第109話 帰る場所を守るために
翌朝、神代家には、いつも通りの静かな朝が流れていた。
昨夜は遅くまで蒼真の話をしていたせいか、誰もが少し寝不足だった。
リビングでは麗華が朝食を並べ、華凛が手伝っている。
悠真と蒼志は仕事へ向かう準備をし、紬は学校へ行く準備をしっかりとしている。渚は昨日は夜勤の仕事だった。
昨日、泊まった蓮は帰る支度をしていた。
そして、朝食を食べ終わると蓮はリビングの扉に手をかけながら口を開いた。
「じゃあ、俺は帰る」
いつも通り何も変わらない声にみんなが手を振るのを見て、蓮が一歩踏み出した時だった。
ぐらり──と、視界が揺れた。
「……っ」
踏み出した足に力が入らない。
次の瞬間────ドサッ。と音と共に廊下に蓮が倒れこんだ。
「蓮さん!」
蒼志と悠真が急いで駆け寄り、倒れ込む蓮の体を支えた。
麗華と華凛、紬は突然の事に身動きが取れなかった。
蓮が倒れる姿など、一度も見た事がなかったから。
蓮は意識こそあったものの、呼吸が少し荒い。
「……悪ぃ…大丈夫だ」
苦笑しながら起き上がろうとする蓮を蒼志が止めた。
「立たないで」
蒼志の声だけが、医師のものになっていた。
「少し横になって」
「いや……大丈夫だ」
「大丈夫じゃない」
有無を言わせない声の蒼志の様子を見て、悠真は蓮の腕を肩へ回し、そのままリビングのソファへゆっくり座らせる。
「血圧が落ちただけだ。ほら、昨日、遅かったから」
「確認するから。……そんな所まで父さんと兄弟しないでよね」
蒼志は少しだけ呆れた顔をしながら、血圧計を持ってきて測定する。
麗華達は静かに様子を見守っていた。
────数分後。
「大丈夫そうだね」
蒼志がそう言うと、麗華達は少し安心したように息を吐いた。
「念のため今日はゆっくりしていって、蓮」
麗華が優しく言うが、蓮は首を横に振った。
「……いや、帰ります」
蓮は立ち上がろうとしたが、それを制したのは蒼志だった。
「蓮さん、ちょっと父さんの書斎に来て」
「……は?」
「話があるんだ」
その声色だけで、蓮は何かを察したのか、素直に返事をした。
「……分かった」
蒼真の書斎は蓮にとって、まだ蒼真の気配を感じるような、そんな不思議な感覚のする部屋だった。
この部屋で夜中まで仕事の議論やくだらない話も何度しただろう。
懐かしく感じても、不思議と悲しさはなかった。
扉が閉まると二人きり。
蒼志は蓮を蒼真が使っていた椅子に座らせると、自分は予備の椅子へと腰を下ろし、蓮と視線を合わせた。
「……蓮さんは、どう過ごしたい?」
蓮は苦笑しながら、頭をかいた。
蒼志は自分の身体の事を全て知っている。
担当医となった日からずっと診てきてくれた。
そして、約束を破る事はなく、蒼真にも麗華にも誰にも自分が隠し続ける秘密を教える事はなかった。
「……今まで通り、普通に」
予想通りの答えだったのだろう。
蒼志の目は揺れることもなく、ただ真っ直ぐに蓮に向けられていた。
「母さんや悠真には伝える?」
「いや、余計な気は遣わせたくない」
蓮は迷うこと無く、即答した。
「だから帰る。一人で十分だ」
そう話す蓮の声はとても穏やかで、諦めの声ではなかった。
蒼志はしばらく何も言わなかった。
医師としてなら、治療を勧め入院も提案して、検査も増やす。
でも、今ここにいるのは神代蒼志だった。
「……蓮さん、このまま家に居てよ」
蒼志の言葉に蓮は困ったように笑う。
「いや、麗華さんにもバレたくないんだが」
「分かってる」
蒼志も小さく笑った。
「だから、今まで通りでいい。服薬だけちゃんとして、無理だけはしないって約束して。俺も無理に延命したりするつもりはない。それが蓮さんの望みなら」
蓮は静かに蒼志を見つめた。
蒼志の目は蒼真の晩年を診ていた目と同じ目だった。
患者ではなく、その人を見ている目だ。
その眼差しは蒼真によく似ている。
「たださ、蓮さんは家族だから」
その言葉に、蓮は少しだけ目を伏せが蒼志は続けた。
「父さんの兄弟でしょ?」
昨日みつかったウェディング写真に書かれていた文字。
『Ты мой брат.』
(お前は俺の兄弟だ)
あの言葉を思い出し、蓮は苦笑した。
「……血は繋がってねぇけどな」
蒼志は首を横に振る。
「そんなの俺も悠真も華凛も母さんもみんな気にしてる訳ないじゃん。昨日、母さんが言ったでしょ。『家族でしょう?』あれが、神代家の答えだから」
そして、蒼志は少し笑って言葉を続けた。
「蓮さんは俺や悠真、華凛のもう1人の父さんだよ」
蓮は何も言えなかった。
言葉が出ない。
蒼真の子供たちは確かに3人とも産まれた時から成長を見てきた。
何かしてやった事と言えば…泣き止まない赤ん坊の頃、蒼真が怪我や体調で抱けない時に抱いてやり、蒼真がしてやれない遊びの相手をしてやっていただけだ。
それなのに、蒼志は自分を”もう1人の父さん”と呼んでくれた。
蓮は小さく笑うと椅子に背中を預けて口を開いた。
「……敵わねぇな」
「父さんに?」
「お前ら全員だ。神代家に」
沈黙が流れたが、その沈黙は昨日までとは違った。
寂しいだけの静けさではない。
温かい静けさだった。
やがて蓮はゆっくり立ち上がると蒼真の書斎を見回す。
────俺の居場所。お前も俺を支えてる。
橘さんの言った通りだったよ、蒼真。
書斎にリビングから風鈴の音が響いた。
────ちりん。
夏の風が吹いた音だった。
今まで聞いてきた、その音よりどこか力強い音だった。
そして2人は頷き合うと、書斎の扉を開けた。
リビングでは、麗華が蓮のマグカップにコーヒーを入れてくれていた。
悠真と紬は準備を終え、仕事と学校へ向かってしまったようだ。華凛はコーヒーを飲みながら麗華と話している。
何気ない日常。
騒がしくも、温かな家。
「蓮」
書斎から出てきた蓮に麗華の優しい声が響いた。
「ご飯、食べていくでしょう?」
蓮は少しだけ笑った。
「……はい」
それは昼食の確認と返事ではなかった。
神代家に居て欲しい、そして帰るという、初めて麗華と交わした会話だった。




