第80話 No One Gets Left Behind
白峰山の噴煙は、先程より明らかに大きくなっていた。
避難車両の列は今も続いている。
役場前では警察と消防、そして黎明隊員達が住民誘導に追われていた。
「高齢者施設の搬送車両通ります!道を開けてください!」
怒号とサイレンが響き続ける、その時だった。
「……あれ」
一人の住民が空を見上げた。
誰もがその視線を追う。
灰色の空の噴煙の中、何かが舞っていた。
最初は雪のように見えた。
しかし違う、今は夏だ。
白でもない。
黒でもない。
薄い灰色の粒だった。
「灰……?」
誰かが呟いた次の瞬間だった。
パラ……。カラ…カラカラ……。
一粒、また一粒と車のボンネットへ落ち、道路へ落ち、人の肩へと落ちてくる。
「火山灰だ!」
消防隊員の声が響いた。
その場の空気が変わった。
噴火した事は頭では理解していた。
だが実際に火山灰が降り始めた事で、人々は初めて実感した。
白峰山は本当に噴火しているのだと。
役場前の指揮所で悠真は手のひらへ落ちた灰を見つめていた。
軽い。
だが量が増えれば違う。
視界を奪い。
道路を覆い。
呼吸器へ入り込む。
蒼志から何度も聞かされていた。
火山灰はただの灰ではない。
ガラスや砂が混じっている物質だ。
呼吸器に入り込めば命の危険もあると何度も、何度も聞かされた。
それが、現実になりかけている。
「悠真!」
律の声が後ろから聞こえ、悠真が振り返った。
律は既に防塵酸素マスクを抱えていた。
「来たぞ」
表情が険しい。
「ここからが本番だ」
その瞬間、無線が鳴り響いた。
『第3避難所で呼吸苦を訴える高齢者が発生!』
最悪だった。
避難が終わる前に状況が悪化し始めてた。
『酸素使用歴あり!』
『医療班を要請します!』
悠真と律は顔を見合わせた。
「場所は!」
『白嶺中学校体育館です!』
「分かった!」
無線を切った直後だった。
『こちら第2避難所!』
『喘息患者が発作を起こしています!医療班をお願いします!』
さらに別の無線が飛び込む。
『こちら第5避難所!』
『高齢者数名が咳を訴えています!火山灰の影響と思われます!』
次々と入る報告に悠真の表情が険しくなっていく。
「早すぎる……」
避難開始からまだ数時間しか経っていない。
それなのに、既に避難所では体調不良者が出始めた。
悠真の脳裏に嫌な予感がよぎった。
白嶺町にある防塵酸素マスクだけでは対応しきれなくなる。
────確実に。
律は空を見上げた。
灰色の空からは今も細かな火山灰が降り続け、静かに地面へと積もり始めていた。
「高齢者が多いからな」
火山灰は目に見える量だけではない。
細かな粒子は呼吸と共に肺へ入り込む。
特に高齢者や呼吸器疾患を抱える人間には負担が大きい。
「律さん」
「あぁ」
現地医療班だけでは限界が来る。
2人ともそれを理解していた。
悠真が本部へ繋がる通信を繋げようとした瞬間だった。
「悠真!」
駿が駆け寄ってくる。
「避難率七割突破!」
悠真は小さく息を吐いた。
「良かった…」
しかし駿の表情は晴れない。
「ただし……」
「どうした?」
「酪農家からの問い合わせが増えてる」
悠真は一瞬言葉を失った。
「……牛か」
駿は苦笑しながら頷く。
「家畜の確認依頼がかなり来てる」
悠真は俯いた。
そうだ、会議室の男性も家畜は家族だと訴えた。
あの男性だけではない。
他の酪農家もみんな、心配しないわけはない。
「家族だからな……」
「そこで理解すんな」
律の即座のツッコミが飛ぶと駿は吹き出してしまった。
「いや、でも気持ちは分かりますよ」
「分かるが優先順位が違うんだよ…」
律は額を押さえていた。
悠真は成長した。
こうして現地の統括もしっかりこなしている。
ただ、明らかに蒼真とは違う。
蒼真は優先順位を崩さない人間だ。
その判断に迷う事はない。
それは、蒼真の第一隊長時代に育てられた律だからこそ、分かる違いだった。
────悠真は優しく、感情移入しやすい。
優しい事が悪いことでは無い。
だが、この状況……白峰山は噴火している。
避難も終わっておらず、高齢者の搬送も続いている。
それなのに────。
「牛も────」
「無理だ」
悠真の言葉を最後まで聞かずに律が切り捨てた。
「まだ何も言ってません!」
「どうせ言うと思った」
「言おうとはしました」
「ほらな」
駿が肩を震わせていた。
「律さん、完全に先読みしてますね」
「こいつなら絶対言うだろ」
律は本気でそう思っていた。
現地統括責任者としては優秀で、判断も早い。
しかし、優しさが変な方向へ向いてしまう。
それが神代悠真なのだ。
その時だった、再び指揮所の無線が鳴り、悠真は即座に無線を取った。
『現地対策本部へ』
「こちら現地対策本部」
『火山観測所です』
無線からは観測員の緊張した声が響いてくる。
『噴煙高度上昇を確認』
悠真の表情が引き締まる。
『火山活動がさらに活発化しています』
律が舌打ちをしながら、防塵マスクを机に置いた。
嫌な予感がする程、当たる。
これだけの呼吸器障害の訴えが続いているのだ。
状況悪化の報告しか有り得ない。
『今後、降灰範囲拡大の可能性があります』
周囲の空気が重くなる。
避難が終わる前に状況が悪化し始めている。
悠真は降り続く火山灰を見上げた。
そして無線を握り直す。
「全避難所へ通達」
周囲の隊員達が一斉に悠真に視線を向けた。
「窓と換気設備を再確認」
「防塵酸素マスクは高齢者、呼吸器疾患患者を最優先管理」
「体調不良者は即報告」
現地統括責任者としての声だった。
悠真はこの瞬間、白嶺町の住民、観光客、避難誘導を行う隊員達の命をその背に背負った。
白峰山は今も噴煙を上げ続けている。
戦いはまだ始まったばかりだった。
『現地統括責任者より、総統』
黎明本部の統括室、通信に悠真の声が響くと蒼真はモニターから視線を外さず応じた。
「なんだ」
『予想より火山灰の影響が早く、多いです』
その報告に統括室の空気が引き締まる。
『避難所で呼吸障害の報告が増えています。現地医療班だけでは対応しきれません』
「だろうな」
蒼真は即答だった。まるで最初から予測していたような口調だった。
そして次の瞬間には統括室へ指示を飛ばす。
「奏、航空管制確認」
「確認中です!」
「蒼志、医療班体制は」
「第一医療班は即応可能です」
「悠真、呼吸障害の確認数」
『現在15名。うち在宅酸素使用者3名』
「これから、更に増えるぞ」
『はい』
「……蓮、羊羹」
唐突な蒼真の声に統括室が静まり返った。
呼ばれた蓮は書類からゆっくり顔を上げた。
「俺だけお前かよ」
奏がたまらず吹き出した。
蒼志が額に手を置きながら視線を逸らすその横で、日向は肩を震わせていた。
「違う」
蒼真は真顔だった。
「統括には糖分が必要だ」
「腹減ったなら、そう言え」
「うるせぇ」
『……』
2人のやり取りに回線の向こうで悠真は固まっていた。
『……何やってるんですか?』
「通常運転だ」
「通常運転だな」
蒼真と蓮の声が綺麗に重なると統括室からは僅かに笑い声が漏れる。
だが、その空気も一瞬だった。
蒼真は再びモニターへ視線を戻すと口を開く。
「悠真」
『はい』
「避難所の呼吸器症状患者を優先管理しろ」
『してます』
「医療は送る」
短い言葉だった。
だが悠真はその意味を理解した。
本部も……蒼真も確実に動き始めているのだ。
蒼真は椅子に背を預け、腕を組むと言葉を落とした。
「間に合わせる」
その一言に迷いはなかった。
まっすぐモニターを見つめる視線は強い。
『あと……酪農家からの家畜の確認件数が多いです』
悠真の報告に蒼真は僅かに眉を上げた。
「そうか。できうる範囲で確認しろ」
『了解しました』
「ただし火山灰、ガス濃度に注意しながらやれ」
『はい』
「酸素マスクの在庫はどうだ」
蒼真の問いに悠真は手元の報告書へ目を落とした。
『呼吸障害者と高齢者に優先配布しています』
しかしその後に数秒の間があった。
ゆっくりと、しかし悠真はハッキリと言葉を紡いだ。
『隊員達には足りてません』
そのひと言に統括室が静まり返った。
呼吸器障害が出る中で、外で活動する隊員達がマスクを着用出来ていない現実に蒼真は小さく息を吐いた。
「そうか」
いつもと変わらない、短い返答だった。
だが、その声色を知る者達は気付いていた。
蒼真の中で何かが決まった事に。
蓮は腕を組んだまま蒼真を見た。
「足りねぇか」
「あぁ」
蒼真はモニターから視線を外さない。
避難所、高齢者施設、現地対策本部に降り始めた火山灰。
次々と更新される情報、そして第一特務隊。
画面の向こうでは隊員達が灰を浴びながら住民と観光客の誘導を続けている。
「悠真」
『はい』
「隊員の症状は」
『現在確認されていません』
「続けば出る」
蒼真は静かに言った。
慢性呼吸不全。
肺線維症。
呼吸器疾患。
誰よりも肺の怖さを知る男の声だった。
悠真もその意味を理解している。
だからこそ、蒼志が何度も説明してくれたのだ。
『……はい』
「無理はさせるな」
『了解』
「住民優先は変えるな」
『はい』
「だが隊員も倒れるな」
悠真は思わず苦笑した。
相変わらず無茶な命令だ。
だが、それが神代蒼真で、父だ。
『了解しました』
通信が切れると統括室には再び静寂が戻った。
そんな中、蒼志が口を開く。
「父さん」
「あ?」
「マスク、足りませんね」
「あぁ」
蒼真は即答した。
そして奏へ視線を向ける。
「奏」
「はい」
「アレ、準備しろ」
「了解」
奏はすぐにどこかへ連絡を入れ始めた。
蒼真は再び白峰山の映像を見る。
山から吹き出す噴煙の色はさらに濃くなっている。
「足りねぇな……」
誰に聞かせるでもない呟きだった。
蓮は隣で羊羹の包みを開けると蒼真へ手渡した。
「ほらよ」
渡された羊羹を見て蒼真が眉を寄せた。
「なんだよ」
「糖分補給だろ」
「……」
「さっきお前が言った」
数秒の沈黙の後、蒼真は羊羹を一口齧った。
蓮は鼻で笑う。
「素直だな」
「うるせぇ」
現地は戦い続けている。
だから、本部が倒れる訳にはいかない。
それは、22年前に蒼真が蓮から怒られた事だった。
────お前が食わなきゃ、誰も食えない。
羊羹を頬張る蒼真の横顔を見る蓮の口元はほんの僅かに緩んでいた。
【おまけ 】全頭、帰す!そして、食う!
羊羹を頬張る蒼真の肩が、不意に小さく震えた。
隣に立つ蓮が眉を寄せる。
「蒼真?」
返事はない。
蒼真は口元を押さえ、俯いたまま肩を震わせている。
「おい。むせたか?」
「違う……」
掠れた声が漏れた。
「なぁ……悠真の家畜報告がさ……」
「あ?」
「あまりにも深刻すぎて……笑えるんだが……っ、ふ……www」
蓮は数秒、黙り、先ほどの通信を思い返す。
『あと……酪農家からの家畜の確認件数が多いです』
呼吸障害者の増加。
不足する酸素マスク。
噴煙高度の上昇。
そのあとに、悠真は全く同じ調子で家畜の報告を入れてきた。
「……俺も思った」
蓮の口元が僅かに歪んだ。
「“あと……”って言うから、もっと深刻な報告かと……っ、ふ…www」
「牛……っwww 避難誘導……www」
蓮が笑いだしたのをきっかけに、蒼真は堪えきれずに吹き出した。
「悠真、絶対……牛も列に並べる気だったぞwww」
「真顔で“家族だから”とか言いそうだなwww」
「駄目だ……っ、笑って羊羹食えねぇwww」
蒼真は食べかけの羊羹を机へ置き、腹を押さえた。
「つーか悠真、いつもより声低かったしよなwww」
「ああwww」
「絶対、統括者意識してただろ。俺の喋り方、意識してたろあいつwww」
「それ、俺も思ったwww若い頃のお前に似てたwww……蒼真が2人居るかと思ったwww」
「あークソッ……糖分摂って落ち着こうと思ったのに、余計笑えて食えねぇwww」
蓮も机に片手をつき、肩を大きく震わせている。
「お前が食わなきゃ、誰も食えねぇぞwww」
「今それ言うなwww」
統括室に二人の笑い声が響くのを不思議に思いながら、奏が連絡を終えて振り返る。
「何笑ってるんすか?」
蒼真が必死に呼吸を整え、涙を拭いながら答えた。
「悠真が……牛を……っ」
「牛?」
「全頭、帰すらしいぞwww」
「誰も言ってねぇだろwww」
蓮の追撃に、蒼真が再び吹き出すと、2人が何にツボって笑っているのか分からない蒼志は、額へ手を当てた。
「父さん、笑いすぎ。SpO2下がってるよ…酸素流量、あげるよ?」
「やめろっw牛で酸素上げたくねぇwww」
「じゃあ笑わない!」
「待てwwwお前も蓮見たいな顔で俺の声だすなwww」
「蒼真が……増殖したwww」
「蓮………ッやめろッ……顔がお前、声、俺……ww」
「ねぇ、2人とも?」
日向は肩を震わせる蒼真を、呆然と見つめていた。
「総統って……あんなに笑うんですね」
奏も僅かに肩を振るわせ、日向に答えた。
「基本あの2人、アホだから」
「「お前にだけは言われたくねぇよwww」」
奏の言葉に蒼真と蓮の声が重なって返ってきた。
「そんなに”牛”面白いですか、2人とも」
真顔に戻った奏が”牛”というワードを口にしただけで、2人の笑い声は更に大きく統括室に響き渡った。
まるで、それを待っていたかのように奏はにやぁっと笑みを湛えた。
「いやぁー”牛”なんて聞くと、あれですね。焼肉食いたくなりますね」
「奏…ぅ…ッ…牛やめろwww」
「…っぶはwwwてめぇ、総統の俺を殺す気かw」
なおも笑いが止まらない2人に奏は追い打ちを掛ける。
「全頭、帰して…食いますか!!」
奏の言葉に蒼真と蓮はついに床に疼くなって笑い、床を叩き出す。
「奏、てめぇぇぇ!www」
「後で覚えてろっ…www」
黎明のトップ2人は再起動不能。
その様子を蒼志は頭を抱え、呆れた視線で見ていた。
悠真の優しさが、どんな災害にも負けてこなかった2人を陥落させた瞬間だった。
※あまりにも真剣な悠真の声と喋り方に2人がツボって大爆笑。(赤ちゃんから見てるので2人とも)しばらくの間、黎明内部と神代家では”牛”ワードは禁句とされました。(蒼真が呼吸困難になる為)
―——後日。
「……俺、仕事ちゃんとしてたよね?」
「してた、してた。あれは父さんと蓮さんが成長を喜んだんだよ」
肩を落とす悠真を蒼志がなだめると、遠くから再び2人の笑い声が聞こえてきた。




