第9話 The Choice
翌日。
神代家のリビングには静かな朝が流れていた。
蒼志と悠真は本部へ仕事、華凛も製菓学校へ行ってしまい、子供達を見送って蒼真は少しだけ寂しそうにソファで、毛布に包まりながら無言でコーヒーを飲み、昨日、華凛が焼いてくれたクッキーを口に運んでいた。
熱は下がった。いや、正確には下がりきってはいないのだが本人は下がったと言い張っている。
「熱」
向かいのソファから蓮が話しかける。
「下がった」
「測ったか」
「いや」
「下がってねぇだろ」
蓮が即答すると蒼真は舌打ちしながらコーヒーカップを置く。
「お前、最近それしか言わねぇな」
「お前が言われる事しかしてねぇからだ」
蓮が煙草を吸おうと立ち上がり、リビングの窓を開けた時、インターホンが鳴った。
「来たわよ」
玄関へ向かった麗華が数秒後に一人の男を連れて戻ってきた。
白石だった。
「よぉ」
「……何しに来た」
「見舞い」
「帰れ」
「じゃあ帰る」
本当に踵を返そうとした白石に麗華が苦笑する。
「嘘よ。上がって」
「だよね〜」
白石は当然のようにリビングへ入り、そのまま蒼真の前へ座った。
数秒、誰も喋らずリビングには沈黙が流れる。
白石は蒼真の顔色を見る。
呼吸、肌色、酸素流量。ここ数日の生体反応デバイスの数値データを思い返し静かに息を吐いた。
「悪くなってる」
蒼真は答えない。
蓮も何も言わない。
冗談混じりだった空気が少しだけ消え、白石は医者の顔をしていた。
白石は持ってきた封筒をテーブルへ置く。
「検査結果だ」
蒼真はそれを見つめてはいたが、手に取ろうとはしなかった。
見なくても内容は分かっているからだ。
「……白石」
「ん?」
「今日は説教か」
「いや」
白石は首を振った後、真っ直ぐ蒼真を見る。
「肺移植の話だ」
リビングの空気が凍った。
蒼真は白石から視線を逸らすように少し俯いた。
そして目を閉じたあと、口を開いた。
「……前にも言った。移植を受けるつもりはない」
脳死ドナーを待つのも、いつになるか分からない。
それまで管理入院も必要になる。
生体肺移植。
それは蒼真の家族の自由を奪う。
同じ息苦しさを背負わせる。
そんな事、家族の誰にも背負わせたくない。
蒼真は顔を上げ、白石を見た。
白石の真剣な目はまだ蒼真に向けられていた。
「俺は…俺よりも必要な人に脳死ドナーの肺を移植して欲しい。この体のまま、生きていく。誰かの自由を奪うことは出来ない」
「お前に必要だから言ってる」
蒼真の言葉が終わるとすぐに白石が答えた。
「神代……お前、自分の立場分かってるよな?」
白石は視線を逸らさなかった。
「組織のトップだ。災害統括……国の各機関の統括責任者だぞ?」
「……それは関係ない」
「関係ある」
白石は譲らなかった。
「肺線維症も悪化し続けてる。……お前、死ぬぞ」
脅しでもなんでもなかった。
白石はただ、現実を置いているだけだった。
「……死なねぇよ」
蒼真は酸素マスクの奥で薄く笑った。
「まだ、何も出来てねぇのに死ぬわけねぇだろ」
死にたがりの過去は捨てた。
今は帰す未来を見ている。
白石は眉を寄せた。
「神代」
「ん?」
「お前さ……」
言葉を探すように白石は少しだけ黙った。
「何でそこまで自分を後回しに出来るんだよ」
蒼真はすぐには答えなかった。
その代わりに視線だけを窓の外へ向けた。
「別に後回しにしてるつもりはねぇ」
蒼真は小さく呟いた。
「俺は選んでるだけだ」
白石の表情が歪む。
「選んでる?」
「あぁ」
蒼真は頷いた。
「移植を受けるのも自由だ。受けないのも自由だ」
「俺は受けない方を選ぶ。それだけだ」
白石は机を軽く叩いた。
「それだけで済む話じゃねぇだろ!」
初めて白石の声が荒くなった。
麗華が静かに目を伏せ、蓮は煙草を持ったまま窓際で何も言わない。
「お前は家族が居るんだぞ」
「分かってる」
「蒼志も悠真も華凛も居る」
「分かってる」
「麗華さんだって──」
「分かってる」
蒼真は遮った。
その声は不思議なくらい穏やかだった。
「だからだよ」
白石が言葉を失う。
蒼真はゆっくりと息を吐いた。
シュー……
酸素の音だけが小さく響く。
「だから選んだ。俺はこの身体で生きる」
「誰かの人生を変えてまで、生き長らえる道は選ばない」
「それだけだ」
白石は拳を握った。
納得なんて出来なかった。
医者としても。
友人としても。
目の前の男には生きていて欲しかった。
どんな形でも。
何十年先まで。
それでも蒼真の目は揺らいでいなかった。
白石は長く息を吐くと小さく笑った。
「神代」
「ん?」
「お前……本当にバカだな」
「知ってる」
「知ってるじゃねぇよ」
蒼真は少しだけ笑った。
白石は頭を掻きながら立ち上がる。
「分かった」
その言葉に麗華が顔を上げる。
だが白石はすぐ続けた。
「納得はしてねぇし、移植も諦めねぇ。俺は医者だからな」
蒼真は肩を竦めた。
「好きにしろ」
「する」
白石は即答した。
「お前が諦めても、俺は諦めねぇ」
その言葉に。
蒼真は少しだけ目を細めた。
「……そうか」
それ以上は何も言わなかった。
「…まぁ熱が下がり切るまでは安静にしてろよ」
そういうと白石は玄関に向かう。その背中を麗華が追い、少し引き止めた。
「どうしたの?」
「……最近、ちょっと蒼真、寝れないみたいなの。天音さんも亡くなって、黎明と家督で忙しくて…眠剤、もらえないかな」
白石は少しだけ考え込むと口を開いた。
「あいつが眠剤希望してる?」
「……してない…でも、見てるの辛くて…」
白石の言葉に麗華は目を逸らした。
少しでも蒼真を寝かせてあげたいという麗華のワガママだった。
本人が希望してないのだから、医者である白石が許可しない事も麗華は分かっていたが、それでも見ていられなかった。
ボロボロで疲れ果てて、それでも眠れず。
死神が囁く。
そんな事を言う夫を。
白石は少し考えてから口を開いた。
「……まぁ本人は寝てる。って俺には言うし、希望してないなら出せないかな…。夜間低酸素にもなりやすいから、眠剤で眠って呼吸不全起こすのも怖いし…ごめん、出せない」
白石は麗華に少し申し訳なさそうな表情をした。
「……私も医者なら、そうする…大丈夫」
麗華は患者として蒼真を見なくなっていた。
寄り添い続け、夫以外の何者にも見れなくなっている。
「私情だね…医療者、失格」
麗華は少しだけ笑うと玄関のドアを開けた。
忙しい所を引き止めてごめんね。とでも言うように。
「……もし、あいつが本当に寝れなくて…麗華さんの隣でも寝れないなら、連れて来て。今はさ、薬よりも必要なの麗華さんだと思うよ」
白石の言葉に麗華は目を見開いた。
「……ありがとう」
「まぁ神代蒼真を俺も19歳から知ってるからね」
ニコッと白石は麗華に笑うと玄関から手を振り出ていった。
麗華がリビングに戻ると毛布に包まった蒼真が入口をじーっと見つめていた。
「何見てるの」
「麗華、遅いから…待ってた」
麗華は大きなため息をついて、蒼真の隣に腰を下ろした。
「風邪薬飲んで、休もうね」
「……うん」
蒼真は麗華の手を握って頷く。
テーブルの上に置かれた検査データはそのままだった。




