第62話 Where I Belong
本部訓練棟の片隅から、鈍い衝撃音が響いた。
――ドンッ。
「っ!」
若手隊員が床へ転がるその横で、悠真が額の汗を拭いながら息を吐いていた。
「大丈夫?」
「ぁ、はい!……大丈夫です」
差し出された手を掴み、若手隊員は立ち上がる。
今も、本部の日常は変わらない。
訓練を行い、学び、次の災害へ備える。
そして、制圧等の任務がなくなってからも、精神鍛錬の目的から黎明には組み手の文化が残っている。
私情の喧嘩をさせない為の制度だと聞いたこともあった。本当の理由は分からないが、ベテランも中堅も若手も関係なく、組み手訓練はよく行われている。
それが黎明の日常だった。
「悠真さん、手加減してくださいよ……」
「したぞ?」
「嘘ですよね!?」
「うーん…した」
にこっと笑いながら悠真に返され、若手隊員が絶望した顔をすると周囲から笑い声が上がった。
「だから言っただろ」
「悠真さんと組手やるなって」
「生きて帰れただけマシだぞ」
「そんな災害現場みたいな言い方あります!?」
若手の突っ込みに訓練場は一気に賑やかな空気になる。
悠真は苦笑しながらタオルを肩へ掛けた。
少し前まで若手たちがなんとなく自分と距離を取っていたことに悠真は気が付いていた。
神代総統の息子。
ただそれだけで距離を取っていたようだ。
確かに父と同じ銀髪で若手には、いつも冷徹な雰囲気の父と自分が被ってしまうのだろうと思った。
———悠真は悠真だ。
それは3年前、蓮から貰った言葉だった
ずっと”父さんみたいになれない”、黎明に何のために来たのか悩んでいた時に貰ったあの言葉が自分を変えてくれた。
そのあとは簡単だった。
父のように冷徹な雰囲気を出す必要もない、総統候補として何を目指したいのかも分かった。肩書が欲しいわけでもない、自分の憧れた父の姿に追いつこうともがくことは辞めた。
きっと父はこの国の命を全部守りたい。
だけど、俺はその先も見たいと思うようになった。
全員、帰したその先の場所———帰る場所を。
俺は、父が長年背負う、この国も黎明も人々の帰る場所として守りたい。
そして、父も。
自分が次の総統になるかどうかなんて、まだ分からない。
……忙しさを考えると、正直なりたくないと今も思う。
守ることは第一特務隊としても出来ることだからだ。
ふと、訓練場から見える駐車場の車に蒼真が乗り込むのが悠真に見えた。
国家の会議にでも向かうのかと思ったが、公務車両ではなくその車は蓮の個人の車だった。
個人の車で向かう先は1つしかない。
自宅だ。
昼過ぎから帰るなんて、珍しいこと…いや、どんなに体調が悪くても帰りたがらない父がこんな時間に帰宅するなんて有り得ない事だ。
何事かと悠真は目を疑った。
そして、今日は神代家へ帰ろうと決めたのだった。
訓練を終えた悠真が神代家へ到着したのは夜だった。
玄関を開けると聞き慣れた賑やかな声が飛び込んでくる。
真っ先に突撃してきたのは紬だった。
「悠真くんだー!」
悠真は慣れた様子で紬を抱き上げるとリビングから蒼志が歩いてきた。
なにやら驚いたような顔をしている。
「ちゃんと来たんだ」
「え、ちゃんと?どういうこと?」
「……分からずに来たのかよ」
蒼志は呆れた顔をして息を吐いた。
ただ、日中に帰った父が気になって来てみたのに、”ちゃんと”なんて、まるで今日、自分が帰ってくる予定があったような言葉だ。
「だから、どういう事」
困った悠真が口を開くと、教えてくれたのは抱き上げていた紬だった。
「今日ね、じぃじとばぁばの結婚記念日だって!」
キラキラと紬が目を輝かせながら答え、悠真は目を丸くした。
父が早く帰宅した理由は母だった。
リビングに悠真が進むとソファには当然のように蒼真が座り、鼻カニューレを付けたまま、手にはタブレットを持っていた。
帰宅は早かったと言えど仕事はしているのかと思ったが、父は仕事の資料は基本的に書斎で見ていることが多い。
タブレットもいつも自宅では書斎か鞄に入れっぱなしのはずだ。
いつもと違う父に悠真は声を掛けた。
「父さん、何見てるの?」
「白嶺湖」
父はタブレットから顔もあげずに一言だけそう言った。
それは蒼志が昨日の現地視察で撮影した写真だった。
「綺麗だね…」
「まぁ」
興味無さそうに答えながらも蒼真は写真を閉じず、むしろ数枚先へ進めている。
「気に入ったんだ」
「別に」
「気に入ったんでしょ」
「うるせぇな」
蒼真と悠真のやり取りに蒼志が笑っていた。
悠真は蒼真の横に腰を降ろすと、蒼真の声がすぐに耳に届く。
「……おい、図体デカいんだから近寄るな、邪魔」
「いいじゃん、別に」
隣に座られた蒼真が露骨に嫌そうな顔をしたが、それはいつものことだ。
大体、そんな顔をするときは嬉しい時だ。
父の照れ隠しなのを悠真は知っている。
嫌そうな顔をしても本気で追い払う事はしない父と共にタブレットを覗く。
夕日に染まる湖面。
空を映した静かな水面は確かに綺麗だった。
「天鏡湖だっけ」
「そう」
悠真が呟くと蒼志が頷いた。
そのタブレットに広がる光景に悠真は自然と笑みが零れた。
国を守る。
黎明を守る。
人を守る。
それはきっと大切なことだ。
だけど―――。
こうして帰って来られる場所があるから、人は戦えるのかもしれない。
父が守り続けてきたもの。
自分が守りたいと思ったもの。
それは案外、ずっと目の前にあったのかもしれない。
「ちなみに父さん達って結婚何周年なの」
「34年」
悠真の質問に迷うこともなく即答した蒼真。
悠真は思わず吹き出してしまった。
「なんで笑うんだよ」
「だって…父さんって確かに母さん大事にしてるけど、悩みもせずに言うんだもん」
「別に忘れる必要ないから忘れねぇだけだよ……一応聞くけど、悠真は結婚しないのか」
「一応ってなんだよ…うーん、結婚ねぇ…父さんと蒼志見てると良いなって思うけど、独り身の蓮さん見てるともっと良いって思っちゃう」
蒼真の質問に悠真は大きく伸びをしながら答えた。
父と兄を見てると確かに結婚に憧れがないわけではない。
けど、自分にとっては結婚することが重要とも思えなかったし、しろと言われることもない。
更に、蓮の存在も大きかった。
自由な独り身…まぁ、昔から父に呼び出されるのか、好んで来ているのかは謎だったが、今になれば分かる。蓮は神代家を見守ってくれていたのだと。
甥っ子の蒼空、姪っ子の紬の2人が自分には居る。
だから、蓮のような存在になるのも悪くないと思う。
「しかし、母さん達、遅くない?」
蒼志が紬の宿題を見ながら呟く。
悠真も麗華が居ないことが気になっていた。結婚記念日と言うなら当然、父と一緒に居ると思っていたのに、母も渚も居ない。
「そろそろだろ」
蒼真が興味無さそうに欠伸をしながら答えた。
「母さんと渚さんどこ行ったの?」
「蓮に運転手させて、買い物行くって…悠真、羊羹取ってこい」
「羊羹ね…」
なるほど、夕飯の買い物にでも出掛けたという事か。
そして、父はお腹が空いたらしい。
羊羹を取って渡すと暇そうな顔をして食べ出す父が、総統と呼ばれている時と違いすぎて、いつも不思議に思う。
家ではそんな様子を見せることがないのだ。
体調が悪い時は毛布に包まって、こうして何もない時はぼーっとしている。
だけど、それが国を背負う父には必要な切り替えなのだと、ようやく分かるようになった。
父にとって、この家は安心出来る場所なのだろうと。
本人は分かっているのか、どうなのか、ただの天然なのかは分からない。
「ただいまー」
リビングに最初に入ってきたのは渚だった。
蒼志が渚に近寄り小声で話している事に悠真は気がついたが、蒼真はいつの間にかうたた寝モードで帰ってきた事にすら気がついていなかった。
渚の後から蓮が買い物袋を持ってリビングに入って来ると、最後に麗華が入ってきた。
その麗華の姿に悠真は目を見開いた。
母の雰囲気は明らかにいつもと違った。
元々、歳の割に綺麗な母だ。
だけど、いつもよりも綺麗な事が悠真にも分かった。
麗華は悠真にクスっと少しだけ笑いかけると、蒼真を揺り起こした。
「蒼真」
麗華の声で蒼真がゆっくりと目をあけ、ぼんやりしながら麗華を見つめていた。
そして、ぽつりと蒼真が呟いた。
「……綺麗だ」
おかえりの前にその言葉が出た。
目を開けたら、麗華がいた。
昔着ていたワンピースに似たワンピースを着て、普段はただ結んでいるだけの髪の毛もセットされていた。
他の言葉を蒼真は見つけられなかった。
何十年も隣にいるのに、麗華は静かに輝き続けて蒼真を照らしてくれている。
「父さん、母さん!結婚34周年おめでとう!」
「私たちからのささやかなプレゼント、お義父さん気に入ってくれました?」
蒼志と渚が笑顔で語りかける中、蒼真は麗華から視線をまったく外そうとしなかった。
「ありがとうね、蒼志、渚ちゃん」
麗華がニコッと2人に微笑むと、紬の元気な声が響いた。
「ばぁばのお洋服、お姫様みたいで可愛い!」
「うん、母さんやっぱり綺麗だよね」
紬の声に悠真も頷いた。
そんな中、蒼真はまだ麗華を見つめていた。
その後ろを蓮がため息を吐きながら「顔緩んでんぞ、クソ蒼真」と呟き、蓮はタバコに火を付けながら庭へ出た。
夜風が静かに吹く。
リビングからは紬の元気な声が聞こえていた。
蒼志と渚の声。
悠真の笑い声。
神代家は今日も賑やかだ。
煙をゆっくり吐き出すと風に攫われていく。
「……」
あの二人が夫婦になって34年。
あの不器用な男が
『……綺麗だ』
目を覚ました瞬間、そんな言葉を口にした。
惚れていた事も自覚出来ずデートもまともに出来なかった男が、素直にそんな言葉を口にした事に、蓮は思わず吹き出した。
「はっ……」
何十年も一緒に居て。
毎日顔を見て。
子供を育てて。
孫までいる。
それなのに。
目を開けた瞬間、あんな言葉が出てくる。
「無理だろ」
自分には無理だ。
若い頃から思っていた。
結婚なんて向いていない。
誰かの人生を背負うなんて面倒だ。
考えた事がまったくないわけではなかったが、ただでさえ厄介で世話の掛かる男がいつも隣にいる。
自由な方が楽だと思った
実際、その通りだった。
気付けば60歳、独り身で金にも困ってない。
タバコがあれば、それでいい。
別に後悔もない。
ふと窓の向こうを見るとリビングでは蒼真が夕食の準備をする麗華を目で追っていた。
「……見過ぎだろ、クソ野郎」
思わず笑ってしまう。
だけど、少しだけ、本当に少しだけ羨ましいとも思った。
それでも────
「……やっぱ俺は結婚しなくて良かったな」
34年連れ添った相手に、あんな事言える気がしない。
たぶん照れ臭くて逃げる。
だから……見てるだけで十分だ。
それでいい。
神代家の灯りを眺めながら、蓮は静かに笑った。
「面白ぇし」
その時だった。
「蓮さーん! ご飯ー!」
紬の元気な声が庭まで響いてきて、蓮は煙を吐き出しながら空を見上げた。
「……俺ん家、どこだっけな」
そう呟きながら、タバコを消し結局いつものようにリビングへ戻っていった。




