第93話 My Body Won’t Listen
電話を切ってから20分後、玄関の扉が開く音がした。
「父さん!」
慌ただしい足音と共に、蒼志がリビングへ入ってくる。
仕事を抜けてきたのだろう。
暁の制服姿のまま、片手には普段から持ち歩いている医療鞄が握られていた。
「そんな大声出すなよ」
ソファに座る蒼真は、いつもと変わらない顔で答えた。
少なくとも、本人はそのつもりだった。
蒼志は返事をせず、父の前へ膝をつき、顔色、呼吸の深さ、肩の動き、鼻カニューレから流れる酸素を一目見ただけで、蓮が連絡してきた理由が分かった。
「いつから?」
「朝」
「症状は」
「少しだるいだけ」
「父さん」
蒼志の低いその声に蒼真は小さく息を吐いた。
「階段下りたら、いつもより息切れした。あと、足が少し浮腫んでる」
「胸は痛くない?」
「痛くない」
「動悸は?」
「いつもと変わらない」
「目眩、吐き気は?」
「ない」
蒼志は医療鞄からパルスオキシメーターを取り出し、父の指へ装着した。
数字が表示されるまでの数秒が、いつもより長く感じられた。
「……低いな」
「いつもと大して変わらねぇだろ」
「いつもの父さんなら、この酸素量でもう少し高い」
「寒いからじゃね?」
「寒いせいになんでもしてるでしょ」
蒼志が蓮を見るとダイニングの椅子に座ったまま、無言で頷いた。
「余計なこと言うなよ」
「俺は何も言ってねぇ」
「顔が言ってんだよ」
いつものやり取りだったが、蒼真の声には普段のような力がない。
言い返しただけで呼吸が浅くなり、肩が僅かに上下するその変化を蒼志は見逃さなかった。
「喋らなくていいから、ゆっくり呼吸して」
「普通に喋れる」
「いいから」
蒼志は酸素の流量を確認してから、聴診器を取り出した。
「背中向けられる?」
「子供扱いすんなよ」
そう言いながら蒼真は身体を起こそうと、ソファの背もたれから離れた瞬間、身体が僅かに揺れた。
蓮がすぐに腕を伸ばし、蒼真の肩を支えた。
「触んな。自分で出来る」
「出来てから言え」
「うるせぇ」
蒼真は蓮の手を振り払おうとしたが、今度は蓮も手を離さなかった。
蒼志は何も言わず、父の背中へ聴診器を当てる。
ゆっくり吸って。
吐いて。
もう一度。
蒼真の呼吸に合わせ、聴診器の位置を変えていく。
以前から聞こえていた肺線維症特有の細かな音に、今日は普段とは違う音が混ざっていた。
蒼志の表情が僅かに曇る。
「父さん、横になると苦しい?」
「分かんねぇ」
「今日は一度も横になってない?」
蒼真は少し考えた。
確かに朝からずっと座ったままだった。
横になろうと思わなかったわけではない。
ただ、背もたれから身体を離すと息が苦しくなる気がして、無意識にこの姿勢を選んでいた。
その沈黙を、蒼志は肯定として受け取った。
「足、見せて」
「蓮にも見せた」
「俺は医者」
「面倒くせぇな」
「誰のせいですか」
蒼志はパジャマの裾を上げ、浮腫みの程度を確かめる。
指で押した皮膚が、ほんの僅かだがすぐには元へ戻らない。
家族なら見落とす程度で、蒼真も普段なら気にしなかっただろう。
だが、呼吸苦と倦怠感が同時に出ている以上、無視はできない。
「医療棟、行こう」
蒼志が静かに言った。
「嫌だ」
返事だけは早かった。
「検査するだけだから」
「先週もしただろ」
「先週は今日の症状がなかった」
「少し休めば治る」
「その判断をするために検査するんだよ」
「今日は麗華も出掛けてるし、大袈裟にしたくねぇんだよ」
その言葉に蒼志の手が止まった。
「母さんに言わなかったの?」
「華凛と出掛けるの、楽しみにしてたから」
「だからって——」
「こんなことで呼び戻したら、もう出掛けなくなるだろ」
蒼志は何も言えなかった。
父らしいと思った。
自分が少し苦しい程度なら、家族の日常を守ることを選ぶ。
母が華凛と2人で出掛けるのは確かに昨日から楽しみにしていた。
父は母の楽しみを奪いたくなかったのだ。
けれどその身体はもう、父の無理を許してはくれない。
「父さん」
蒼志は父の目を見つめた。
「母さんの日常を守りたいなら、ちゃんと検査を受けて」
「……」
「黙って悪化させる方が、母さんは一番怒るよ」
蒼真はしばらく蒼志を見つめていた。
やがて諦めたように目を閉じ、ソファへ深く身体を預ける。
「……蓮」
「なんだ」
「お前、余計なことしやがって」
「知るか」
「帰ってきたらアイロン掛けさせるからな」
「帰ってきてから言え」
蓮のその言葉に、蒼真はゆっくりと目を開けた。
蒼志が蓮を見ると、蓮は蒼真から視線を逸らさなかった。
「行くぞ、蒼真」
静かな声だった。
かつて何度も、現場から蒼真を連れ帰った声。
今度はその声に逆らわず、蒼真は小さく息を吐いた。
「……分かったよ」
その返事を聞き、蒼志は立ち上がった。
「車、玄関の前に回してくる。蓮さん、父さんの上着お願いします」
「ああ」
「自分で取ってくる」
蒼真がソファから立ち上がろうと、両手を座面について身体を持ち上げた瞬間、視界が僅かに揺れた。
「……っ」
膝から力が抜けて、床へ倒れるより先に、蓮が蒼真の腕を掴んだ。
「何してんだ、馬鹿」
「立っただけだろ」
「立ててねぇだろ」
「ちょっとふらついただけだ」
蒼真は蓮の手を振り払おうとした。
だが、蓮は離さない。
蒼真が自分で立てるまで、黙って腕を支えていた。
「父さん、座ってて」
「自分の事くらい自分で出来る」
「今はわざわざ二階へ行く必要はないでしょ」
「……」
「俺が持ってくるから」
蒼志はそれだけ言うと、足早にリビングを出ていった。
蒼真は再びソファへ腰を下ろした。
立ち上がっただけなのに、呼吸が乱れていた。
鼻カニューレから流れてくる酸素を吸い込んでも、息苦しさはすぐには消えてくれない。
蓮は蒼真の隣へ座った。
何も言わず、呼吸が落ち着くのを待っている。
「……見るなよ」
「見てねぇ」
「見てんだろ」
「お前が勝手に視界に入ってんだよ」
蒼真は小さく笑ったが、今度は笑い続けなかった。
笑えばまた息が乱れる。
そんなことを考えて笑うのを止めた自分に、蒼真自身が一番驚いていた。
今までだって、息が苦しい日はあった。
酸素量を増やして過ごす日も、体調が悪くて一日中横になる日もあった。
それでも笑うことまで我慢したことはなかった。
「蒼真」
蓮に呼ばれ、顔を上げる。
「怖いか」
「……何が」
「身体が思うように動かねぇの」
蒼真はすぐには答えなかった。
窓の外では、昨夜から降り続いた雪が庭を白く染めている。
蓮と作った鳥の巣箱にも、薄く雪が積もっていた。
庭の雪を眺めながら蒼真は数秒黙り、ゆっくりと口を開いた。
「別に」
ようやく出てきた言葉は、いつもの強がりだった。
「何回も経験してる」
「そうか」
「その度に戻ってきただろ」
「ああ」
蓮は否定しなかった。
大丈夫だとも言わずただ、蒼真の隣に座ったまま短く答えた。
やがて蒼志が、厚手の上着と予備の携帯酸素を持って戻ってきた。
「立てそう?」
「余裕」
「じゃあ、ゆっくり。急がなくていいから」
「お前ら、本当に年寄り扱いするよな」
「年寄りだろ」
「蓮も同い年だろうが」
「俺は立てる」
「腹立つな、お前」
いつものように言い返しながら、蒼真はソファの肘掛けに手を置いた。
蓮が左側に立ち、蒼志が右側へ回る。
「一人で立てるって」
「知ってる」
「じゃあ離れろよ」
「立ってから言え」
蒼真は不満そうに眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
ゆっくりと身体を前へ傾け、両足へ力を入れる。
今度は立ち上がることができた。
けれど、一歩を踏み出すまでに時間が掛かった。
足が重い。
床に張り付いているようだった。
玄関までは十数メートルもない。
いつもなら何も考えずに歩ける距離なのに、その途中で蒼真は二度足を止めた。
息を整え、また歩き出す。
蓮も蒼志も急かさなかった。
支えようと手を伸ばすこともせず、いつでも掴める距離を保って歩いている。
それが余計に、自分の身体がいつもとは違うことを蒼真に突きつけていた。
玄関へ辿り着く頃には、額に汗が滲んでいた。
「少し休む?」
蒼志が聞く。
「いい」
「でも——」
「車に乗れば座れるだろ」
蒼真は壁へ手をつきながら靴を履こうとした。
屈んだ瞬間、胸が圧迫されて呼吸が止まりそうになった感覚に、慌てて身体を起こし、壁へ背中を預けた。
「……っ、は……」
「父さん」
蒼志がすぐに身体を支える。
蓮は何も言わずに蒼真の靴を手に取ると、その場へ片膝をついた。
「おい」
「足出せ」
「自分で履ける」
「履けてねぇから言ってんだよ」
蓮は蒼真の返事を待たず、靴を履かせた。
蒼真は何も言えなかった。
息が苦しいからではない。
蓮に靴を履かせてもらっている自分を、どう受け止めればいいのか分からなかった。
「……悪い」
掠れた声で呟くと蓮の手が一瞬だけ止まった。
「何が」
「別に」
「じゃあ黙ってろ」
蓮はいつもと変わらない声で答え、もう片方の靴を履かせた。
玄関の外では、先に玄関を出た蒼志が回してきた車のエンジン音が響いている。
冷たい空気が入り込み、蒼真は小さく身体を震わせた。
寒さのせいだ。
低気圧のせいだ。
歳のせいだ。
朝から何度も繰り返してきた言葉を、もう一度心の中で並べる。
だが、今度は自分でも信じることができなかった。
自分の意志と身体が噛み合ってくれなくなっている。




