第8話 The Whispering Voice
神代家の書斎には静かな酸素音が響いていた。
シュー……
デスクには蓮が本部から持ってきた複数のモニターが並び全国の災害情報、気象データ、各省庁から送られてくる報告書が表示されている。
普段なら黎明本部で見ている情報ばかりだった。
「総統、おはようございます」
モニター越しに国家側の担当者が頭を下げると蒼真も軽く頷いた。
「おはようございます」
その姿だけを見れば普段と何も変わらない。
体調不良など誰も想像しないだろう。
昨日の熱が下がりきらなかった蒼真は国家会議をオンラインで参加するという事になり、自宅書斎でワイシャツ姿で椅子に座っていた。
『大規模停電時広域医療搬送計画』
『火山監視体制強化案』
『巨大地震臨時対策会議』
次々と議題が切り替わるも蒼真の確認は止まることなくスムーズに会議が進んでいく。
「医療搬送案の進捗は?」
「現在調整中です」
「急いでください。災害は待ってくれません」
短い言葉で迷いの無い判断。
その様子を官邸側モニターで見ていた若手官僚が小さく呟いた。
「本当に体調悪いんですか?」
隣の消防庁担当者が苦笑する。
「見えないだろ」
「はい……」
「だから困るんだよ」
小さな笑いが起きていたが、蒼真本人は資料へ視線を落としたままだった。
会議はさらに続くが誰も気付かない。
先程まで総統が高熱で毛布に埋まっていた事など。
誰も、知らない。
神代家のリビング以外は。
その頃書斎の扉の向こうのリビングでは蓮が当然のようにコーヒーを飲んでいた。
神代家には蓮の専用の黒いマグカップがある。
いつから置かれているのか本人すら分からない。
ズズ……
コーヒーを飲みながら蓮は書斎の方へ視線を向けた。
「……」
扉はほんの少しだけ開けられているが静かだ。
静か過ぎて嫌な予感しかしない。
蓮は書斎の扉を開き蒼真の確認をする。
会議はまだ続いていたが、そこにはモニターを睨みながら資料をめくる蒼真の姿。
顔色は悪く、まだ熱もある。
だが仕事はしている蒼真に蓮はため息を吐いた。
「熱」
蒼真はモニターから目を離さない。
「下がった」
「測ったか」
「いや」
「下がってねぇだろ」
即答する蓮に蒼真が小さく舌打ちする。
「……つーか、お前何で参加しねぇの?」
「……お前、書斎に入られるの嫌いじゃん」
ズズ……
蓮がコーヒーを飲みながら返すと会議モニターの向こうで、国家側が真剣な顔で説明を続けていたが補佐官、居たの?と不思議そうな顔をしていた。
会議に参加する誰もが、いつも会議に参加していたはずの補佐官不在理由に疑問を持っていた。
「いや?……動かれると気になるから居ろよ」
「……そうかよ」
蓮はマグカップ片手に蒼真の隣の椅子へ腰掛けると途中から会議へと参加したが特に発言する事もなく資料を見ながら総統の体温と顔色を疑っていた。
「終わったら測れ」
「……はいはい」
「返事が軽い」
「蓮」
「ん」
「寒い」
蓮はコーヒーを置いた。
「語彙力死んでんぞ」
書斎の向こうで会議中の総統が少しだけ笑った。
蓮は一度、書斎から出るとリビングからひざ掛けを持って戻って、それを蒼真に渡す。
蒼真は何も言わずに受け取り膝に掛けていた。
そこでやっと、総統が体調不良だと言う事に会議参加者達は改めて確認させられたのだった。
「では……総統、お大事に」
国家官僚がモニターの向こうで頭を下げると、蒼真も頭を下げ、モニターを切る。
長かった国家会議がようやく終わった。
「ほれ、熱」
椅子に深く腰掛ける蒼真に蓮が体温計を差し出す。
「……下がった」
蒼真は受け取らず、立ち上がるとリビングのソファへゆっくりと歩いていくと…毛布に包まった。
「蒼真、測ろ?」
見かねた麗華が体温計を蒼真の脇へと入れ、体温を測り出す。
「過保護…」
「ただの風邪があなたは肺炎になりやすいからよ」
ーピピッ。体温計が蒼真の体温を示す。
38℃
「まだ高い」
毛布に包まる蒼真の額に手を置き、麗華はもう少し休もう。と微笑む。
「……麗華、いる?」
「うん、いる」
「なら、いい」
蒼真は毛布を頭まで被るとそのまま寝たように見えた。
しばらくして、書斎のモニターや資料を片付け終わった蓮がリビングに戻ると、やっと寝たのか?とその様子を見つめた。
いや…寝てなさそうだ…。
もぞもぞと毛布が動いている…。
その時だ、リビングの入口から麗華が蓮を廊下へと手招きしていた。
「どうしました」
「……昨日の…死神が囁いてるって…」
蓮は一瞬だけ黙るとリビングのソファに視線を向ける。
毛布の塊がもぞもぞ動いていて寝ているようには見えない。
「またか」
蓮が小さく呟くと麗華は心配そうに視線を落とした。
「熱のせい…?」
「分かりません…」
即答すると蓮はリビングに戻り、毛布の塊の前に立つ。
もぞ…
少しだけ毛布が動く。
「おい」
反応は無い。
「蒼真」
しばらくしてから、毛布の奥から小さな声が返ってきた。
「……何だ」
やはり蒼真は起きていた。
「寝ろ」
「寝ようとしてる」
「嘘つけ」
もぞ……
再び毛布が動くと蓮はため息を吐いた。
「何て言ってる」
少しだけ沈黙が落ちた。
シュー……
酸素音だけが静かに落ちた。
やがて毛布の中から掠れた声が聞こえた。
「……こっちは楽だぞって」
麗華の表情が少し曇り、蓮は眉を寄せた。
「こっちって?」
「知らねぇ」
蒼真は即答だった。
「知らねぇけど…」
もぞ……
毛布の奥で蒼真は目を閉じた。
「うるせぇんだよ」
吐き捨てるようなその声は妙に疲れていた。
「ずっと言ってて」
リビングにはただ酸素音が響いていた。
誰も言葉を返せなかった。
その意味が分からないからだ。
ただ一人だけ、毛布の中の蒼真だけがその声を聞いていた。
誰にも聞こえない声がまた囁く。
──こっちは楽だぞ。痛みのない世界だ。
蒼真は眉を寄せた。
「……黙れ」
毛布の中から聞こえてくる蒼真の声が麗華と蓮には何に返事をしたのか分からなかった。




