第63話 You Always Came Home
夕食も終わり、賑やかだった神代家も少しずつ静けさを取り戻していた。
紬は眠りにつき、蒼志と渚も部屋へ戻り、悠真も今日は泊まるらしいが蓮は帰って行った。
寝室へ入った麗華は鏡の前に腰を下ろし、ゆっくりと髪を梳かしていた。
その様子を蒼真はベッドにもたれながら眺めている。
「……まだ見てるの?」
鏡越しに蒼真と目が合い麗華が苦笑すると、蒼真は当然のように答えた。
「綺麗だから」
「今日は随分素直ね」
「いつも思ってる」
あまりにも自然に返され、麗華は思わず吹き出した。
「そうだね」
昔なら絶対に言わなかった言葉だ。
言う前に耳まで真っ赤になっていたのに。
年齢を重ねて変わったのか、それとも隠さなくなっただけなのか。
どちらなのかは分からない。
ただ、蒼真の視線は昔と変わらず真っ直ぐだった。
「34年か……」
「長かった?」
麗華が振り返ると、蒼真は少しだけ考えて首を横へ振った。
「いや」
「?」
「気付いたら過ぎてた」
その答えが蒼真らしくて、麗華は小さく笑った。
きっとこの人は昔も今も変わらない。
目の前のことに全力で向き合って。
気付けば何十年も経っている。
そんな生き方をしてきた人だった。
「後悔してる?」
不意に麗華が問い掛けると蒼真は怪訝そうに眉を寄せた。
「何を」
「私と結婚したこと」
「してねぇ」
迷いも躊躇もない返答に、今度は麗華の方が少し驚いていた。蒼真は鼻を掻きながら続けた。
「むしろ」
「?」
「俺と結婚して後悔してんの、麗華の方だろ」
麗華は目を瞬かせた。
「どうして?」
「昔はこんなに家に居なかったし、怪我するし、倒れるし……心配ばっか掛けてきた」
淡々と並べられた言葉に麗華は静かに耳を傾けた。
若い頃からずっとそうだった。
任務へ行っては傷だらけで帰ってくる。
隊長になっても。
総統になっても。
それは変わらなかった。
何度心配したか分からない。
何度祈ったかも分からない。
それでも────。
「してないわ」
麗華は静かに答えると、蒼真が僅かに目を見開いた。
「一度も。だって……蒼真、ちゃんと帰ってきたから」
麗華は優しく微笑んでいた。
「……」
「何度でも、ちゃんと帰って来た」
肺を失っても、埋没しても。
何度倒れ、限界を超えても。
蒼真は帰って来た。
家へ。
私の元へ。
だから後悔なんてしたことがなかった。
後悔する理由もなかった。
そんな事は結婚する前から分かっていた事だった。
蒼真はしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく息を吐いた。
「そうか」
「そうよ」
穏やかな沈黙が流れていたが、その空気を壊したのは麗華だった。
「でもね」
「ん?」
「今日の『綺麗だ』は嬉しかった」
麗華の言葉に蒼真は固まった。自分が先に口に出した言葉なのに、返されると恥ずかしかった。
麗華は楽しそうに笑った。
「ありがとう」
「……」
「蒼真?」
「……忘れてくれ」
「嫌」
即答する麗華が笑い、蒼真が露骨に嫌そうな顔をしていた。
そんなやり取りすら昔と変わらない。
やがて部屋の灯りが消され、静かな夜が舞い降りた。
隣からは規則正しい寝息が聞こえていた。
蒼真はそっと視線を向ける。
夫婦になって34年、付き合ってからは40年にもなる。
ずっと隣に居てくれる人。
人生の半分以上を共に歩いた人。
蒼真はそっと手を伸ばし、麗華の手を握った。
温かかった。
「……ありがとな」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
けれど眠っているはずの麗華の指先が、そっと握り返してくる。
蒼真は少しだけ笑って、そして静かに目を閉じた。
────家族が増えるよ。
そう言おうとしていたのに、緊急出動で呼び出され家を出ていった背中。
“行かないで”
喉まで出かかった言葉だった。
第一特務遊撃隊の隊長である以上、呼び出しが掛かれば当たり前なのに、行かないで欲しかった。
あの日は見送る背中に胸騒ぎがした。
そして、現場から外してもらっていた自分にも出動要請が掛かり、何か起こるかもしれないと思った。
そして────
夫は肺の一部を失った。
その最後の決断をしたのは私。
挿管までは出来た。
夫の命を繋ぎ止めなければ、と必死だった。
だけど、その先は何も出来なかった。
応急処置後、医療棟に搬送され同僚から状態の説明を受けている時、ほとんど聞こえてはいなかった。
レントゲンやMRIの結果を見れば分かってしまう。
説明なんて必要なかった。
どうすれば、命が助かるのか。
だから、迷いはしなかった。
同意書にサインを震える手で書きながら、頬を一筋の涙が伝ったのを覚えてる。
────ごめんね、蒼真。
あなたから私は自由を奪う。
だけどね、まだ生きていて欲しい。
未来の為に。
蒼真は怒るかもしれない。
私を恨むかもしれない。
笑ってくれないかもしれない。
それでも────。
意識が戻ってすぐの蒼真は絶望していた。
肺切除の現実、今後の後遺症や合併症のリスク。
そして何より、無理の効かない体になってしまった事に。
助けたいのに、助けられないかもしれない現実と向き合っていた。
けれど…私に向けた言葉は怒りではなかった。
『麗華に決断させて、悪かった』
『生かしてくれて、ありがとう』
蒼真は優しく微笑んでいた。
その時、私は泣きながら蒼真に抱きついて、何度も謝っていた。
泣きじゃくる私に戸惑いながら、蒼真はただ静かに抱き返して、頭を撫でてくれた。
それだけで、私は救われた。
そして、蒼真は産まれてくる子供をちゃんと抱きたいと、リハビリに専念するその姿はカッコよくて、背中は大きいままだった。
ふと、目を開けると安心しきった寝顔の蒼真の顔があった。
銀髪の中に白髪が増えて、昔程はキラキラしない髪の毛、刻まれたシワがあっても、整った顔立ちは変わらない。
「……あなたも幾つになってもかっこいいんだけどね」
顔の話ではない。
変わらない大きな背中。
何があってもそれだけは変わらない。
無理の利かない身体になってもそれでも蒼真が黎明に残り続けた理由は私も知らない。
蒼真は『約束だから』と一言だけ言っていた。
誰との約束なのかは、聞かなくても分かった。
だから、それ以上は聞く必要もなかった。
何度ボロボロになっても2人が立ち続け、走り続ける理由なんて私にはいらない。
ただ、帰ってきてくれるならそれで良い。
翌朝。
目を覚ますといつも通り、隣には蒼真がいた。
それが当たり前の光景になって何年経っただろう。
麗華は静かに息を吐いた。
昨夜は随分と昔のことを思い出してしまった。
肺切除の日。
蒼志がお腹にいた頃。
何度も病院で夜を明かした日々。
埋没事故の日。
どれも昨日の事のように思い出せるのに、気付けばもう何十年も前の話だった。
そっと視線を向けると蒼真はまだ眠っていた。
呼吸を助ける鼻カニューレも当たり前になった。
それでも、この人はちゃんと生きている。
麗華は小さく笑った。
「おはよう、蒼真」
返事はなく、まだ眠っているらしい。
起こさないようにベッドを降り、静かに寝室を出た。
リビングへ向かうと、既に蒼志と渚が起きていた。
コーヒーを淹れながら振り返る2人を見ると昔の自分達に少し似ている気がした。
「おはよう、母さん」
「おはよう」
「父さんは?」
「まだ寝てるわ」
その言葉に蒼志は少し安心したように笑った。
「昨日、母さんと渚が帰ってくる前から寝てたから…疲れてるね、やっぱり」
「そうねぇ…」
本人は認めないだろうが、以前より疲れやすくなっていることを麗華は知っていた。
そして、何年も付き合い続けている不眠症。
昨日はすぐに眠れたのだろうが、眠れない日もまだ多い。
それでも、眠れる時間が少しは伸びてはいるようで、麗華は少しだけ安心していた。
階段の方から足音が聞こえてきた。
「おはよー……」
足音の主の悠真は欠伸をしながらリビングへ入ってきた。
「おはよう」
「おはよう」
麗華が挨拶を返すと悠真はソファへ倒れ込み、目を擦った。
「平和だなぁ……」
「何よ突然」
「いや、なんか昨日父さんと母さん見てたらさ」
悠真は眠そうな顔のまま天井を見上げた。
「結婚って悪くないのかもなって」
その言葉に麗華と蒼志は顔を見合わせた。
「珍しい事言うな」
「だって蓮さん見てると独身最高そうじゃん」
「それは否定出来ない」
「蒼志、それどういう意味」
蒼志が即答すると渚が即座に突っ込む様子に悠真は吹き出した。
その時だった、聞き慣れた声がして全員がリビングの入口を振り返った。
「朝から何の話してんだ」
そこには寝癖のついた銀髪のままリビングへ入ってきた蒼真がいた。
「父さん、おはよう」
「おはよう」
「父さん、結婚ってどう思う?」
悠真の突然の質問に蒼真は一瞬だけ考えたようだが、当然のように答える。
「良いもんだぞ」
麗華は思わず目を丸くした。
蒼志も渚も悠真も固まっていた。
蒼真はみんなの反応の意味が分からないとでも言いたげな顔をしていた。
「……なんだよ」
「いや、父さんがそんな事言うとは思わなくて」
「事実だろ」
そう言いながら蒼真は麗華の隣へ腰を下ろした。
その距離があまりにも自然で、当たり前すぎて麗華は思わず笑ってしまった。
何十年経っても。
きっとこれからも。
変わらない朝は繰り返されていく。




