第54話 A Promise He Still Wears
朝は静かだった。
麗華が起きると蒼真はまだ静かな寝息を立てていた。
昨日の不整脈もあったからか、まだ顔色は良くは無さそうだった。
蒼真の酸素を確認し、麗華はいつものように寝室からリビングへと向かい、コーヒーの準備をしていると、玄関のドアが開く。
「ただいまですー」
「ばぁばー!」
夜勤明けの渚と紬の帰宅だ。
紬は一直線に華凛の元へ走ってくると飛びついた。
「今日も元気ね、つむちゃん、おかえり」
「麗華さん、ごめんなさい…」
「いいのよー。渚ちゃん、洗面所が占拠される前にお風呂入っちゃいな」
「ありがとうございます…」
夜勤で疲れ切っている渚をお風呂に向かわせ、麗華は紬と遊んでやる。
そうしているうちに、蒼志が起きてくる。
眠そうに自分でコーヒーをいれて寝ぐせのままぼーっと飲む。
その姿は若いころの蒼真にそっくりで麗華はクスッと笑う。
「ぱぱ!おはよ!」
紬はコーヒーを飲む蒼志へ声をかけると、まだ眠たそうに蒼志が返事をする。
「おはよぉ…」
「ぱぱ、眠いの?」
「うん………はっ!朝イチから会議だった!やばい…!」
蒼志は最近忙しさから朝はいつもこんな感じだった。
コーヒーを飲み干すとバタバタと準備を始める様子を麗華と紬は笑いながら眺めていた。
渚がシャワーを終え、蒼志が家を出た頃、蒼真がゆっくりと階段を降りる音が聞こえてくると、紬が目を輝かせた。
「じぃじもいたの?!」
「いたね」
紬は蒼真がもう仕事に行ったと思っていたらしい。
リビングに姿を現した蒼真の足に紬は飛びつこうとしたが、渚に止められた。
「じぃじに飛びつき禁止でしょ」
「はぁーい」
渚に叱られ、悲しそうな顔をする紬の頭を蒼はそっと撫でるとソファへと腰を降ろした。
「帰ってたのか」
「かえってきた!」
「そうか」
まだ寝起きでぼんやりしながらも紬が傍に来ると抱き上げる姿を見て、麗華は思わず笑った。
さっきまで死んだように寝ていた人間とは思えないほど表情が明るい。
「お義父さん、起きたんですね」
「おー」
短く返事をした蒼真だったが、その腕はしっかり紬を抱えたままだ。
渡さないぞ。とでも言うかのようだ。
紬もすっかり安心しきった様子で蒼真の胸に寄り掛かっている。
蒼真が子供好きなのを知っている渚。
見てくれているなら問題ない。と麗華と共に朝食を食べ始める。
紬が生まれて3年。
最初こそは蒼真が紬を抱いている時は遠慮することもあったが、紬も蒼真もなんだか楽しそうにしている様子を見て、遠慮はなくなった。
麗華も「蒼真が抱きたいだけだからほっといていいのよ」と言ってくれたのも大きな理由だった。
——穏やかだ。
家族が笑っている。
ただ、それだけの事。
それだけの事が遠く感じた日々もあった。
今はそれが手の届く場所まで来ている。
けれど——現実は甘くない。
老いていく身体は悲鳴を上げだし始めた。
昨日の不整脈だけじゃない。
思うように歩けない。
階段の上り下りで息切れする。
時には廊下の歩行すら息切れする。
手が震えて、文字が書けない日もある。
——もう…その日は近いのかも知れない。
いや…まだ、終わらない。
守らなければ、帰さなければ。
その日は来ないんだ。
「蒼真」
「………」
「紬、見てるからご飯、食べな」
優しい声は麗華だった。
麗華は蒼真の腕から紬を抱き上げると和室で遊びだす。
そんな様子を少しだけ眺めてから蒼真は朝食を食べだす。
ゆっくりとコーヒーを飲む渚が蒼真を見つめていた。
「……見んな、食べずらい」
「いや、不整脈起こしたわりには元気そうで良かったです」
「蒼志か」
「ええ。今日1日見張ってほしいと」
「寝ろ、夜勤明け。紬と遊んでてやるから安心しろ」
足早に食事を終えると蒼真は食器を片付け、紬の元へと戻っていった。
紬と遊んでくれている蒼真と麗華をありがたく思い、渚はそれ以上何も言うことはなかった。
時計の針が12時に近づいた頃、玄関が開き元気な声が聞こえてきたと思ったら足音がどんどんリビングに迫ってくる。
リビングの扉を開けたのは元気な笑顔の蒼空だった。
「じいちゃん!」
「おー蒼空、来たんだ」
「うん!じいちゃんいるってお母さん言うから!」
遅れて華凛がリビングに姿を見せた。
「もー蒼空、走んないよー。あ、お父さん、起きてて平気なの?」
蒼空に怒りながら華凛は心配そうな表情を蒼真に向ける。
蒼真は苦笑いしながら答えた。
「蒼志の奴…華凛にまで連絡いれるかよ…。今日は大丈夫」
「そりゃ、連絡してくれるでしょー。あ、お父さんプリン作りすぎちゃったから食べてくれる?」
「…プリンか…」
華凛の優しさに蒼真は目を細めた。
きっと作りすぎたんじゃない。
蒼志からの連絡を受けて、寝込んでいると思ったのだろう。
食欲がなくてもプリンは食べれるだろうと、華凛がわざわざ作ってくれたんだと蒼真は思った。
元々、甘党の蒼真。
最近は手軽さから羊羹に手が伸びるが、プリンは昔から好きだった。
夜中にこっそり食べるくらい。
間違って華凛の分を食べた時は怒られ、蒼真は落ち込んだ。
「昼飯食ったら、みんなで食うか」
そう言うと蒼真はゆっくり立ち上がりダイニングテーブルへと向かおうとした時だった。
首元のドッグタグが揺れて、室内に差し込む太陽の光に鈍く光った。
「あ!」
蒼空の視線が蒼真の首元へ向いていた。
「ん?」
「じいちゃんのそのネックレスいつも同じだよね?」
蒼空がずっと気になってたんだ。と目を輝かせている。
確かに華凛や麗華はその日の気分で付け替えている。
蒼真の首元のドックタグが変わらないのを不思議に思っても当然だ。
「…うーん、これ外せないんだよ」
蒼真は一瞬、ドッグタグを右手で触る。
ドッグタグは留め具がなく、切断しない限り取り外せない。
「それ、なんなの?」
「まぁ…迷子札みたいなもんだ」
「迷子?」
「そっ、迷子になった時に、誰かが見つけてくれる」
「じぃじ、迷子になるの?」
「いや、ならないな」
即答する蒼真に麗華が吹き出していた。
「ならないの?」
「ならない」
「じゃあ何で着けてるの?」
蒼空の質問に蒼真は少しだけ考える。
その問いに答えるように、指先でドッグタグを撫でた。
「……約束、かな」
蒼空はきょとんとした顔をしていた。
ネックレスが迷子で約束?とまったく分からなさそうだ。
蒼真はきょとんとしながら考え込む蒼空の頭を軽く撫でてやる。
分かっていない。
いや、分かるはずもない。
ドッグタグの元々の意味も。
それに込めた19歳の約束も。
知っているのは、自分と蓮だけだ。
みんなでご飯を食べて、華凛の作ったプリンを食べる
特別な事は何もない。
誰かを助ける必要もない。
災害もない。
緊急招集もない。
ただ家族が笑っている。
それだけだった。
『お前はどこにいく』
蒼真がソファに腰を下ろすと声が聞こえた。
けれど、返事はしなかった。
隣では紬が絵本を広げ、蒼空が読んであげている。
華凛と渚が微笑みながら話して、麗華がコーヒーを飲んでいた。
その光景を見つめながら、蒼真は無意識に胸元のドッグタグへ触れる。
冷たい金属の感触。
19歳の約束。
守り続けた日々。
そして——今、自分が守りたいもの。
蒼真は小さく息を吐いた。
『答えはどこにある』
答えは…ここにあるのかもしれない。
だけど、その答えの言葉がまだ、分からない。
紬と蒼空の笑い声を聞きながら、蒼真はそのままソファで寝てしまった。
寝てしまった蒼真を起こさないように紬と蒼空がそーっとソファから降りると、華凛が立ち上がり、自分の部屋から毛布を持ってきて、蒼真に掛けてくれた。
「……頑張りすぎ」
華凛の優しい声の呟きがリビングに響いた。
麗華はそんな華凛の姿に目を細めた。
昔から変わらない華凛の優しさ。
3兄弟の中で父親としての蒼真しか知らない華凛だからこそ出来るのだと麗華は昔から思っていた。
その日の夕方———。
「父さん、生きてる!?」
玄関から走ってきたのは悠真だった。
その後ろには蒼志と蓮の姿も見えた。
ソファで寝ていたのに悠真の声で起こされた蒼真は不機嫌そうな顔をするとリビングを見渡した。
寝ているうちに華凛と蒼空は帰ってしまったらしい。
紬は麗華と渚と庭で遊んでいる。
「……むさくるしい野郎共しか目の前にいねぇ…」
めんどくさそうに蒼真は言うと身体を起こすこともなく毛布に戻った。
「落ち着いてるみたいで安心したよ」
息を吐きながら蒼志が言う。
仕事中も心配してくれていたのだろう。
いつもより蒼志の顔は疲れていた。
蒼真の様子を確認すると蒼志と悠真はそれぞれの部屋へと向かった。
リビングには蒼真と蓮だけだった。
「で…なんで蓮まで来た」
もぞもぞと蒼真は毛布から顔を出すと蓮に声を掛ける。
「……生存確認…?あと、明日の書類持ってきた」
蒼真に書類を差し出しながら言う蓮の胸元でドックタグが夕日に照らされていた。
「あー!蓮おじちゃんも迷子札つけてる!」
紬だ。
蒼空との会話を聞いていたのだろう。
蓮を指さし、庭から叫んでいた。
蓮は突然のことに動きが止まっていた。
「…迷子札?」
「ぁあ、ドッグタグのこと」
蒼真は動きを止める蓮を笑いながら書類を受け取る。
「ぁあ…ドッグタグの事か。迷子札ってお前…」
「ガキには分かりやすい」
「…それもそうか」
本当の名前も
本当の意味も知らなくていい。
それに誓った約束も分からなくていい。
ただ、確かにドッグタグはここに存在している。
それだけで、いい。




