第94話 A Place for You
医療棟へ到着すると、蒼志は迷わず車椅子を持ってきた。
一瞬、乗るのを蒼真は躊躇った。
でも、総統時代は殆ど車椅子を使っていたから医療棟で車椅子に乗っている姿を見られても、いつもの事だと受け入れてもらえると思い、素直に車椅子へ腰を下ろした。
座った瞬間、僅かに安堵した自分が腹立たしかった。
歩かなくていい。
呼吸を乱さずに済む。
そんなことに安心してしまうほど、身体は疲れていた。
既に蒼志から連絡を受けていたのか、検査はすぐに始まった。
採血、心電図、胸部画像、心臓超音波検査。
酸素流量を上げられ、点滴が繋がれる。
点滴は渚が入れてくれた。
蒼真は処置室のベッドへ上体を起こしたまま横になり、目を閉じていた。
完全に身体を倒すと息苦しい。
背もたれを上げた姿勢の方が、少しだけ呼吸が楽だった。
「入院になったら麗華に怒られるな……」
「心配するの間違いだろ、アホ」
隣の椅子に座っている蓮が呆れたように言った。
「出掛けてる間に入院したって知ったら、怒るだろ」
「怒るなら、隠した事をだろ」
「だから帰る」
「まだ結果も出てねぇ」
「処置終わったら帰る」
「お前が決めることじゃねぇよ」
「俺の身体だ」
「その身体の管理が出来てねぇから、ここにいんだろ」
「……うるせぇな」
蒼真は目を閉じたまま顔を背けた。
やがて利尿薬が効き始め、何度かトイレへ行くうちに足の重さが少しずつ和らいだ。
呼吸も朝よりは楽になっている。
数時間後、検査結果を持った蒼志と渚が処置室へ入ってきた。
2人の表情を見ただけで、良い話ではないことは分かってしまった。
「父さん…軽度だけど、心不全を起こしてる」
「やっぱりか」
驚いた様子もなく答える蒼真に、蒼志が眉を寄せる。
「分かってたの?」
「足が浮腫んで、息苦しいんだろ。なんとなくは」
「だったら、なんですぐ言わなかったの」
「寒さのせいかもしれなかっただろ」
「まだ言う?」
「蒼志、私も朝、見るべきだった…準備でバタバタしてて、ごめん」
「渚が謝る事じゃないよ。隠す父さんが悪いんだから」
夫婦のやり取りに蒼真はほんの少しだけ笑った。
自分達夫婦にこの2人も似てきた。
いや、少し違うけど。
この2人もちゃんと信頼で結ばれているのだと思えた。
だからこそ、渚は蒼志に謝る。
蒼志は検査結果へ視線を戻しながら口を開いた。
「不整脈と慢性的な呼吸不全で、前から心臓への負担は大きい状態だったから、今回は身体に水分が溜まって、肺にも軽い鬱血が出てる」
「入院か?」
蓮が尋ねた。
「本来であれば、少なくとも数日は入院して経過を見たい状態だけど────」
「嫌だ」
蒼真は蒼志の言葉を遮るように即答した。
「父さん」
「帰る」
「話を最後まで聞いて」
「処置して楽になった。酸素もある。家にはお前らも麗華もいる。医療者3人だぞ、入院する必要ないだろ」
「今は楽になったからって、夜も大丈夫とは限らないんだよ」
「じゃあ次は隠さない」
「父さん」
「入院はしない」
蒼真は蒼志の目を真っ直ぐに見た。
意地を張っているだけではなかった。
病院が嫌いだからでもない。
その目が、家へ帰りたいと言っていた。
蒼志には分かってしまった。
父がようやく手に入れた穏やかな日常。
麗華の淹れるコーヒーを飲み、蓮とくだらない話をして、孫たちの声を聞く生活。
その時間を、病室で失いたくないのだと。
「……家に帰ったら、絶対安静」
「分かった」
「二階に行くの、禁止」
「は?」
「階段は使わせない」
「寝室二階なんだけど」
「一階の和室で寝て」
「嫌だ」
「じゃあ入院」
蒼真は反論の逃げ道を奪われて、どう切り抜けるか考えた。
しかし、目だけは蒼志から逸らさなかった。
その様子を見て、蒼志は小さく息を吐く。
「酸素流量も指示された通りにする事。薬も飲んで体重と血圧、酸素飽和度も記録。少しでも呼吸苦が強くなったら、夜中でもここへ戻る。それを守ってくれるなら」
「……分かった」
「明日の朝、必ず再診」
「分かったって」
「蓮さんと必ず一緒にいて」
「なんで蓮とセットにすんだ」
「守れないなら今から入院」
「お前、そればっかりだな」
蒼真は苦笑いしながら言ったが、蒼志は笑わなかった。
父を帰すことが正しいのか、医師としては判断に迷っているからだ。
それでも自宅には医療機器があり、自分がいるし渚も看護師で母も医師の資格を持っている。
普通の家庭よりも緊急時の対応は出来る。
なら、父が望まないのに縛り付けるのは残酷だ。
処置後の数値は安定し、緊急性の高い異常も確認されず、厳しい条件を守ることを前提に、蒼志は翌朝の再診を条件として帰宅を認めた。
車椅子に腰掛ける蒼真は少しだけ俯いていた。
その姿を見て、蓮は何も言わず車椅子を押した。
外へ出ると、雪は止んでいた。
雲の切れ間から弱い冬の日差しが差し込み、積もった雪を照らしている。
「……帰れる」
車に乗ると蒼真が小さく呟いた。
「ああ」
蓮は短く答えた。
それだけで蒼真は安心したように目を閉じた。
神代家へ戻る頃には、辺りは薄暗くなっていた。
玄関の前には麗華が立っていた。
「ただいま」
蒼真が何事もなかったように言うと、麗華は返事をせず、車椅子に座る夫を見つめた。
怒っているのか、泣きそうなのか分からない顔だった。
「……ごめ────」
蒼真が先に謝ろうとすると、麗華は小さく息を吐き、蒼真の肩へ手を置いた。
「おかえり」
それだけ言って、玄関の扉を開けてくれた。
中へ入ると冷えた肩から上着を脱がせてくれる。
「入院しなくて大丈夫なの?」
「大丈夫」
「条件付きでね」
蒼真が答えると、後ろから蒼志が訂正した。
「蒼志、余計なこと言うな」
「父さんは信用できないから、全部母さんにも説明する」
「裏切り者」
「俺は担当医」
麗華は二人のやり取りに小さく笑った。
その笑顔を見て、蒼真はようやく肩の力を抜く。
家へ帰ってきた。
いつもの匂いがする。
リビングから紬の笑い声が聞こえる。
朝と同じ、神代家の日常がそこにあった。
しかし、麗華に車椅子を押されて和室へ入った蒼真は、敷かれている二組の布団を見て動きを止めた。
「……なんで二組あるんだよ」
「私も今日からここで寝るね」
「麗華までここじゃなくても…」
「私も階段、めんどくさいからちょうど良かった」
「嘘つけ」
「蒼真に言われたくない」
麗華はそう言いながら、窓際へ酸素濃縮器を置く場所を確認している。
サイドテーブルには測定器と薬を置けるよう、既に場所が空けられていた。
きっと、蒼志が連絡を入れたのだろう。
自分が帰るまでの間に準備してくれたのだろう。
楽しみにしていた華凛との予定を切り上げさせてしまったかもしれない。
「……ごめんな」
「謝らなくていいから、ちゃんと帰ってきて」
麗華は蒼真を見ず、手も止めずに答えたが、その声は僅かに震えていた。
蒼真は何も言えなくなり、敷かれた布団へ視線を落とす。
病院から家へ帰ってくることはできた。
けれど、もう二階の寝室へは戻れない。
蒼真の帰る場所はなくなったわけではない。
家族が今の蒼真に合わせて、その形を静かに変えてくれていた。
その日の夜。
蒼真は麗華に支えられながら、和室に敷かれた布団へ身体を横たえた。
「……っ」
背中が布団についた瞬間、胸の奥が圧迫され、息を吸っても空気が入ってこない。
苦しさに蒼真はすぐに身体を起こした。
「悪い……ちょっと待って」
片手を床につき、浅い呼吸を繰り返す。
横になっただけだった。
階段を上ったわけでも、長い距離を歩いたわけでもない。
それなのに、呼吸が戻らない。
麗華は何も言わず、蒼真の背中へ手を添えた。
「あ、そっか…横になると苦しいよね」
「……少し」
「蒼志呼ぶ?」
「呼ばなくていい」
「でも」
「上半身起こしてれば平気だから」
麗華は思い付いたように押し入れから枕と座布団を取り出すと、壁際へ重ねた。
その上へ大きなクッションを置き、蒼真の身体をゆっくりと預ける。
「どう?」
「もう少しだけ高さ欲しい…」
「これくらい?」
「ああ……楽」
ようやく呼吸が落ち着き、蒼真は目を閉じた。
背中のクッションは不安定で、少し身体を動かせば崩れてしまいそうだった。
麗華は蒼真の身体がずり落ちないよう、腰の両側にも小さなクッションを置く。
「これじゃ麗華の枕なくなるだろ」
「私は一つあれば寝られるから」
「押し入れに客用まだあったかも」
「じゃあ大丈夫ね」
麗華は何でもないことのように答えた。
蒼真は何か言おうとしたが、呼吸が楽になった安心感と一日の疲労に負け、目を閉じた。
しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
麗華は布団の隣へ座り、眠る蒼真を見つめ、夜中には何度もクッションが崩れていないか確認した。
────翌朝。
いつもより早目に神代家を訪れ、和室を覗いた蓮は、壁際へ積み重ねられた座布団とクッションを見て眉をひそめた。
「なんだ、これ」
「横になると苦しくなっちゃうから…」
麗華が小声で答える。
蒼真は背もたれへ身体を預けたまま、まだ眠っていた。
「崩れたら危ねぇだろ」
「そうなの。だから、ちゃんとした背もたれを買おうと思って」
蓮はしばらく積み重ねられたクッションを見つめると、和室を出て庭の物置へ向かった。
「蓮?」
「作る」
「え?」
「布団の上に置ける背もたれだろ。角度つけて、動かないようにすればいい」
物置から木材を運び出す音で、蒼真がゆっくり目を開けた。
「……朝からうるせぇな」
「起きたの?」
「蓮、何してんの」
「お前の巣作ってる」
庭から蓮の声が返ってくる。
「誰が鳥だ、クソ蓮」
「横になれねぇ鳥だろ」
「鳥は最初から横にならねぇよ」
「元気なら手伝え」
「病人に木材運ばせんな」
「都合のいい時だけ病人になるな」
いつもの言い争いに、麗華は小さく笑った。
蒼真が昨日より元気そうに見えて、麗華は少し安心した。
少し経ってから起きてきた蒼志と悠真も加わり、背もたれの角度を確認して組み立てていく。
「もう少し起こせるようにして。体調によって角度を変えたいから」
「注文多いな」
「父さんが安全に使えるものにしたいんです」
「だから作ってる」
「さすが蓮さん」
3人の声を聞きながら、蒼真は縁側のリクライニングチェアに座っていた。
手伝おうとはしなかった。
正確には、手伝えなかった。
少し動いただけで息が切れる自分が加われば、作業を止めてしまう。
でも、自分の為の物を作ってくれて居るのを遠くで見ているのは嫌だった。
だから黙って、蓮と悠真が木材を組み上げていく様子を見ていた。
麗華は完成した土台の大きさに合わせ、厚手のクッションへ新しいカバーを掛けてくれ、背中が痛くならないよう中綿を足し、ずれないよう土台へ固定する。
「出来たぞ」
蓮が完成した背もたれを和室へ運び込み、布団の上に置き、蒼志が角度を調整する。
「父さん、座ってみて」
蒼真はゆっくりと腰を下ろそうと動くと、悠真が自然と背中を支えてくれた。
布団に腰を起こして、背もたれに体を預けると、昨夜のようにクッションが沈んだり、身体が傾いたりしない。
しっかりと支えられている。
「少し倒す?」
「いや……これくらいが楽」
蒼志は呼吸状態を確認しながら、腰の横と膝の下にもクッションを置いてくれた。
「苦しくない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「これは本当」
蒼真が笑うと蓮は腕を組み、完成した背もたれを眺めた。
「巣箱より簡単だった」
「だから俺を鳥扱いすんな」
「文句あるなら使うな」
「使うに決まってんだろ」
当たり前のように答えると、蒼真は背もたれへ深く身体を預けた。
麗華が膝へ毛布を掛け隣に寄り添ってくれた。
しばらくすると、蒼真の瞼がゆっくりと閉じていった。
呼吸は穏やかだった。
昨夜よりも深く、苦しそうな音も聞こえない。
「眠ったね」
麗華が小さな声で言った。
蓮は返事をせず、背もたれに身体を預けて眠る蒼真を見つめた。
夏は二人で鳥の巣箱を作った。
今度は蓮と息子達が蒼真のために居場所を作った。
弱っていく身体でも、安心して眠れる場所。
神代家は今日も、蒼真が帰っていられる形へ静かに姿を変えていた。




