第92話 A Little Different
いつもと同じ朝だ。
1階のリビングからコーヒーの香りが漂ってくる。
朝の慌ただしい準備の声が聞こえてくる。
「悠真おじちゃん、なんで先に洗面所使うの!!」
「ごめんって紬ー!」
総統様が小学生に怒られているな。と思いながら、蒼真は布団の中で目を開けた。
起き上がろうとして、身体が起こせなかった。
———起きたばっかりなのに…身体がだるい。
まるで1日中、現場を走り回って泥まみれで床に突っ伏して寝てしまった夜のように。
寒さのせいだろうか…。
季節は冬を迎えていた。
雪はそんなに降らない町だが、気温はそれなりに下がる。
そういえば、昨日は大雪警報が出ていたから低気圧で雪が降って、そのせいでだるいのかもしれない。
そんな事を思いながら、身体を無理やり起こした時だった。
ベッドから降ろした足にふと目を向けた。
「あれ……」
足の甲が少し浮腫んでいる。
きっと、年齢のせいだ。
運動らしい運動もしていないし、浮腫んでいても不思議じゃない。
そう思ってゆっくりと立ち上がった時、部屋に麗華がやってきた。
「蒼真、具合でも悪い?」
「いや……大丈夫だよ」
いつもより遅い起床時間に麗華が心配したのだろう。
「そう…今日、寒いからカーディガン着ておいで」
「……うん」
麗華が用意してくれたカーディガンに袖を通し、鼻カニューレが外れていないことを確認して、寝室を出ると、いつもと変わらない神代家の朝があった。
階下から食器の触れ合う音が聞こえる。
紬と悠真の言い争う声に、渚の呆れた声が混ざっていた。
蒼真は小さく笑いながら、ゆっくりと階段を下り始めた。
一段。
また一段。
いつもなら何も考えずに下りられる階段だった。
それなのに、半分ほど下りたところで息が上がった。
「……っ」
蒼真は足を止め、手すりを握る。
鼻カニューレから酸素は流れている。
胸が痛いわけではないし、激しい動悸があるわけでもない。
ただ、息が足りなかった。
深く吸おうとしても、肺の奥まで空気が入ってこない。
いつもの呼吸苦とは少しだけ違う気はした。
だけど、本当に僅かな感覚だった。
まるで胸の中に薄い膜でも張られているようだった。
「……寒いからか」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
冬の冷たい空気に気管支が驚いただけで、起きたばかりで身体がまだ動いていないからだ。
少し待てば落ち着く。
そう思い、手すりに身体を預けながら呼吸を整えた。
数十秒ほどすると、息苦しさは少しずつ和らいでいった。
蒼真は何事もなかったように、残りの階段を下りきった。
だけど最後の一段を下りた時には、額に薄く汗が滲んでいた。
「おはよう、父さん」
リビングから顔を出した悠真が声を掛ける。
「……おはよ」
「今日遅かったね。珍しい」
「寒くて布団から出られなかった」
「父さんでもそんなことあるんだ」
「俺をなんだと思ってんだよ」
蒼真はいつものように返しながらリビングへ向かった。
ほんの数メートル。
それだけの距離なのに、ソファへ辿り着く頃には再び呼吸が浅くなっていた。
誰にも気付かれないよう、ゆっくりと腰を下ろす。
背もたれに身体を預けると、ようやく息を吐くことができた。
「おじいちゃん、おはよう!」
洗面所から戻ってきた紬が蒼真の前へ駆けてきた。
「おはよう。悠真に洗面所取られたんだって?」
「そう! 総統なのに順番も守れないの!」
「最低だな」
「父さんまで言うなよ!」
悠真の声に神代家に笑いが起きた。
蒼真もつられて笑った。
だけど笑った途端、呼吸が乱れた。
咳き込むほどではない。
声が途切れるほどでもない。
ただ、次の息を吸うまでに、いつもより少し時間が掛かった。
「蒼真」
麗華がテーブルへコーヒーを置きながら、蒼真の顔を見た。
「なに?」
「顔色悪くない?」
「起きたばっかりだからだろ」
「そう?」
「寒いし」
蒼真はそう答え、差し出されたカップへ手を伸ばした。
いつもと同じ香りだった。
毎朝飲んでいる、麗華が淹れたコーヒー。
カップを持ち上げようとして、指先に思うように力が入らなかった。
いつもより右手が震えている。
僅かに揺れた水面を見て、蒼真は両手でカップを包み込む。
「……」
身体が重い。
階段を下りただけで息が切れる。
足も浮腫んでいる。
いつもとは違う。
そう思いながらも、口にすることはできなかった。
言えば、みんなが心配して不安な顔をする。
いつもの朝を壊したくない。
みんなの笑顔を奪いたくない。
少し休めば、きっと元に戻る。
大袈裟に騒がれることの方が嫌だ。
「父さん、今日なんか予定ある?」
悠真に聞かれ、蒼真はカップを持ったまま顔を上げた。
「ない」
「じゃあ、ゆっくりしてれば?」
「最初からそのつもり」
いつも通りの声で答えたつもりだった。
けれど、麗華は何も言わずに蒼真を見つめていた。
長年一緒にいる妻の目は誤魔化せない。
蒼真はその視線から逃げるように、コーヒーへ口をつけた。
「……美味い」
麗華は少しだけ眉を下げた。
「今日は本当に、ゆっくりしててね」
「分かってるよ」
穏やかな朝だった。
紬は朝食を食べながら学校の話をしている。
悠真は今日の予定を確認し、渚は慌ただしく弁当を用意している。
そんな中で蒼志が寝ぼけた顔をしながらようやく起きてきて、渚に叱られている。
昨日までと何も変わらない。
その中で蒼真だけが、カップを持ったまま静かに呼吸を整えていた。
「お前、なんでパジャマのままなんだよ」
いつもの朝の喧騒が通り過ぎた午前10時。
麗華も今日は華凛と出掛けると話していて、大人しくしててね。と釘をさされた。
言いつけを守って、ソファに座って本をいつも通り読んでいたら、いつも通りに蓮がやってきた。
「寒いから動きたくねぇ」
「冬眠のクマかよ」
そう言うと蓮はキッチンに入り、勝手に2人分のコーヒーを淹れ始めた。
———嘘をついた。
動きたくないのは寒いからじゃない。
着替えに行くのに階段を登れば、きっとまた息が切れる。
だから、めんどくさくて、寒いせいにした。
「俺のいらねぇぞ」
「いつも飲んでんだろ。寒いなら飲めよ」
「いや、起きてから2杯飲んだ」
———それも、嘘だ。
蓮からマグカップを受け取れば、手の震えが強いことがバレてしまう。
蓮にバレたら、即、蒼志に連絡されてしまう。
だから、とりとめのない会話をして蒼真は本に視線を戻した。
蓮はダイニングの椅子に座り、蒼真を見ていた。
何を話すでもない。
2人でいるときはだいたいこんな時間が流れる。
しかし、蓮はその時、蒼真の違和感を見抜いていた。
——呼吸が浅い。
昨日より明らかに呼吸が浅く、肩も上下していて、顔色が悪い。
そして、いつもならソファに横になったりして本を読むのに、座ったままだ。
でも、たまたまかもしれないと、そう思いながら蓮はコーヒーを口にした。
「蒼真」
「ん」
「アイロン掛けねぇのか」
「……後でやる」
本に視線を落としたまま、蒼真が答えた。
いつもの蒼真なら、すぐに立ち上がってアイロンがけの準備をする。
後で、などと言うことはほとんどなかった。
「今やれ」
「寒いから嫌だ」
「俺が準備するからやれ」
「嫌だ、後でやる」
「やれ」
「うるせぇな、本読んでんだからほっとけよ」
蒼真の返事は早かった。
蓮はマグカップをテーブルへ置くと、黙って蒼真を見つめた。
蒼真は本から顔を上げようとしなかった。
ページを捲ろうとした右手が、僅かに震えているのが蓮の場所からでも分かった。
しかし、それを隠すように蒼真はすぐに左手を添えた。
「お前、手どうした」
「なにが?」
「震えてる」
「寒いからだろ」
また、寒さのせいにした。
蓮は何も答えず椅子から立ち上がると、蒼真の前まで歩いてきた。
「立て」
「は?」
「いいから立て」
「なんでだよ」
「立て」
「意味分かんねぇよ」
蒼真はいつものように睨み返してくるのに、立ち上がろうとはしない。
蓮はしばらく蒼真を見下ろしていた。
蒼真は本を閉じると持ったまま、蓮から視線を逸らさない。
静かな睨み合いが続いた。
先に目を逸らしたのは蒼真だった。
「……今日は、ちょっとだるい」
観念したようにようやく出てきた言葉は、それだけだった。
「いつからだ」
「朝から」
「他は」
「別に」
「嘘つけ。呼吸が浅い。顔色も悪い。手も震えてる」
「寒いから——」
「それ以外で答えろ」
低い声だった。
怒鳴っているわけではない。
責めているわけでもない。
ただ、逃がすつもりがないことだけは分かった。
蒼真は本をサイドテーブルへ置いた。
「階段下りただけで、いつもより少し息切れした」
「少しじゃねぇだろ」
「今は落ち着いてる」
「足は」
「……なんで」
「いいから見せろ」
蒼真は何も言わなかったが、その沈黙だけで蓮には十分だった。
蓮が蒼真の足元へ視線を落とすと、パジャマの裾から覗く足の甲が、僅かに浮腫んでいた。
「蒼志に連絡する」
「やめろ」
蓮がスマートフォンを取り出した瞬間、蒼真がその手を掴んだ。
だが、力が弱い。
止めようと思えば簡単に振り払える程度の力しかなかった。
蓮は自分の手首を掴む蒼真の手を見下ろした。
かつて自分を背負い、崖を登った手。
何度も胸ぐらを掴み、殴り合い、現場から引きずって帰した手。
その手が今は、小さく震えていた。
「大袈裟にすんなよ」
蒼真が苦笑する。
「少し疲れてるだけだ」
「俺にまで嘘つくのにか」
「……」
「コーヒー、二杯も飲んでねぇだろ」
蒼真の表情が止まった。
蓮は静かにその手を外した。
「お前が朝から二杯も飲んでたら、麗華さんが俺の分まで淹れて置いてる」
「……余計なところで長年の付き合い出すなよ」
「うるせぇ」
蓮はスマートフォンを操作したが、蒼真はもう止めなかった。
止めるだけの力が残っていないことを、蓮に知られたくなかった。
数回の呼び出し音のあと、蒼志の声が聞こえた。
『蓮さん? どうしました?』
蓮は蒼真を見たまま、静かに答えた。
「蒼志、悪い。今から帰ってこれるか」
『父さんですか?』
「ああ」
問い返す声が、一瞬で医師のものへ変わったのが分かった。
蒼真はソファの背もたれに身体を預け、目を閉じた。
穏やかだったはずの日常が、少しずつ形を変え始めていた。




