第82話 Your Battlefield Is Here
総統室へ入ると、蒼真は後ろ手に扉を閉めると机に向かった。
室内には蒼真と蒼志、二人だけだった。
「座れ」
「出動まで時間がありません」
「分かってる。だから座れ」
蒼志は僅かに眉を寄せたものの、蒼真が指さすソファへ腰を下ろした。
蒼真は机への引き出しの奥から一つの端末を取り出し、車椅子から立ち上がり蒼志のソファの向いへと腰を下ろした。
端末を蒼真は机の上へ置いた。
黒く、何の装飾も施されていない小型端末だった。
それを見た蒼志の表情が変わった。
「それ……」
知っている。
それは存在だけは聞いていた物だ。
通常の通信網が断絶した状況でも、蒼真と現地を繋ぐために構築された独立回線。
国家通信網にも、警察、消防、自衛隊の通信網にも属さない。
黎明だけが保有する、最後の回線。
「零回線……」
「そうだ。これまで、零回線への接続権限を持っていたのは俺と奏だけだ」
大震災を経験する前から、蒼真が密かに整備していた回線。
電力が落ちても。
通信網が断絶しても。
現地が孤立しても。
最後まで命を繋ぐための回線だった。
蒼志は端末を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「なぜ、今それを俺に?」
「分かんねぇか?」
蒼真は蒼志の目をまっすぐ見ていた。
「お前はこれから、本部を離れる」
「はい」
「現地には悠真がいる」
蒼志の目が、僅かに細められた。
「次期総統と次期補佐官が、二人とも本部の外へ出る」
白峰山は今も噴煙を上げ続けている。
火山灰の影響は広がり、通常通信がいつまで維持できるかは分からない。
零式統括機で現地へ到着できたとしても、その先で何が起きるかは誰にも予測できない。
「通信が切れた時、現地にいるお前たちだけで判断しなきゃならねぇこともある」
「……はい」
「だが、本部と完全に切れていいわけじゃねぇ」
蒼真は机の上に置いた端末へ手を伸ばした。
「通常回線が死んでも、これだけは残る」
そして、その端末をゆっくりと蒼志の元へ押し出した。
「持っていけ」
蒼志はすぐには受け取らなかった。
いや、受け取れなかった。
零回線は、単なる非常用通信ではない。
誰よりも疑い深く、簡単には人を信用しない蒼真が、長い年月をかけて守り続けてきたものだ。
その接続権限を渡すという意味を、蒼志は理解していた。
「父さん」
「今は総統だ」
低い声だが、突き放すような響きはなかった。
「第一医療班班長、神代蒼志」
「……はい」
「本日付で、お前に零回線への接続権限を与える」
蒼真はまっすぐに蒼志を見据えた。
「現地で何が起きても、本部との繋がりを失うな」
「はい」
「悠真を一人にするな」
その言葉だけは、総統から次期補佐官へ向けた命令であると同時に、父親から兄へ託された願いにも聞こえた。
蒼志は差し出された端末を両手で受け取った。
見た目以上に重く感じる。
この小さな端末の中に、蒼真が背負ってきた年月と、守り続けてきた命が詰まっているようだった。
「接続方法と認証情報は、端末内に入ってる。生体認証の登録も済ませた」
「いつの間に……」
「後継者が決まった時点で準備した」
蒼真は当然のように答えた。
蒼志が補佐官になると正式に決まり、いつか必要になる可能性を考えていたのだろう。
父はいつもそうだ。
災害が起きてから動くのではない。
何年も先を見据え、使われないことを願いながら、それでも必要になる日に備えて準備を続けてきた。
今回の防塵高濃度酸素マスクも同じだった。
「これが開かれる時は、通常の指揮系統が維持できなくなった時、現場が止まって動けねぇ時だ」
蒼真の声が、僅かに低くなる。
「だから、使うことを躊躇うな。でも、使い所は考えろ」
「でも、零回線は……」
「秘密を守って人を死なせるくらいなら、全部晒してでも繋げ」
迷いのない言葉だった。
「回線は守るためにあるんじゃねぇ。命を繋ぐためにある。お前はこの零回線で助けられたんだ」
「え……」
「あの時、奏は止まって考えて繋いだ。奏が零回線を使わなければ、俺はあの時、現場に飛ぶ事はなかった。……お前を、生かしたのはこの零回線だ」
蒼志は手の中の端末を強く握った。
この回線が自分を救ってくれた。
ならば────
今度は自分が救う番だ。
「……了解しました」
「それと」
蒼真は蒼志から視線を外さない。
「零回線を開くかどうかは、お前が判断しろ」
「俺が?」
「現地で起きていることを、一番近くで見るのはお前だ」
蒼真の指示を待つのではない。
奏へ判断を仰ぐのでもない。
必要だと感じた瞬間に、自らの責任で開く。
それが、この回線を託されるということだった。
「お前が必要だと思ったなら、開け」
「……はい」
「その判断で起きたことは、全部俺が背負う」
蒼志が顔を上げた。
「父さん、それは――」
「今はまだ、俺が総統だ」
静かな声だった。
「お前たちを送り出した責任も、お前にこの回線を渡した責任も、全部俺にある」
退任を発表したからといって、責任まで手放したわけではない。
手放すつもりもない。
最後の瞬間まで、神代蒼真は黎明総統だ。
「だから行け」
蒼真は端末を握る蒼志の手へ、軽く自分の手を重ねた。
「全員、連れて帰ってこいよ」
蒼志は父親の手を見つめた。
何度も傷つき、何度も誰かを引き上げてきた手だった。
その手から今、自分へ最後の命綱が託された。
「分かりました」
蒼志は立ち上がり、蒼真をまっすぐに見た。
「必ず全員、連れて帰ります」
「あぁ」
蒼真は僅かに口元を緩めた。
「頼んだぞ、蒼志」
蒼志は零回線の端末を、胸元の内ポケットへ収めた。
その上から一度、確かめるように手を当てる。
防塵高濃度酸素マスクを現地へ届ける。
第一医療班を率い、増え続ける呼吸器症状患者へ対応する。
そして、現地統括を担う悠真を支える。
果たすべき役目は明確だった。
「出動準備に入ります」
「あぁ」
蒼志が扉へ向かいドアノブへ手をかけたところで、その動きが止まった。
振り返ると、蒼真はソファに座ったままこちらを見ていた。
「父さん」
今度は、蒼真も訂正しなかった。
「何だよ」
「ちゃんと本部にいますよね」
蒼真が僅かに眉を寄せる。
「当たり前だろ」
「現地へ行こうとしませんよね」
「行かねぇよ」
短い返答だった。
蒼志は、蒼真の表情を見つめる。
嘘をついているようには見えなかった。
先ほど統括室では、自ら羊羹を求め、蓮から渡されたそれを食べていた。
長期戦になることを理解し、自分の身体を維持しようとしている。
そして今、現地へ向かう役目を蒼志へ託し、自分は本部に残ると決めている。
「蓮さんの言うこと、聞いてくださいね」
「お前は俺の主治医か」
「そうですけど」
「……そうだったな」
蒼志は思わず小さく笑った。
「酸素の残量も確認してください」
「蓮が見てる」
「自分でも見てください」
「分かったよ」
「食事も取ってください」
「さっき羊羹食っただろ」
「あれを食事に数えないでください」
「注文多いな、お前」
「患者が手のかかる人なんで」
「誰が患者だ」
「父さんです」
即答され、蒼真は不満そうに鼻を鳴らした。
その姿を見て、蒼志の肩から僅かに力が抜ける。
大丈夫だ。
父は、自分が戦う場所を理解している。
統括室には蓮がいて奏も、日向もいる。
父は一人ではない。
「……行ってきます」
第一医療班班長としての出動報告ではない。
父親へ向けた、息子の言葉だった。
蒼真は一瞬だけ目を細めた。
「あぁ」
それから、いつもと変わらない低い声で告げた。
「悠真を頼む」
「はい」
「お前も必ず戻れ。渚と紬が待ってる」
蒼志の目が僅かに見開かれた。
自分の事だけでも弟の事だけじゃない。
父は息子の家族の事まで見てくれている。
蒼真は、蒼志から視線を外さない。
「悠真を連れ帰って、お前が残ったら意味ねぇからな」
「はいっ…帰って渚と紬も安心させます」
「本当に分かってんのか?」
「父さんにだけは言われたくないね」
蒼真が僅かに眉を上げる。
「どういう意味だよ」
「そのままの意味」
「お前、出動前に俺に喧嘩売ってんのか」
「父親に釘を刺してるだけだよ」
二人の間に、ほんの一瞬だけ静かな笑みが交わされた。
しかし、その笑みはすぐに消え、蒼志は表情を引き締め、総統へ向き直った。
「第一医療班班長、神代蒼志。これより白嶺町へ向かいます」
蒼真も、黎明総統の顔へ戻る。
いつも通り、鋭い視線だ。
「行け」
「はい」
蒼志が扉を開けると廊下の向こうから、無線や出勤準備に追われる隊員たちの声が聞こえてくる。
蒼志は振り返らなかった。
迷いなく廊下へ踏み出し、第一医療班と零式統括機が待つ格納庫へ向かって走り出した。
扉が静かに閉まると総統室に、蒼真だけが残された。
廊下を遠ざかっていく足音に耳を澄ませていたが、やがて、その音も聞こえなくなった。
蒼真はしばらく、閉じた扉を見つめていた。
大きくなった息子の背中を。
総統として、必要な命令を下した。
第一医療班班長として最も適任だから、蒼志を選んだ。
現地で不足する医療と酸素マスクを届けるためには、それ以外の選択肢などなかった。
判断は間違っていない。
それでも────
「……二人とも、行かせちまった」
誰もいない総統室に、蒼真の声が小さく落ちた。
蒼真は立ち上がり窓の外を見ながら、胸元から端末を取り出す。
表示された名前をしばらく見つめたあと、通話ボタンへ指を触れた。
呼び出し音だけが、静かな総統室に響いた。
蒼真が選んだ相手は、麗華だった。
数回の呼び出し音のあと、通話が繋がった。
『もしもし、蒼真?』
麗華の声が聞こえた。
その声を聞いた瞬間、蒼真の張り詰めていた表情が僅かに緩んだ。
小さく息を吐いてから、蒼真は口を開いた。
「今、話せるか」
『ええ。大丈夫よ』
電話の向こうでは、テレビから流れる噴火速報の音が小さく聞こえ、紬と蒼空の声も混じっている。
麗華は二人から少し離れるため、リビングを出たようだ。
扉の閉まる音が聞こえた。
『渚ちゃんは、さっき本部へ向かったわ』
「うん…医療班を現地へ出すから、本部の人員補充で呼んだ」
『そう聞いた』
麗華の声が、僅かに低くなる。
『蒼志も行くの?』
蒼真はすぐには答えなかった。
答えられなかった。
窓の外から視線を外し、俯きながら返事をする。
「うん」
短い返事だった。
「今、命令を出した」
『そう』
「第一医療班と、現地で不足している酸素マスクを運ばせる」
『……飛べるの?』
「今なら。奏が空路を確保した」
『そう』
麗華はそれ以上、何も聞かなかった。
蒼真が飛ばすと決めたのなら、それ以外に現地へ医療と物資を間に合わせる手段がないのだと理解している。
それでも、麗華も母親だった。
既に悠真がいる場所へ、今度は蒼志も向かう。
白峰山は今も噴火を続けている。
「麗華」
『なに?』
「悠真と蒼志が本部に帰ってくるまで、俺も家に帰れない」
蒼真の声が僅かに掠れていた。
「今日は早く帰るって言ったのに」
朝、紬の頭へ手を置きながら交わした約束を思い出す。
退任会見を終えたら、早く帰って、家族で食事をして、テレビに映る自分を見て笑えばいいと思っていた。
そんな普通の日だと思っていたのに。
それなのに、息子を2人とも危険な場所へ送り込む。
約束も破り、母親の麗華にも心配をかけさせる。
「ごめんな、麗華」
『謝らなくていいわ』
「でも――」
『蒼真』
麗華の穏やかな声が、蒼真の言葉を止めた。
『あなたは、今どこにいるの?』
「総統室」
『一人?』
「うん……蒼志を送り出したところ」
その言葉を口にした瞬間だった。
総統として押し込めていた感情が、僅かに揺れた。
悠真を先行派遣したのも、自分だ。
蒼志へ現地派遣を命じたのも、自分だ。
二人とも、自分の息子だ。
「息子たちをさ……」
『うん』
「危険なところに送り込んで、俺は最低な父親だよな」
『……』
「自分は安全な本部に籠っててさ」
自嘲するような笑いが、蒼真の口元に浮かんだ。
「悠真は噴火した山の近くで住民を避難させてて、蒼志は、これから火山灰の中を飛ぶ」
蒼真の端末を持つ手に自然と力が入った。
「俺は父親なのに、2人に行けって命令したんだ」
総統として、判断は間違っていない。
2人が最も適任だった。
それでも、正しい判断をしたからといって、父親としての恐怖が消えるわけではない。
「俺が行ければって、今でも思うんだ…行けば、全員、帰せるって…」
蒼真の声は僅かに震えていた。
『何を言ってるの?』
震える蒼真の声を断ち切るように麗華の声には、迷いがなかった。
『二人を信じたから送り出すんでしょ?』
蒼真は顔を上げる。
『悠真なら現地を任せられる。蒼志なら医療班を任せられる。そう思ったから、2人に託したんでしょう?』
「……うん」
『だったら、信じて待ちなさい』
「でも俺は――」
『だから蒼真は、本部に残るんでしょ』
麗華の声が、静かな総統室に響く。
『あなたが本部にいなかったら、現地にいる人たちを誰が支えるの?』
「蓮も、奏もいる」
『蓮くんと奏くんがいても、総統はあなたでしょ』
蒼真は何も答えられなかった。
『安全なところに籠っているんじゃない』
麗華は、一つひとつ言い聞かせるように言葉を紡いだ。
『あなたの戦場は、本部よ』
その言葉が、蒼真の胸の奥へ静かに落ちていく。
『しっかりしなさい、神代蒼真。私はあなたが19歳の時から隣で見てるわ。あなたがそう言ったから』
蒼真には、蒼真にしか立てない場所がある。
悠真と蒼志が現地で戦うために。
全員が帰るために。
自分は本部に立ち続けなければならない。
そして、その姿を麗華は19歳の蒼真の言葉を信じて見ていてくれている。
「……そっか」
『そうよ』
「俺さ…ちゃんと父親できてる?」
総統ではなく、一人の父親としての問いだった。
電話の向こうで、麗華が僅かに笑った気配がした。
『できてるわよ』
「本当に?」
『あの二人を見れば分かるでしょう?』
悠真は、誰かを守るために現地で立っている。
蒼志は、命を繋ぐために医療班を率いて飛んでいく。
2人とも、蒼真の背中を見て育った息子だ。
『2人とも、あなたが守ってきたものを守ろうとしてる』
蒼真は目を閉じた。
「……うん」
『だから、二人を帰してあげて』
麗華の言葉に蒼真はしっかりと目を開け、遠くの空を見つめた。
そして、しっかりと言葉を繋いだ。
「必ず、帰す」
『それから、蒼真』
「ん?」
『あなたも帰ってきて』
「……全員、帰して…帰るよ、俺も」
『待ってるわ』
「……麗華」
『なに?』
「ありがとう」
『どういたしまして』
クスッと最後に麗華は笑いながら電話は切られた。
静寂が戻った総統室で、蒼真はしばらく端末を握ったまま動かなかった。
やがて小さく息を吐くと、車椅子に乗り自分で押しだす。
父親としての恐怖が消えたわけではない。
それでも、立つべき場所を見失うことはなかった。
蓮に任せてきた統括室。
2人の息子を帰すために、逃げる訳にはいかない。
そして、自分も家族のもとへ帰るために。
神代蒼真は再び、自らの戦場である統括室へ戻っていった。




