第95話 Not This Time
あの冬から、半年が過ぎた。
季節は夏を迎え、蒼真は64歳になっていた。
心不全と診断されてから薬が増え、毎朝の体重と血圧、酸素飽和度の測定が日課になった。
階段を使うことはなくなり、寝室も一階の和室へ移ったままだ。
みんなが作ってくれた背もたれに体を預けて本も読み続けられた。
それでも体調は少しずつ安定し、短い距離なら一人で歩ける。
調子が良い日は庭へ出て、蓮と作った鳥の巣箱を眺めることもできた。
以前と全く同じとは言えないけれど、蒼真も家族も、新しい日常に慣れ始めていた。
その夜も、いつもと変わらない夜だった。
開けた窓から、夏の生温い風が和室へ入り込んでいる。
────チリン……。
軒下に吊るされた風鈴が、時折小さな音を鳴らしていた。
蒼真は背もたれクッションへ身体を預け、静かに眠り、隣の布団では麗華が眠っている。
午前二時を少し過ぎた頃、蒼真は尿意を感じて目を覚ました。
「……」
枕元の時計を確認し、ゆっくりと身体を起こす。
利尿薬を飲むようになってから、夜中に目を覚ますことが増えた。
初めの頃は麗華を起こしていたが、最近は一人で歩けるからトイレへ行ける。
今日も起こす必要はない。
蒼真は眠る麗華を一度見ると、布団から足を出し、立ち上がった、その時だった。
胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。
「……っ」
一度。
二度。
不規則に脈が飛ぶその感覚は、いつもの不整脈だと思った。
少し座っていれば落ち着くはずと考えて、一度布団にゆっくり腰を下ろして呼吸を整える。
だが、脈は戻らなかった。
速い。
遅い。
一瞬止まったように感じた直後、胸を内側から叩かれるような激しい鼓動が続く。
「……またか…」
額に冷たい汗が滲んだ。
真夏の夜なのに、指先が冷たい。
胸が痛いわけではない。
それなのに身体から急速に力が抜けていく。
蒼真は無意識に胸元を押さえた。
鼻カニューレから酸素は流れている。
それでも、息が足りない。
深く吸おうとすると咳が出た。
「っ、ゴホ……」
蒼真は慌てて口元を押さえ、麗華を見た。
眠っている麗華を、起こしたくなかった。
大丈夫だ。
いつもの不整脈が、少し長いだけで、朝まで待てば蒼志に診てもらえる。
そう自分に言い聞かせ、蒼真は壁へ手をついて立ち上がった。
その瞬間、視界が暗くなった。
「……っ!」
咄嗟に倒れないように柱を掴んだ。
足元が大きく揺れたように感じたけれど、実際に揺れているのは自分の身体だった。
胸の鼓動は更に乱れ、呼吸は浅くなっていく。
蒼真は柱に身体を預けたまま、しばらく動けなかった。
布団へ戻るべきだ。
麗華を起こすべきだ。
頭では分かっている。
それでも、すぐそこにあるトイレへ行くだけで麗華を起こすことに抵抗があった。
「……行ける…大丈夫…」
掠れた声で呟き、廊下へ一歩踏み出した。
酸素チューブが静かに畳の上を滑る。
一歩。
また一歩。
壁へ手をつきながら、ゆっくりと進んだ。
トイレまでは数メートルしかない。
けれど、その数メートルが、どこまでも遠く感じた。
廊下の半分まで来たところで、突然、肺が空気を受け付けなくなった。
「……っ、は……」
蒼真は壁へ背中を預けた。
呼吸ができない。
喉が塞がっているわけでもないし、酸素も流れている。
それなのに、いくら吸っても身体の中へ酸素が入ってこない。
胸の中に水を注がれているような重苦しさが広がって、咳が込み上げる。
「ゴホッ……ゲホッ……!」
咳をするたびに心臓が暴れ、視界が白く点滅した。
蒼真は壁に手をついたまま、どうにか立っていようとしたけれど、指先に力が入らない。
壁を掴んでいた手が、ゆっくりと滑り落ちる。
………麗華。
名前を呼んだつもりだった。
けれど、声にはならなかった。
膝から力が抜け、蒼真の身体が廊下へ崩れ落ちる。
倒れた拍子に鼻カニューレが外れ、酸素チューブが床を跳ねた。
鈍い音が、静かな神代家に響く。
軒下の風鈴が、夏の風に揺れた。
「蒼真?」
和室から麗華の声が聞こえる。
返事をしようとしても、息が続かず声が出せない。
蒼真は床へ片手をつき、外れた鼻カニューレへ手を伸ばした。
だが、震える指は届かなかった。
「蒼真!」
慌てた足音が近づいてきた。
廊下へ飛び出してきた麗華は、床に倒れる蒼真を見て息を呑んだ。
「蒼真、聞こえる!?」
麗華が蒼真の身体を抱き起こし、外れていた鼻カニューレを戻す。
「……れい、か」
「喋らなくていい。蒼志を呼ぶから」
「大丈……夫」
「大丈夫じゃない!」
麗華の声は震えていた。
その声と物音に、二階から扉の開く音が聞こえた。
「母さん!?」
「どうしたの!?」
蒼志と悠真の声が聞こえた。
蒼真は2人の声を聞きながら、麗華の腕に支えられ浅い呼吸を繰り返した。
心臓は今も不規則に暴れている。
酸素を戻しても、息苦しさは消えない。
冷や汗が止まらない。
大丈夫だと言いたいのに、もう声を出すことさえできなかった。
「父さん!」
階段を駆け下りてきた蒼志と悠真は、廊下に倒れている父の姿を見た瞬間に表情を変えた。
「悠真、母さんと変わって。そのまま上半身を起こしてて。横にしないで」
「わかった」
悠真は麗華から蒼真の体を預かると、壁へ背中を預けさせ、倒れないように支えた。
蒼志は父の首元へ指を当てた。
速い。
それなのに脈の間隔は不規則で、時折触れなくなる。
「父さん、俺の声聞こえる?」
蒼真は僅かに頷いた。
「胸、痛い?」
首を横に振る。
「息が苦しい?」
今度は頷いた。
返事をするだけでも呼吸が乱れる。
いや、声を出す事が辛かった。
蒼志は和室へ駆け込み、医療鞄を持って戻ってきた。
パルスオキシメーターを父の指へ装着する。
表示された数値を見て、蒼志の顔から血の気が引いた。
「悠真……救急要請!不整脈、呼吸状態悪化!心不全の急性増悪!」
「分かった」
悠真はスマホを取りに一度2階に戻るため、麗華に蒼真の体を支えるのを変わってもらうと、階段を駆け上がった。
蒼志は鼻カニューレを外し、医療鞄から取り出した高濃度酸素マスクへ切り替えた。
総統を退任してから、そのマスクを見るのは久しぶりだった。
「父さん、マスクにするよ。ゆっくり吸って」
蒼真の口元へマスクを当て、酸素流量を上げる。
それでも胸は大きく上下し、呼吸のたびに喉からヒュッ…と苦しそうな音が漏れた。
「蒼志……」
「喋らないで」
「紬……起こすな」
こんな時まで孫の心配をする父に、蒼志は唇を噛んだ。
「分かった、渚が見てるから」
蒼真は安心したように目を閉じた。
「父さん、目を開けて」
蒼志がすぐに蒼真の頬へ触れる。
「眠らないで。俺を見て」
ゆっくりと瞼が開いていくが、焦点が合うまでに時間が掛かった。
「……蒼志が、いる」
酸素マスクの中で、掠れた声が聞こえた。
「いるよ。ずっといるから。母さんもいるから」
蒼志は父の手首を握ったまま、脈を確認し続ける。
速さは変わらない。
心臓が正常に血液を送り出せず、指先は冷たくなっていた。
「蒼真」
麗華が父のもう片方の手を握る。
「大丈夫だからね。すぐ救急車来るから」
蒼真は麗華の声へ反応し、僅かに顔を向けた。
「……ごめん」
「謝らないで」
「起こした」
「起こしていいの。こんな時は起こして」
麗華は蒼真の手を両手で包み込んだ。
「一人で行こうとしないでよ……」
声が震える。
それでも泣かなかった。
今泣けば、蒼真が自分を心配する。
麗華は何度も自分に言い聞かせ、夫の手を握り、体を支え続けた。
「父さん、呼吸に合わせて。ゆっくり吸って、吐いて」
蒼志が背中へ聴診器を当てる。
肺から聞こえる音は、前回より明らかに悪い。
心臓の乱れに、肺の鬱血が重なっている。
「……っ、ゴホッ!」
蒼真が激しく咳き込み、身体を前へ折った。
蒼志と麗華が両側から身体を支えた。
「父さん!」
「苦し……」
その一言すら最後まで続かなかった。
蒼真の身体から力が抜け、麗華の肩へ頭が落ちた。
「蒼真!?」
「父さん、聞こえる!?」
蒼志が頬を叩くが、反応がない。
だが、脈は触れている。
不規則で弱いが、心臓はまだ動いている。
「父さん!目を開けて!」
蒼志の呼び掛けに、蒼真の眉が僅かに動いた。
完全に意識を失ったわけではない。
それでも、声に応じて目を開けるだけの力が残っていなかった。
────これ以上、心配かけたくないのに。
目を開けて声を出して、大丈夫だ。って言いたいのに。
玄関の外から、救急車のサイレンが近づいてくる。
深夜の住宅街を切り裂くような音だった。
「来た!」
2階から階段を駆け下りた悠真が玄関を開けてくれた。
「こっちです! 廊下にいます!」
救急隊員が機材を持って神代家へ入ってくると蒼志は父の身体を支えたまま、簡潔に状態を伝えた。
「64歳。肺線維症、慢性呼吸不全、心不全、不整脈の既往。トイレへ向かう途中で倒れました。意識レベル低下。頻脈性の不整脈、酸素投与下でも低酸素状態です」
救急隊員が心電図モニターを装着する。
画面に表示された波形は大きく乱れていた。
「血圧、低下しています」
「すぐ搬送を」
担架が廊下へ運び込まれる。
身体を移される瞬間、蒼真の手が麗華の手から離れた。
「私も行きます」
麗華は迷わず立ち上がった。
「母さん、俺も乗る」
「蒼志」
悠真が呼び止める。
「蓮さんには俺から連絡する。紬は渚さんと俺が見てるから、父さんを頼む」
蒼志は一度だけ弟を見て、頷いた。
「頼んだ」
担架に乗せられた蒼真が玄関を通り過ぎる。
意識は戻らず酸素マスクの奥で、浅い呼吸だけが続いている。
麗華はその横を離れず、冷たくなった手を握り続けた。
救急車の扉が閉まる直前、夏の風が吹いた。
────チリン……。
軒下の風鈴が、暗い庭で小さく鳴った。
蒼真がいなくなった和室には、背もたれクッションと、乱れたままの布団だけが残されていた。




