第91話 What I Want to See
神代家のリビングには静かな空気が流れていた。
ソファでは父が気持ち良さそうに眠っている。
朝から蓮と鳥の巣箱を作り、奏が来て、昔話で盛り上がっていた。
そのせいか疲れたと言って昼前から眠ってしまったのだ。
「父さん、起きないな…」
蒼志はソファへ近付き、父の顔を見下ろした。
規則正しい呼吸音と鼻カニューレから流れる酸素と穏やかな寝顔。
どこから見ても、いつもの父だった。
だけど、医師として見るなら違った。
「……」
蒼志は何も言わず父の胸元を見つめた。
呼吸数がほんの少しだけ多い。
本当に僅かで、家族なら気付かない。
麗華も蓮も、おそらく気付かない。
だけど、毎月診察して、生活を毎日見ている蒼志には分かる。
最近、少しずつ増えている。
息切れと疲労感、軽い不整脈発作。
どれも日常生活に支障が出るほどじゃない。
本人も『歳だろ』と笑って済ませる程度だ。
だから余計に厄介だった。
「蒼志?」
声を掛けられ振り返ると、渚が立っていた。
「どうしたの?」
「いや……」
蒼志は一度だけ父へ視線を向けた。
ソファで眠る父は本当に穏やかな顔をしていた。
総統だった頃の、第一隊長だった頃よりも、ずっと父親の顔だった。
「最近、父さん元気なんだよな」
「え?」
「元気過ぎて困る」
蒼志は苦笑した。
本当に調子が悪い人間は鳥の巣箱など作らない。
蓮と庭で笑いながら木材を切ったりもしない。
だから大丈夫だと思いたい。
思いたいのに医師としての自分が小さな違和感を見逃してくれない。
蒼志は静かに息を吐いた。
「……次の検査、少し早めるか」
その呟きは眠る父には届かない。
この人は一度寝るとよく寝るようになった。
一時期は不眠症の症状で悩まされていたのが嘘みたいに。
「父さん」
返事はない。
当たり前だ、ぐっすり眠っているのだから。
蒼志は苦笑しながら父の肩に掛かっていたタオルケットを少し引き上げた、その時だった。
タオルケットから何かがポトリ、と音を立てて床へ落ちた。
「ん?」
拾い上げると、見覚えのない紙で栞のようだった。
本にでも挟まっていたのだろう。
蒼志はサイドテーブルに置かれている本へ視線を向けた。
昨日、仕事から戻ると父がこの本を読んでいた。
ブックカバーが掛けられていて題名は分からない。
「お気に入りの英文小説だっけ」
昨日の父の言葉を思い出しながら栞を本へ戻そうとした。
だけど、ふと違和感を覚えた。
「……英文?」
栞に書かれている文字は見たことのない文字列だった。
少なくとも英語ではない。
蒼志が眉をひそめた、その時だった。
「おい」
「うわっ!?」
背後から声が飛んできて、振り返ると蓮が立っていた。
「何やってんだ」
「いや、父さんの本から栞落ちて……」
「戻しとけ」
蓮は即答した。蒼志は思わず笑う。
「中身気にならないんですか?」
「ならん」
「なんでです?」
蓮は眠る蒼真を一度見ると、肩を竦めた。
「隠してるって事は見られたくねぇんだろ」
「……」
「蒼真は昔からそういうとこある」
それだけ言うと蓮は窓の外へ視線を向けた。
庭の木には完成した鳥の巣箱に小鳥がやって来ていた。
「どうせ大したもんじゃねぇよ」
そう言う蓮の横顔は穏やかだった。
信頼しているからこそ詮索しない。
そんな長年の関係が見えた気がした。
蒼志は小さく笑うと栞を本へ戻した。
「そうですね」
父には父の思い出がある。
話したくなれば話すだろうし、話したくないなら、それでいい。
蒼志は栞を本の上へ置くと再び眠る父を見る。
穏やかな寝顔。
静かな呼吸。
変わらない日常。
だけど、胸の奥に残る小さな違和感だけは消えてくれなかった。
翌週。
蒼志は定期検査の結果を確認しながら小さく息を吐いた。
診察室の窓から見える夏空は今日も青い。
だけど、モニターに表示された数値は決して青空のように晴れやかなものではなかった。
「……」
肺機能、血液検査、心電図…どれも急激な悪化ではない。
むしろ、年齢と既往歴を考えれば十分に維持出来ていると言える。
言えるのだが、数年前の数値と比べると確実に落ちていた。
ほんの少しずつ。
本当に少しずつ。
気付かない程度に。
「嫌な下がり方だな……」
蒼志がカルテを閉じたその時、診察室のドアが開いた。
「蒼志ーまだ検査結果でねぇの?」
聞き慣れた声の主、神代蒼真。
患者であり父親、そして蒼志にとっては昔から変わらない存在だった。
「父さん」
「結果出た?帰っていい?」
「出たけど、今から診察でしょ」
「しなくていいよ」
蒼真はそう言いながら勝手知ったる様子で椅子へ腰掛けた。
診察室なのに緊張感がなく、医師と患者の会話とは思えない。
「最近どうですか?」
「元気」
「それ毎回聞いてる」
「毎回元気だからな」
蒼真はケロリと答える。
蒼志はペンを持ちながら父を見た。
確かに元気だ。
少なくとも本人はそう思っているし、見ていても元気だ。
けれど……胸の奥にある違和感は拭えない。
「息切れは?」
「ある」
「不整脈は?」
「ある」
「疲れやすさは?」
「ある」
「……元気じゃないじゃん」
「63歳だぞ?」
蒼真は不思議そうな顔をしていた。
それが当然だろうと言わんばかりの様子に蒼志は額を押さえた。
「普通の63歳じゃないんですよ、父さんは」
「俺もそう思う」
「そういう意味じゃない」
即答する父に思わず笑ってしまう。
昔から変わらない。
こういう時だけ妙に前向きだ。
退任してからその前向きさは更に加速した気がする。
だけど、診察を続けながら蒼志の表情は少しだけ曇った。
酸素飽和度、脈拍、呼吸状態は、どれもギリギリ均衡を保っている。
まるで——
細い糸で支えられているように。
「父さん」
「ん?」
「無理してません?」
その問いに蒼真は少しだけ考えるような顔をした。
数秒だけ、診察室に沈黙が落ちた。
「してねぇよ」
父は穏やかに笑った。
「今が一番楽だ」
その言葉に嘘はないのだろう。
総統でもなくて第一隊長でもない。
誰かを守る責任に追われる立場でもない。
家で昼寝をして、蓮とくだらない話をして。
孫と遊んで、母と過ごす。
それが今の父の日常だ。
だからこそ、蒼志は余計に怖かった。
やっと手に入れた穏やかな時間、やっと辿り着いた日常。
それを終わらせる時計の針だけは、今も確実に進み続けていることを知っていたから。
蒼志はカルテを閉じると、蒼真の目を見つめた。
「父さん」
「ん?」
「検査間隔、少し縮めます」
蒼志がそう言うと父の反応は予想通りだった。
蒼真の顔が露骨に曇った。
「なんで」
「なんでじゃありません」
「面倒なんだけど」
「知ってます」
「病院嫌い」
「知ってます」
「採血痛い」
「知ってます」
「帰っていい?」
「ダメです。子供じゃないんだから」
蒼志が即答すると蒼真が不満そうに椅子へもたれ掛かる。
63歳、元総統。
国家を動かしていた男だと言うのに、その姿はどこにもなかった。
ただの仕事を終えて穏やかに暮らす父親の姿だった。
「蓮さん呼ぶよ」
「やめろ」
反応の早い蒼真に蒼志は思わず笑った。
「父さんより蓮さんの方が言う事聞きますから」
「アイツを使うな」
「使われたくないなら検査来てください」
「横暴だ」
「遺伝です」
「誰のだよ」
「父さんです。まぁ、蓮さんに送ってもらってるんだから、逃げれないもんね」
蒼真はぐうの音も出なかった。
しばらく沈黙が落ち診察室には心電図モニターの電子音だけが響いていた。
蒼志は改めて父のデータへ目を落とす。
数値だけ見れば大きな異常ではない。
まだ普通の生活が出来る。
まだ笑えて、まだ歩ける。
だけど、その”まだ”が少しずつ減っている。
「……」
父には聞こえないように、蒼志は小さく息を吐いた。
医師として感情を挟まないように。
そう思っても難しかった。
目の前にいるのは患者ではない。
父親だからだ。
「蒼志」
不意に呼ばれ、顔を上げると蒼真がこちらを見ていた。
「なんです?」
「そんな顔すんな」
「どんな顔ですか」
「医者の顔」
蒼真は苦笑した。
「俺は今んとこ死なねぇよ」
その言葉に、蒼志は返事が出来なかった。
死なない。
そんな事は分かっている。
今日ではない。
明日でもない。
おそらく今年でもない。
だけど———永遠でもない。
医師だから分かる。
父自身も分かっているはずだ。
肺線維症は治らない。
慢性呼吸不全も治らない。
不整脈も年々増えている。
身体は確実に老いている。
それでも父は笑った。
「まだ麗華に怒られてねぇし」
「は?」
「蓮とも喧嘩してねぇ」
「子供ですか」
蒼真は指を折り、数えだす。
「紬も蒼空も大きくなって、1人前になるのを見届ける」
「……」
「蒼志と悠真の仕事も見守る」
「……」
「だから、まだ死なねぇ……時間があるのも良いもんだよ。目標は見つけられた。自分の身体の事は分かる。限界があることは分かってる。でもさ…みんなを見守ることは出来る」
当たり前のように言って、父は微笑んだ。
何の根拠もないのに。
まるで明日の天気でも話すように。
走り続けてきた父が後ろに回る覚悟を決めた事をこんなにも当たり前のように話す日が来るなんて、思わなかった。
蒼志はしばらく父を見つめて、小さく笑った。
「じゃあ検査来てください」
「話聞いてた?」
「聞いてました」
「検査必要なくね?」
「必要です」
「横暴だ」
「蓮さん呼びます」
「だからやめろ」
診察室に笑い声が響く。
だけど蒼志の胸の奥には消えないものが残っていた。
父はまだ大丈夫、きっと大丈夫だ。
そう思いたい自分と。
医師として、いつか必ず来る日を知っている自分がいた。
その二人が、今日も胸の中で静かに向き合っていた。




