第60話 Before It Happens
白嶺湖が窓の外に広がっていた。
上空から見下ろす湖面は鏡のように穏やかで、初夏の陽光を反射して静かに輝いている。
その奥には白峰山。
雄大な山容は変わらずそこにあり、空へ向かって悠然とそびえ立っていた。
7年前から監視対象となっている活火山だ。
しかし、そんな様子は今は全く見えない。
マットブラック機内から、蒼志は窓の外へ視線を向けたまま、小さく息を吐く。
「綺麗ですね」
隣の席に座る蓮が興味なさそうに視線だけ動かした。
「そうか?」
「そうですよ」
再び窓の外を見ると蓮も窓の外を眺めた。
いや、白嶺山を静かに見ていた。
白嶺町。
人口は決して多くない。だが観光地としても知られ、白嶺湖と白峰山を目当てに多くの人が訪れる町だった。
今回の目的は、その白嶺町の防災体制視察だった。火山性微動増加、火山ガス濃度上昇、地殻変動観測から警戒レベルが引き揚げられ、一部立入規制や日によって入山規制が掛けられるようになった。
「総統、本当は来たかったみたいでしたけどね」
蒼志の言葉に、蓮が苦笑した。
「あぁ」
「随分粘ってましたよ」
「知ってる。けど、誰も最終的に搭乗許可出さなかったろ」
「そりゃ…担当医としてはあの肺機能と心電図じゃ許可出来ません」
蒼志は苦笑いした。
直前まで同行を粘った蒼真だったが、誰も搭乗許可を出さなかった。
不整脈を起こした国家予算会議から3年が経ち、蒼真も60歳。身体の事を考えれば誰も許可を出さないのは当然だった。
「でも、諦めてねぇぞアイツ」
「諦めてないんですか」
「他の方法探し出すから」
「ああ…なるほど」
蓮は肩を竦めた。
神代蒼真は相変わらずだった。
視察があると聞けば同行したがる。
医療班長として、そして息子として、蒼志は何度も止める羽目になっていた。
「もうちょっと安静にして欲しいもんです」
「無理だろうな」
蒼真の言うことの聞かなさには頭が痛くなる。
仕事の事となると特にだ。
安静指示が本人にとっては参考意見程度の扱いらしいのが困ってしまう。それでも、蒼志と蓮の管理によって無理な日程の詰め込み仕事は避けられるようにはなっていた。
そんな会話をしていると、機内モニターが不意に点灯し、聞き慣れた声が響いてきた。
『聞こえるか』
蒼志と蓮は窓からモニターへと視線を向けた。
「居た」
「居るな」
モニターの向こうの本部統括室には当然のように神代蒼真が座っていた。
『白峰山見せろ』
開口一番がその一言。蒼志は額を押さえた。
「挨拶はないんですか」
『朝も会っただろ』
「まぁ、確かに…」
呆れた声を返すと、モニターの向こうで蒼真が小さく笑った。
その隣では奏がコーヒーを片手に書類を眺め、律は端末を操作している。
「なんで普通に参加してるんですか」
『視察だからな』
「現地に居ませんよね」
『参加してる』
「オンラインですよね」
『参加してる』
全く悪びれない様子に、蓮は予想通りだな、と小さく息を吐いた。
「だから言っただろ」
「本当に他の方法探した……」
予想通り過ぎて反論する気も失せる。
その時、機体がゆっくりと高度を下げ始めた。
眼下には白嶺町の街並みが広がっていた。
白嶺湖を中心に広がる穏やかな町だった。
『いい町だな』
不意に蒼真が呟くと蒼志は窓の外へ視線を向けた。
「そうですね」
『観光客も多いらしいな』
「年間百万人近いらしいです」
『避難対象としては厄介だな』
穏やかな景色を見ながら、考えている事だけは相変わらずの蒼真に蒼志が苦笑する。
「まだ噴火した訳じゃありませんよ」
『してから考えるんじゃ遅い』
蒼真は静かに答えた。
『だからお前達が行ってる』
その声音に冗談は無かった。
────白峰山。
今はまだ穏やかでも、いつかは動くかもしれない。
だからこそ、確認する。
21年前の巨大地震も最初の兆候から確認し準備し、備えた。そして、黎明が蒼真が全国の救助、医療、避難、消火の統括を担った。
今回も例外なく、避難経路は十分か医療体制は整っているか、住民へ周知されているかの確認も含んだ視察だった。
21年前から黎明が保持する、災害発生時の救助初動権限を十分に活かすためにも。
全員を帰せるか。
やがて、マットブラックが役場近くのヘリポートへ進入する。
『着いたら通信繋ぎ直せ』
「まだ居るんですか」
『当然だ』
何言ってんだと言わんばかりのモニターに映る蒼真の表情に蒼志は溜息を吐いた。
やはり来れば良かったと思っている顔をしている。
そして恐らく搭乗許可が出ていたら、来ていたのは間違いない。
マットブラックが着陸すると、蒼志と蓮はそのまま白嶺町役場へと向かうと町長をはじめ、防災担当職員達が出迎える。
「ようこそお越しくださいました」
「本日はよろしくお願いします」
挨拶を交わしながら会議室へ入ると大型モニターや資料が既に準備されていた。
席へ着いた蒼志が通信端末を接続した数秒後、正面モニターが点灯した。
『始めてくれ』
当然のように蒼真が映ると町長達が固まった。
「そ、総統……?」
『神代です』
「え、あの……本部からですか?」
『本部です』
「そうでしたか……」
明らかに動揺している町長達に蒼志は少し申し訳ない気持ちになった。
全国的にも有名な人物だ。
しかも本来なら来る予定が無かったはずの総統が、突然モニター越しに参加してきたのだから無理もない。
『続けてください』
蒼真が静かに促すと、その一言で会議室の空気が切り替わった。
町長が咳払いを一つすると緊張しながらも会議が始まった。
「失礼しました。それでは現在の白峰山の状況から説明させていただきます」
モニターに資料が映し出された。
火山性微動、火山ガス濃度、地殻変動データ等の観測記録が並んでいく。
「現状、直ちに噴火する兆候は確認されていないと国からは通達が来ております」
担当職員が説明するが、そんな事は蒼真達はとっくに分かっている。
合同会議で国から町への通達を指示したのは蒼真と蓮だ。
「しかし警戒レベルの引き揚げに伴い、一部登山道については規制を実施しております」
蒼志は資料へ視線を落とした。
数値だけを見れば異常ではないが確実に増加傾向だった。
『避難対象人口は』
モニター越しに蒼真が尋ねる。
「住民約12,000人。観光シーズンには一日最大4000人程度の観光客が滞在します」
『宿泊客含むか』
「含みます」
『外国人観光客は』
「年間約15,000人です」
蒼真からの質問は次々と飛ぶ。
観光客、高齢者、避難所、夜間対応、医療搬送、道路事情と蒼真は可能な限りの情報を集めて行く。
職員達が資料を捲る速度が少しずつ上がっていったていた。蒼真のスピードについて行けてないようだと感じた蒼志は隣を見る。
蓮は黙ったまま資料を読んでいた。
質問をしない。
蓮の確認したい事も蒼真と同様と言うことなのだろう。
しばらくして────。
「避難計画の住民周知率は87%です」
担当職員が答えたその瞬間、蓮が初めて資料から顔を上げた。
「残り13%は」
蓮の低い声が響くと会議室が静かになった。
「……把握中です」
「把握じゃなくて特定してください」
低い声だった。
「噴火してから探す気ですか」
担当職員が息を呑んでいた。
蓮は資料を閉じると口を開く。
「避難計画は作るだけじゃ意味がない。全員が知って初めて避難計画になる」
蓮の言葉は静かな言葉だった。
しかし、重かった。
モニターの向こうでは蒼真も小さく頷いていた。
会議室が静まり返り、担当職員は資料を握ったまま言葉を失っていた。
蓮はそれ以上責める事はしなかった。
ただ、事実を伝えただけだった。
噴火してからでは遅い。
避難計画とは紙の上に存在するものではなく、人が生きて避難する為のものだ。
ただ、それだけを。
「……失礼しました」
担当職員が小さく頭を下げた。
「周知対象者の再確認と未確認者の特定を進めます」
蓮は短く頷いた。
「お願いします」
その声は先程までより僅かに柔らかく、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
するとモニター越しに蒼真が口を開いた。
『町長』
「は、はい」
『この町を守れるのは最終的には我々ではありません』
蒼真の真っ直ぐな声に町長が姿勢を正していた。
『住民です』
静かな声だった。
しかし、その場に居る全員が耳を傾けていた。
『我々は救助に行く。医療も出す。避難支援もする』
蒼真は一度言葉を切る。
『だが、最初に動くのは住民自身です』
白嶺湖。
白峰山。
穏やかな景色。
観光客で賑わう町並み。
今はまだ平和だからこそ難しい。
災害はいつも平和な日常の中で始まる。
『避難計画を作っただけで安心しないでください』
モニター越しの蒼真の視線が真っ直ぐ町長達へ向けられる。
『全員が帰れる準備をしてください』
会議室の誰も言葉を発せずにいた。
蓮も静かに町長や職員を見守っていた。
やがて町長が深く頭を下げた。
「……承知しました」
その言葉に蒼真は小さく頷いていた。
『では次の資料を』
蒼真の一言で再び会議は動き出した。
しかし、その場に居た誰もが理解していた。
白峰山はまだ噴火していない。
いつ、その時が来るのかも分からない。
だが、黎明は既にその日の為に動き始めているのだと。




