かに動いたが、目は開かなかった。
「薬剤投与します」
点滴から薬剤が入ると全員が心電図モニターを見つめた。
一秒。
二秒。
数秒経っても、乱れた波形は変わらない。
「心拍、変化ありません」
「血圧、更に低下」
「神代先生」
第一医療班長が蒼志を見る。
「薬剤だけでは厳しいです」
蒼志にも分かっていた。
血圧低下、意識障害、急性心不全これ以上待つ時間はない。
「同期下カルディオバージョンを行います」
第一医療班長の声が処置室へ響くと蒼志も頷いた。
看護師が除細動器を準備し、蒼真の胸へパッドを貼る。
蒼志は父の手を握った。
冷たい。
指先に力はなく、握り返してくることもない。
あんなに大きくて強かった手がこんなにも冷たいのが信じられない。
何度この手が頭を撫でてくれただろう。
幼い頃の朝、目覚めると必ず父は頭を撫でた。
朝の挨拶と共に頭に感じる大きな温かさがいつもの朝だった。
「父さん、今から心臓のリズムを戻す処置をするからね」
聞こえているかは分からない。
それでも、普段患者へ説明する時と同じように言葉を続けた。
「びっくりするかもしれないけど、大丈夫だからね」
蒼真の眉が僅かに動いた。
「……そう、し」
酸素マスクの奥から、掠れた声が聞こえた。
医師を呼んだのではない。
息子の名前だった。
蒼志の表情が止まる。
「父さん」
一瞬で、医師の声ではなくなった。
「俺、ここにいるよ」
蒼真の目は開かなかったが、蒼志の手を握る指が僅かに動いた。
「神代補佐官、離れてください」
第一医療班長の声がする。
蒼志は父の手を離せなかった。
この手を離した瞬間、そのまま父が遠くへ行ってしまう気がした。
「神代補佐官」
もう一度呼ばれると、蒼志は唇を強く噛み、父の手をベッドへ戻した。
父を助けるために、父から手を離して、一歩下がる。
「充電完了」
機械音が鳴る。
「全員、離れて」
スタッフ全員がベッドから手を離したことを確認する。
蒼志も両手を胸元へ引いた。
「通電します」
蒼真の身体が、ベッドの上で僅かに跳ねた。
心電図モニターの波形が大きく揺れて一瞬、線が途切れたように見えた。
蒼志は呼吸を止めて、モニターを見つめた。
頼む、戻ってくれ。
そう願いながら。
やがてモニターに、一つの波形が現れた。
次の波形、その次…先ほどまで乱れていた心拍が、ゆっくりと一定の間隔へ戻っていく。
「洞調律へ復帰」
誰かの声が聞こえた。
「心拍、下がっています」
「血圧、上昇し始めました」
蒼志は動けずモニターに表示される規則的な波形を見つめ続けた。
戻った。
父の脈が戻った。
「神代補佐官」
第一医療班長に呼ばれ、蒼志は我に返った。
「はい」
「呼吸状態の確認、お願いします」
蒼志はすぐに父の横へ戻り、聴診器を胸へ当てる。
肺の音は悪い。
心臓のリズムが戻っても、心不全はまだ残っている。
「肺鬱血、強いです。呼吸補助を継続。利尿薬を開始してください」
声は震えずに医師として、次の処置を指示できている。
酸素濃度を調整し、点滴と尿量を確認する。
少しずつ血圧が上がり、蒼真の指先にも僅かな温かさが戻り始めていた。
「父さん、聞こえる?」
蒼志がもう一度呼び掛けると、蒼真の瞼がゆっくりと開いた。
焦点の合わない目が天井を見つめ、やがて蒼志へ向く。
「父さん、分かる?」
蒼真は僅かに頷いた。
「心臓のリズム、戻ったから。今、呼吸を楽にする処置をしてるからね」
酸素マスクの奥で、蒼真の口元が小さく動く。
「……トイレ」
「は?」
「行こうと……してた」
蒼志は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「今はトイレの心配しなくていいから」
「行って……ない」
「知ってるよ」
「漏らして……ない?」
「大丈夫。漏らしてない」
こんな状態でも気にするところが父らしくて、蒼志は笑いそうになってしまった。
「だから安心して寝て」
蒼真は小さく息を吐いた。
それが笑ったのか、ただ呼吸をしただけなのかは分からなかった。
やがて蒼真は薬剤の影響と疲労に負け、再び目を閉じる。
今度は意識を失ったのではない。
モニターには規則的な心拍が表示され、呼吸も先ほどより深くなっていた。
「神代補佐官」
第一医療班長が静かに声を掛ける。
「ここからは私たちが管理します。集中治療室の準備もできています」
「でも——」
「状態は安定し始めています」
蒼志は眠る父を見る。
「担当医として、もちろん今後の治療もお任せします。…ただ今は、奥様と黒瀬さんに説明してきてください。黒瀬元補佐官、廊下走ってきたらしいですから」
その言葉に、悠真がちゃんと蓮に連絡を入れてくれたと安心した。
そして、蒼志は初めて自分の両手が震えていることに気付いた。
手袋を外そうとしても、指先に力が入らない。
何度目かでようやく外し、処置室の出口へ向かう。
扉の前で一度だけ振り返った。
父は生きている。
心電図モニターの音が、一定の間隔で鳴り続けている。
蒼志が扉を開けると、廊下では麗華と蓮が並んで座っていた。
二人が同時に蒼志を見つめた。
「蒼志」
母に名前を呼ばれて、蒼志は何かを言おうとした。
しかし、声が出なかった。
医師として説明しなければならない事は山ほどある。
状態と処置内容、今後の危険性を正確に伝えなければならない。
それなのに、二人の顔を見た瞬間、医師の顔を保てなくなった。
「……戻った」
ようやく出た声は震えていた。
「父さん、戻ったよ」
麗華が両手で口元を覆う。
膝から力が抜け、その場へ崩れそうになった麗華の身体を蓮が支えた。
蓮は麗華を支えながら、蒼志を見つめる。
「蒼真は生きてるんだな」
「はい」
「帰ってくるんだな」
蒼志は強く頷いた。
「帰します」
その言葉を口にした瞬間、張り詰めていたものが切れた蒼志は壁へ手をつき、俯いた。
震える手を握り締めても、もう止めることができなかった。
そんな様子を見て、蓮が蒼志の肩へ手を置く。
「よくやった」
たった一言だった。
そのたった一言が重かった。
蒼志は顔を上げられなかった。
泣きそうな顔を今、蓮や母に見せるわけにいかない。
処置室の向こうでは、今も父の心臓が動いている。
今回は戻せた。
自分の手で、父をこちら側へ連れ戻すことができた。
────だけど、現実は残酷だ。
次は連れ戻せる確証はない。
そして、連れ戻される事を父が望んでくれるのか。




