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帰る場所を守るために―国家災害統括特殊救助機関 "暁" の継承者達―  作者: HANA
第8章 まだ見たい景色

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第93話 My Body Won’t Listen

電話を切ってから20分後、玄関の扉が開く音がした。

「父さん!」

慌ただしい足音と共に、蒼志がリビングへ入ってくる。

仕事を抜けてきたのだろう。

暁の制服姿のまま、片手には普段から持ち歩いている医療鞄が握られていた。


「そんな大声出すなよ」

ソファに座る蒼真は、いつもと変わらない顔で答えた。

少なくとも、本人はそのつもりだった。

蒼志は返事をせず、父の前へ膝をつき、顔色、呼吸の深さ、肩の動き、鼻カニューレから流れる酸素を一目見ただけで、蓮が連絡してきた理由が分かった。

「いつから?」

「朝」

「症状は」

「少しだるいだけ」

「父さん」

蒼志の低いその声に蒼真は小さく息を吐いた。

「階段下りたら、いつもより息切れした。あと、足が少し浮腫んでる」

「胸は痛くない?」

「痛くない」

「動悸は?」

「いつもと変わらない」

「目眩、吐き気は?」

「ない」

蒼志は医療鞄からパルスオキシメーターを取り出し、父の指へ装着した。

数字が表示されるまでの数秒が、いつもより長く感じられた。

「……低いな」

「いつもと大して変わらねぇだろ」

「いつもの父さんなら、この酸素量でもう少し高い」

「寒いからじゃね?」

「寒いせいになんでもしてるでしょ」

蒼志が蓮を見るとダイニングの椅子に座ったまま、無言で頷いた。


「余計なこと言うなよ」

「俺は何も言ってねぇ」

「顔が言ってんだよ」

いつものやり取りだったが、蒼真の声には普段のような力がない。

言い返しただけで呼吸が浅くなり、肩が僅かに上下するその変化を蒼志は見逃さなかった。


「喋らなくていいから、ゆっくり呼吸して」

「普通に喋れる」

「いいから」

蒼志は酸素の流量を確認してから、聴診器を取り出した。

「背中向けられる?」

「子供扱いすんなよ」

そう言いながら蒼真は身体を起こそうと、ソファの背もたれから離れた瞬間、身体が僅かに揺れた。

蓮がすぐに腕を伸ばし、蒼真の肩を支えた。


「触んな。自分で出来る」

「出来てから言え」

「うるせぇ」

蒼真は蓮の手を振り払おうとしたが、今度は蓮も手を離さなかった。

蒼志は何も言わず、父の背中へ聴診器を当てる。


ゆっくり吸って。

吐いて。

もう一度。

蒼真の呼吸に合わせ、聴診器の位置を変えていく。


以前から聞こえていた肺線維症特有の細かな音に、今日は普段とは違う音が混ざっていた。

蒼志の表情が僅かに曇る。

「父さん、横になると苦しい?」

「分かんねぇ」

「今日は一度も横になってない?」

蒼真は少し考えた。

確かに朝からずっと座ったままだった。

横になろうと思わなかったわけではない。

ただ、背もたれから身体を離すと息が苦しくなる気がして、無意識にこの姿勢を選んでいた。

その沈黙を、蒼志は肯定として受け取った。


「足、見せて」

「蓮にも見せた」

「俺は医者」

「面倒くせぇな」

「誰のせいですか」

蒼志はパジャマの裾を上げ、浮腫みの程度を確かめる。

指で押した皮膚が、ほんの僅かだがすぐには元へ戻らない。

家族なら見落とす程度で、蒼真も普段なら気にしなかっただろう。

だが、呼吸苦と倦怠感が同時に出ている以上、無視はできない。


「医療棟、行こう」

蒼志が静かに言った。

「嫌だ」

返事だけは早かった。

「検査するだけだから」

「先週もしただろ」

「先週は今日の症状がなかった」

「少し休めば治る」

「その判断をするために検査するんだよ」

「今日は麗華も出掛けてるし、大袈裟にしたくねぇんだよ」

その言葉に蒼志の手が止まった。

「母さんに言わなかったの?」

「華凛と出掛けるの、楽しみにしてたから」

「だからって——」

「こんなことで呼び戻したら、もう出掛けなくなるだろ」


蒼志は何も言えなかった。

父らしいと思った。

自分が少し苦しい程度なら、家族の日常を守ることを選ぶ。

母が華凛と2人で出掛けるのは確かに昨日から楽しみにしていた。

父は母の楽しみを奪いたくなかったのだ。

けれどその身体はもう、父の無理を許してはくれない。


「父さん」

蒼志は父の目を見つめた。

「母さんの日常を守りたいなら、ちゃんと検査を受けて」

「……」

「黙って悪化させる方が、母さんは一番怒るよ」

蒼真はしばらく蒼志を見つめていた。

やがて諦めたように目を閉じ、ソファへ深く身体を預ける。

「……蓮」

「なんだ」

「お前、余計なことしやがって」

「知るか」

「帰ってきたらアイロン掛けさせるからな」

「帰ってきてから言え」

蓮のその言葉に、蒼真はゆっくりと目を開けた。

蒼志が蓮を見ると、蓮は蒼真から視線を逸らさなかった。


「行くぞ、蒼真」

静かな声だった。

かつて何度も、現場から蒼真を連れ帰った声。

今度はその声に逆らわず、蒼真は小さく息を吐いた。

「……分かったよ」

その返事を聞き、蒼志は立ち上がった。

「車、玄関の前に回してくる。蓮さん、父さんの上着お願いします」

「ああ」

「自分で取ってくる」

蒼真がソファから立ち上がろうと、両手を座面について身体を持ち上げた瞬間、視界が僅かに揺れた。

「……っ」

膝から力が抜けて、床へ倒れるより先に、蓮が蒼真の腕を掴んだ。

「何してんだ、馬鹿」

「立っただけだろ」

「立ててねぇだろ」

「ちょっとふらついただけだ」


蒼真は蓮の手を振り払おうとした。

だが、蓮は離さない。

蒼真が自分で立てるまで、黙って腕を支えていた。


「父さん、座ってて」

「自分の事くらい自分で出来る」

「今はわざわざ二階へ行く必要はないでしょ」

「……」

「俺が持ってくるから」

蒼志はそれだけ言うと、足早にリビングを出ていった。

蒼真は再びソファへ腰を下ろした。

立ち上がっただけなのに、呼吸が乱れていた。

鼻カニューレから流れてくる酸素を吸い込んでも、息苦しさはすぐには消えてくれない。

蓮は蒼真の隣へ座った。

何も言わず、呼吸が落ち着くのを待っている。


「……見るなよ」

「見てねぇ」

「見てんだろ」

「お前が勝手に視界に入ってんだよ」

蒼真は小さく笑ったが、今度は笑い続けなかった。

笑えばまた息が乱れる。

そんなことを考えて笑うのを止めた自分に、蒼真自身が一番驚いていた。

今までだって、息が苦しい日はあった。

酸素量を増やして過ごす日も、体調が悪くて一日中横になる日もあった。


それでも笑うことまで我慢したことはなかった。


「蒼真」

蓮に呼ばれ、顔を上げる。

「怖いか」

「……何が」

「身体が思うように動かねぇの」

蒼真はすぐには答えなかった。

窓の外では、昨夜から降り続いた雪が庭を白く染めている。

蓮と作った鳥の巣箱にも、薄く雪が積もっていた。

庭の雪を眺めながら蒼真は数秒黙り、ゆっくりと口を開いた。


「別に」


ようやく出てきた言葉は、いつもの強がりだった。

「何回も経験してる」

「そうか」

「その度に戻ってきただろ」

「ああ」

蓮は否定しなかった。

大丈夫だとも言わずただ、蒼真の隣に座ったまま短く答えた。

やがて蒼志が、厚手の上着と予備の携帯酸素を持って戻ってきた。


「立てそう?」

「余裕」

「じゃあ、ゆっくり。急がなくていいから」

「お前ら、本当に年寄り扱いするよな」

「年寄りだろ」

「蓮も同い年だろうが」

「俺は立てる」

「腹立つな、お前」

いつものように言い返しながら、蒼真はソファの肘掛けに手を置いた。

蓮が左側に立ち、蒼志が右側へ回る。

「一人で立てるって」

「知ってる」

「じゃあ離れろよ」

「立ってから言え」

蒼真は不満そうに眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。

ゆっくりと身体を前へ傾け、両足へ力を入れる。

今度は立ち上がることができた。

けれど、一歩を踏み出すまでに時間が掛かった。


足が重い。

床に張り付いているようだった。

玄関までは十数メートルもない。

いつもなら何も考えずに歩ける距離なのに、その途中で蒼真は二度足を止めた。

息を整え、また歩き出す。

蓮も蒼志も急かさなかった。

支えようと手を伸ばすこともせず、いつでも掴める距離を保って歩いている。

それが余計に、自分の身体がいつもとは違うことを蒼真に突きつけていた。

玄関へ辿り着く頃には、額に汗が滲んでいた。


「少し休む?」

蒼志が聞く。

「いい」

「でも——」

「車に乗れば座れるだろ」

蒼真は壁へ手をつきながら靴を履こうとした。

屈んだ瞬間、胸が圧迫されて呼吸が止まりそうになった感覚に、慌てて身体を起こし、壁へ背中を預けた。


「……っ、は……」

「父さん」

蒼志がすぐに身体を支える。

蓮は何も言わずに蒼真の靴を手に取ると、その場へ片膝をついた。

「おい」

「足出せ」

「自分で履ける」

「履けてねぇから言ってんだよ」

蓮は蒼真の返事を待たず、靴を履かせた。


蒼真は何も言えなかった。

息が苦しいからではない。

蓮に靴を履かせてもらっている自分を、どう受け止めればいいのか分からなかった。


「……悪い」

掠れた声で呟くと蓮の手が一瞬だけ止まった。

「何が」

「別に」

「じゃあ黙ってろ」

蓮はいつもと変わらない声で答え、もう片方の靴を履かせた。

玄関の外では、先に玄関を出た蒼志が回してきた車のエンジン音が響いている。

冷たい空気が入り込み、蒼真は小さく身体を震わせた。


寒さのせいだ。

低気圧のせいだ。

歳のせいだ。

朝から何度も繰り返してきた言葉を、もう一度心の中で並べる。


だが、今度は自分でも信じることができなかった。


自分の意志と身体が噛み合ってくれなくなっている。


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