第81話 We’ll Be Waiting
神代家のリビングには、珍しく女たちばかりが集まっていた。
ソファには麗華と華凛が座り、その前のラグには紬と蒼空が並んで座っている。
渚が人数分の飲み物を運んでくると、紬がテレビを指差した。
「じいじ、まだ?」
「うーん…噴火しちゃったからねぇ…」
渚は紬の隣に腰を下ろし、その頭を優しく撫でる。
今日、蒼真は正式に退任を発表した。
家族には既に伝えられていたことだ。
それでも、総統として国民に向けて語る姿を、皆で見届けようと集まっていたが、テレビ画面上部に赤い帯が現れて消えなかった。
『緊急速報』
『白峰山で大規模な噴火が発生』
山頂から空を覆うほどの噴煙が立ち上っている映像。
灰色の雲は上空で大きく広がり、山の斜面を黒い噴煙が這うように流れていた。
道路には避難する車両が連なり、映像の向こうでは何度も警報が鳴っている。
『繰り返します。白峰山で大規模な噴火が発生しました。周辺住民の方は、自治体の指示に従い――』
「悠兄ぃ…大丈夫かな」
華凛の声は震えていた。
悠真が数日前から火山活動の活発化に伴う、周辺住民の避難支援のために入っている事はこの場にいる全員が知っている。
「悠真おじちゃん、あのお山にいるの?」
紬が聞いて来たが、華凛は答えられなかった。
代わりに麗華が、紬の肩へそっと手を置くと口を開いた。
「お山の近くで、お仕事をしているの」
「危ないの?」
「大丈夫よ」
麗華の声は穏やかだった。
「悠真おじちゃんは、みんなを安全な場所へ連れていくためにいるの」
それは紬を安心させるための言葉なのか、自分たちに言い聞かせた言葉なのかは、誰にも分からなかった。
渚はテレビを見つめたまま、僅かに眉を寄せる。
噴煙の規模。
広がり続ける火山灰。
避難中に起きる混乱と、呼吸器への影響。
これだけの噴火なら、現地の医療体制だけでは足りなくなるだろう。
その時、テーブルの上に置かれていた渚の端末が鳴った。
渚の肩が小さく跳ねる。
表示された発信元を確認し、すぐに立ち上がった。
「……本部からです」
麗華と華凛の空気が、さらに張り詰めた。
「はい、神代です」
端末を耳に当てた渚は、相手の言葉を聞きながら、テレビに映る噴煙を見つめていた。
「はい。医療班の現地派遣ですね」
一度、視線を落とすと口を開く。
「分かりました。すぐに向かいます」
短く答えて通話を切ると、華凛が立ち上がり不安そうな顔をして声をかけた。
「渚ちゃん、現地に行くの?」
「ううん。本部」
「本部……?」
「現地に医療班を派遣する予定だから、本部に残る人員が足りなくなるの。私はその補充」
渚はそう答えながら、急いで荷物をまとめ始めた。
麗華はテレビから視線を外し、渚を見る。
「蒼志も行くのね」
渚の手が止まった。
「いえ……それはまだ…何も聞いていません」
否定ではなかった。
本部の医療班が現地へ向かう。
大量の負傷者や、火山灰による呼吸器障害が予想される。
そして、危険な現場ほど蒼志は前へ出る。
さらに蒼志は呼吸器専門医。
最終判断は蒼真がするとはいえ、状況的に蒼志が向かわないという判断自体は難しい。
それを誰よりも分かっているのは、渚だった。
紬が渚の服の裾を掴んでいた。
「ママ、お仕事?」
「うん。少し行ってくるね」
渚は紬の前にしゃがみ、その小さな身体を抱き締めた。
「いい子で待っていられる?」
「うん」
「おばあちゃんと、華凛おばちゃんのお話をよく聞いてね」
「パパは?」
渚の腕に、僅かに力が入った。
「パパも、お仕事…怪我をした人や困ってる人の為にパパもお仕事頑張ってる」
「じいじも?」
無邪気な問いに、誰もすぐには答えられなかった。
テレビでは、白峰山から立ち上る噴煙が空を覆い続けている。
蒼真の退任発表の会見を見るために集まったはずだった。
長い任務を終える、その瞬間を家族で見届けるはずだった。
けれど画面から蒼真の姿は消え、家族は再び、それぞれの場所へ向かおうとしている。
麗華が立ち上がり、渚の肩に手を置いた。
「じぃじとママは同じ場所でお仕事して来るね。大丈夫、みんな帰ってくるよ」
父は朝から仕事へ行き、休みで一緒に過ごすはずだった母も仕事へ行く。
小さな子供にとって、待つのは辛い事だ。
そして、紬の大好きなじぃじ…蒼真も本当なら、今日は早めに帰宅する予定だった。
『今日は早く帰って来るからな』
紬の頭に手を置きながら、そう言った蒼真の表情はどこか晴れやかに見えた。
それなのに────。
「紬は任せて」
麗華の声に渚は顔をあげた。
麗華はまっすぐに渚を見つめていた。
あなたのやるべき事をやりに行きなさい。と言ってくれているようだった。
「……お願いします」
「ええ。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
渚はもう一度だけ紬の頭を撫で、玄関へ向かった。
扉が閉まる音が、静かな家の中に響く。
麗華は紬の手を握り、再びテレビへ目を向けた。
画面には噴煙をあげる白峰山の映像が流れ続けている。
退任を発表し、早く家へ帰るはずだった男は、また帰る場所を守るために立ち上がる。
そして神代家は、今日もその背中を見送る。
帰ってくると信じながら。
その頃、黎明本部では、白峰山周辺の情報が絶え間なく更新され続けていた。
統括室の大型モニターには、火山灰に覆われ始めた白嶺町と、各避難所から送られてくる被害状況が映し出されている。
現地で呼吸器症状を訴える住民は、今も増え続けている。
蒼真は椅子に深く腰掛けたまま、モニターに並ぶ数字を見つめている。
その手には、先ほど蓮から渡された羊羹があった。
現地は戦い続けている。
だからこそ、本部が倒れるわけにはいかない。
奏が端末を操作しながら、足早に蒼真のもとへ戻ってきた。
「総統、準備できました」
蒼真が顔を上げる。
「数は」
「現在搬出可能な分で二千。追加分も順次、本部へ運び込ませています」
「現地の要請数には足りねぇな」
「ですが、第一便としてはこれが限界です」
奏はモニターの一部を切り替えると、黎明本部の格納庫が映し出される。
隊員たちが次々と運び込んでいるのは、大量の黒いケースだった。
蒼志がその映像を見つめる。
「それが……父さんの言っていた“アレ”ですか」
「あぁ」
蒼真は残っていた羊羹を口へ入れ、包みを机に置いた。
「防塵高濃度酸素マスク。火山灰を遮断しながら、装着者へ高濃度酸素を供給できる」
蒼志が目を見開く。
「こんな数、いつから……」
「……お前が同席した国家の予算会議の年から」
蒼真が答えると、蒼志は言葉を失った。
初めて同席した国家会議。
途中で蒼真は不整脈を起こし、中断した会議だ。
確かにあの時、議題にマスクが上がっていた。
そして、退席しようとせず、会議を続けようとした父の姿……。
ようやく、あの時の父の”どれだけ帰せるか決まる”という言葉の本当の意味を蒼志は知った。
「火山災害だけじゃねぇ。大規模火災、地下施設での酸欠、化学物質の流出。呼吸器障害が一斉に発生する災害は、いつか必ず来る」
だから、量産させた。
必要になる日が来ないことを願いながら、それでも必要になったときに足りないという事態だけは避けるために。
蒼志はモニターに積み上げられていくケースを見つめた。
現地で不足している酸素マスクが、そこにはある。
「第一医療班は」
蒼真の問いに、蒼志はすぐに表情を引き締めた。
「即応可能です。呼吸器症状への対応を優先した装備に変更しています」
「医薬品は」
「気管支拡張薬、吸入薬、輸液、搬送用酸素を追加しました。現地で簡易医療拠点を立ち上げられます」
「分かった」
蒼真は奏へ視線を向ける。
「航空管制は」
「飛行経路を確保しました」
奏の声は僅かに低くなった。
「ただし、白峰山周辺では降灰範囲が広がっています。風向きも安定していません」
「飛べるのか、飛べねぇのか」
「今なら飛べます」
奏は蒼真を見つめながら即答した。
「ですが、長くはありません。噴煙高度と風向きが変われば、確保した経路も閉じます」
迷っている時間はなかった。
陸路では間に合わない。
避難所では既に呼吸器症状を訴える住民が増え、現地で活動を続ける隊員たちには酸素マスクが行き渡っていない。
今、飛ばさなければならない。
蒼真はゆっくりと立ち上がると、蒼志に視線を向けた。
「蒼志」
「はい」
「第一医療班を率いて、零式統括機で現地へ向かえ」
その一言に、統括室の空気が張り詰めた。
「防塵高濃度酸素マスクを可能な限り積め。現地到着後は、呼吸器症状を訴えている住民への対応を最優先」
「はい」
「残りは第一特務隊と、現地で活動している警察、消防、自衛隊へ回せ」
「了解しました」
蒼真は一度、白峰山の映像へ目を向けた。
「現地の医療指揮は、お前に任せる」
父親が息子へ告げた言葉ではない。
黎明総統が、第一医療班班長へ下した正式な命令だった。
蒼志はまっすぐに蒼真を見る。
「必ず、間に合わせます」
その返答を聞いた蒼真は、僅かに目を細めた。
「間に合わせろ」
「はい」
蒼志が踵を返そうとした、その時だった。
「待て」
蒼真の声に、蒼志が足を止める。
蒼真は蓮へ視線を向けた。
「蓮」
「あ?」
「ここ、任せる」
短い言葉だった。
だが蓮は、蒼真が何をしようとしているのかをすぐに理解した。
蒼真は現地へ向かわない。
この統括室を放棄するつもりもない。
蒼志を送り出す前に、総統として伝えなければならないものがあるのだ。
蓮は腕を組み、蒼真を見返した。
「あぁ。任せろ。奏、補佐に入れ」
「了解しました」
「日向は各避難所の情報を引き続き集約。呼吸器症状患者と酸素使用者を分けて表示しろ」
「はい!」
蓮は矢継ぎ早に指示をしていく。
その姿を見て蒼真は車椅子へ乗ると蒼志へ顔を向けた。
「蒼志、総統室に行くぞ」
「……分かりました」
蒼志は一度だけ統括室を振り返った。
蓮は既に蒼真が見ていたモニターの前へ移動し、奏から航空情報を受け取っている。
先ほどまで蒼真が座っていた机には、食べ終えた羊羹の包みが残されていた。
父は食べた。
自ら本部に残り、この場所で戦い続けることを選んだ。
そして、その隣には蓮がいる。
大丈夫だ。
蒼志は小さく息を吐くと、蒼真の車椅子を追って統括室を出た。
二人が出ていったあと、蓮はモニターから視線を外さないまま口を開いた。
「奏」
「はい」
「零式統括機が現地へ着くまで、飛行経路から絶対に目を離すな」
「もちろんです」
「必ず通せ」
奏は力強く頷いた。
「はい」
統括室の扉の向こうでは、蒼志の足音が遠ざかっていく。
総統として、父親として。
蒼真はこれから、息子を戦場へ送り出す。




