第108話 神代蒼真
葬儀を終え、家の中は少しずつ静けさを取り戻していた。
部屋の片付けは、ゆっくりと進められていた。
まだ蒼真の匂いが残る書斎に麗華は足を踏み入れた。
机の上には読みかけの本や資料が整然と並べられていた。
そして、晩年に蒼真がよく読んでいた、ある一冊の辞書が机の真ん中に置かれていた。
「……ロシア語辞書……」
麗華はその辞書をそっと手に取った。
────蒼真はあの時、ロシア語で何を伝えたんだろう。
ベッドの上で寄り添いあいながら、蒼真が囁いた言葉。
なんとなくでしか分からなかったあの言葉。
綴りも分からず、発音も一度だけでは分からず調べる事は出来なかった。
でも、穏やかな蒼真の声の暖かさは耳に残っている。
蒼真が晩年、何度もページをめくっていた辞書の表紙を、麗華は優しい笑みを浮かべながら撫でた。
「蒼真……最後まで勉強してたのかな」
その時だった。
辞書を開いた拍子に、一枚の写真がはらりと床へ落ちた。
「……あら?」
麗華はゆっくりとしゃがみ込み、その写真を拾い上げる。
そこに写っていたのは――。
純白のウェディングドレスを纏った自分と、少し照れくさそうに笑うシルバーのタキシード姿の蒼真。
「……これ……」
思わず微笑みが零れる。
「……ちゃんと持ってたんだ」
────写真なんてなくても、忘れねぇ。
自分の分はいらないと蒼真は言っていたけど、この写真だけは、大切にしまっていた。
麗華は写真を胸に抱き、小さく笑った。
「素直じゃないんだから……」
何気なく写真を裏返すとそこには、見慣れた蒼真の字が書かれていた。
『家族へ』
「……え……?」
その下には、名前が並んでいた。
麗華。
蒼志。
悠真。
華凛。
蓮────。
「……蒼真……」
震える指で、麗華は最初の文字へと目を落とした。
その文字を見た瞬間。
麗華の頬に一筋の涙が伝った。
麗華は涙を拭きながらスマホを手に取り、電話を掛けた。
着信先は────黒瀬蓮。
数回のコールの後、蓮の声が聞こえた。
『麗華さん?どうしました?』
「……蓮、今すぐ来て」
理由は言わなかった。
それでも蓮は、その一言で何かを察したのか、すぐに返事をした。
『……分かりました』
電話を切ると、写真とロシア語辞書を蒼真のお気に入りだったソファの横のサイドテーブルにそっと置き、遺品整理を一緒にしてくれている子供たち3人をリビングへと集めるとソファへと腰を下ろした。
リビングには静かな時間が流れていた。
麗華の様子を見て集まった蒼志、悠真、華凛の3人も、サイドテーブルの上に置かれたウェディング写真とロシア語辞書に気付く。
「母さん……それは?」
蒼志が静かに尋ねる。
麗華は写真を見つめたまま、小さく首を振った。
「……まだ読んでないの」
「え?」
「“家族へ”って書いてあるの」
その言葉に3人は息を呑む。
『家族へ』
その下には五人の名前が書かれていた。
だから、麗華は蓮が来るまではウェディング写真を裏返そうとしなかった。
誰も口を開かず、蓮の到着を待っていた。
その意味を、全員が理解したからだった。
やがて玄関のチャイムが静かに鳴る。
ピンポーン……
悠真が立ち上がり玄関へ向かい、扉を開けると黒い私服姿の蓮が立っていた。
「……急に悪い…麗華さんから連絡もらって」
「うん……待ってた」
悠真はそれ以上何も言わず、蓮をリビングへ案内する。
蓮は部屋へ入るなり、麗華の赤く腫れた目とサイドテーブルの上の写真に気付いた。
「……その写真…」
麗華は小さく頷く。
「蒼真が……最後に残してたの」
麗華は写真を両手で持ち、全員の顔を見渡す。
「……“家族へ”って書いてあるから、みんなで読もう」
その言葉に、誰も異論はなかった。
蒼志はソファに座る麗華の背もたれの後ろへ立つ。
悠真と華凛はソファ前のラグに腰を下ろし、自然と寄り添う。
蓮は少し距離を空けながら、ラグに腰を下ろそうとした、その時だった。
「蓮」
麗華が穏やかな声で呼ぶ。
「私の隣に座って」
蓮は一瞬だけ戸惑った。
麗華の隣は、蒼真の場所だった。
空いているソファの場所も、いつも蒼真が座っていた定位置だった。
「……でも────」
「家族でしょう?」
その一言に、蓮は何も返せず、静かに麗華の隣へと腰を下ろした。
誰一人、それを不自然だとは思わなかった。
麗華は小さく頷き、写真を裏返すとそこには、蒼真が最後に残したロシア語の文字が並んでいた。
そのひとつひとつの言葉には蒼真が日本語訳も付けてくれていた。
麗華
Я люблю тебя.
(愛してる)
蒼志
Я горжусь тобой.
(お前を誇りに思う)
悠真
Я верю в тебя.
(お前を信じてる)
華凛
Будь счастлива.
(幸せになれ)
蓮
Ты мой брат.
(お前は俺の兄弟だ)
Прости.
それは、蒼真から家族全員への最後の手紙だった。
「……蒼真のバカ…ちゃんと言ってくれればいいのに…」
そう呟いた麗華の目からは再び涙が溢れ出した。
生前、蒼真は一度も麗華に『愛してる』と言葉にした事がなかった。
プロポーズの数日後に婚約指輪を渡された時でさえ、蒼真は『俺は麗華を信頼してる。隣で生きて、見てて』それだけだった。
愛を囁くような人ではなかった。
けれど、愛がないと思った事は一度もなく、むしろ愛の溢れる行動ばかりだった。
「そんな……俺の方が…父さんを誇りに思ってるよ……」
蒼志は俯きながら呟くと、瞳を潤ませながら拳を握り締めた。
あんなにボロボロの体で、それでも立ち続けて、ずっと苦しい思いをしながら生きてきた父の背中の方が蒼志には誇りだった。
「ずりぃよ、父さん…でも……俺も父さんのように暁を繋ぐから」
そう呟く悠真の目は強く、未来を見据えていた。
黎明を天音から受け継ぎ、暁へと繋げた父。
総統という地位で、国家を背負ってもなお、偉ぶる事などなかった父の背中。
あまりにも大きくて、届かないと思っていたその背中が、今は並んでくれている気がする。
「お父さん…華凛はずっと幸せだよ。こんなに素敵なお父さんの娘なんだから……でも、もっと幸せになるからね」
華凛が涙を拭いながら、呟く。
父はいつだって、味方でいてくれた。
子供の頃に選んだピンク色のひざ掛けにも文句を言わずボロボロになるまで使い込んで笑ってくれていた。
結婚する、子供が出来た。といきなり報告をしても、怒りもせず『体調は大丈夫なのか?』と気遣ってくれた、優しい父だった。
「………クソ蒼真」
そう呟いた蓮の声は震えていた。
仲良くなんてない。相棒?そんなんじゃない。
ただの腐れ縁で、なんか隣にいる。ずっと蒼真はそう言っていた。
それでも、確かに俺とお前は兄弟だった。
部屋には静かな時間が流れていた。
誰も言葉を発することが出来なかった。
そして、一番下には日本語訳の書かれていないロシア語が記されている。
Прости.
「……これだけ、日本語がない」
華凛が小さく呟くと麗華も蒼志も悠真も、その文字を見つめたまま首を傾げる。
「……調べよう」
蓮が静かにロシア語辞書へ手を伸ばし、ページをゆっくりとめくっていく。
紙が擦れる音だけが、静かな部屋へ響いた。
やがて一つのページで、その手が止まった。
付箋が貼られたページだった。
「……あった」
蓮はその単語をしばらく見つめたまま、小さく息を吐くと静かに口を開いた。
「……『許せ』」
その一言で、部屋はさらに静まり返った。
誰も続きを聞かなかった。
聞く必要がなかった。
先に逝くこと。
家族を残してしまうこと。
兄弟を置いていくこと。
そして────。
照れくさくて、最後まで日本語では言えなかったこと。
全部まとめて。
たった一言。
『許せ』
蒼真はそのひと言を書き残したのだ。
蓮は写真を見つめたまま、小さく笑った。
「……アホだな……ロシア語なんか使いやがって……」
蓮は鼻で笑いながらも、その声は震えていた。
「最後まで格好つけやがって、クソが」
しばらく黙ったあと、蓮は写真へ向かって静かに呟いた。
「……許すかよ」
少し間を置き、震える声を抑えながら言葉を紡ぐ。
「そんなもん……許せる訳ねぇだろ」
それでも、蓮は写真をそっと握り締め、俯いた。
「……でも……てめぇらしいな」
その言葉に、麗華は涙を流しながら小さく笑う。
蒼志も。
悠真も。
華凛も。
みんな同じことを思っていた。
本当に、最後まで神代蒼真だった。




