第106話 Eternal Infinity Trust
蒼真はゆっくりと瞼を開いた。
夕暮れの柔らかな光が障子越しに差し込み、部屋を橙色に染めている。
ぼんやりと視線を動かすと、家族の姿が見えた。
麗華。
蒼志。
悠真。
華凛。
そして────隣には蓮。
「……起きたか」
蓮が小さく笑う。
蒼真は眠たそうに目を細めながら、小さく頷いた。
「……よく寝た」
身体が重い。
呼吸も苦しい。
それでも、いつも通りの空気がそこにはあって、蒼真は安心していた。
ふと、左手に温もりを感じ視線を落とすと、自分の左手を蓮が静かに握っていた。
その手は大きく、昔と変わらない。
何十年も共に歩いてきた蓮の手だった。
しかし、蒼真はその手を見つめ、少しだけ眉をひそめる。
「……蓮」
「ん?」
「……手なんか握んな」
蓮は一瞬だけ目を瞬かせる。
蒼真は照れくさそうに視線を逸らし、小さく鼻で笑った。
「……気色悪ぃ……」
数秒の沈黙のあと、蓮も小さく笑った。
「……そうだな」
握っていた手を離そうとして────
ふと、その手を軽く拳へと握り直す。
「……俺は、お前と拳合わせてる方がいい」
蓮はゆっくりと右手を差し出した。
昔と同じように。
組手の前に交わした、あの拳を。
ドッグタグに誓った約束を交わした時のように。
「……組手、しようぜ」
蒼真は差し出された拳を見つめると少しだけ目を丸くして、それから、ふっと笑った。
「……お前」
息を整えながら、小さく拳を作り、震える腕をゆっくりと持ち上げる。
「……俺に勝てねぇよ……」
蓮は口元だけで笑った。
「……引き分けだろ」
その言葉に────蒼真も、小さく笑った。
ゆっくりと拳を下ろし、胸の前へ戻すと細く息を吐く。
「……疲れた」
蓮は静かに頷いた。
「あぁ、眠いなら寝ろ」
蒼真は小さく頷くと、ゆっくりと家族を見渡した。
麗華。
蒼志。
悠真。
華凛。
蓮。
誰一人欠けることなく、そこにいた。
目尻が柔らかく下がる。
まるで幼い子どものような、安心した笑顔だった。
「……あったけぇな」
誰に向けた言葉でもない。
けれど、その場にいた全員へ向けた言葉だった。
麗華は右手をそっと包み込み、蒼志は父の肩へ静かに手を添えた。
悠真は唇を噛み締めながら笑い、華凛は涙を堪えたまま微笑む。
蓮だけは、いつものように椅子へ深く腰掛けた。
家族の様子を見た蒼真は安心したように目を閉じ、そのまま、小さく息を吐いた。
部屋では誰も話さず、風鈴だけが静かに鳴る。
ちりん──。
夏の風が障子を優しく揺らした。
ただ、家族全員が蒼真の寝顔を見つめていた。
浅かった呼吸は、少しずつ間隔が長くなっていく。
吸って。
静かに吐いて。
また吸って。
その一つ一つが、とても穏やかだった。
麗華は髪を撫で続ける。
「よく頑張ったね」
返事はない。
けれど、その表情はどこまでも穏やかだった。
悠真は父の足元へ座り込む。
幼い頃のように。
総統ではなく、ただ、父の息子として。
華凛は新しいタオルケットをそっと整える。
「ずれちゃうよ」
そう笑いながら、父の肩まで掛け直した。
蒼志は何も言わず、父を見つめていた。
医師として見れば分かってしまう。
呼吸の深さ。
脈の間隔。
その全てが、静かに終わりへ向かっていた。
それでも今は、聴診器へ手を伸ばさない。
父の望み通り、無理矢理引き戻す事はしない。
蓮は腕を組み、目を閉じた。
何も言わない。
何も出来ない。
だから隣にいる。
それだけでよかった。
それが自分と蒼真だったから。
夕陽は少しずつ傾き、橙色だった部屋は柔らかな茜色へ変わっていく。
風鈴が、もう一度だけ鳴った。
ちりん──。
その音に合わせるように、蒼真は本当に小さく息を吸う。
そして────
静かに吐いた。
それは、とても穏やかな吐息だった。
誰も気付かなかった。
いや、気付きたくなかった。
部屋は静かなまま。
風だけが流れる。
蒼志は父の肩に手を置いたまま、しばらく動かなかった。
けれど、父が最後に託したのは、自分だ。
託したから、自分を担当医にしたのだ。
蒼志はゆっくりと蒼真の左手の橈骨動脈に指を添え、まだそこにある温もりを感じようとした。
────感じない。
もう一度、ゆっくり時間をかけても、いつもの拍動は返って来ない。
今度は頸動脈へ。
……
蒼志は静かに目を閉じる。
それでも息子として、あと一度だけ確かめたかった。
蒼志は立ち上がり、棚の上に置かれた聴診器を手に取る。
家族は誰も何も言わず、蒼志を見守っていた。
聴診器を父の胸へ当て、耳を澄ます。
長い沈黙の後、蒼志はゆっくりと聴診器を外すと、震える指で父の布団を整え最後に一度だけ、その穏やかな寝顔を見つめた。
眠っているようだった。
苦しそうな表情もなく、今にも「腹減った」そう言って目を覚ましそうなほど、穏やかだった。
何度確かめても。
何度耳を澄ませても。
いつも聞こえていた呼吸音も。
何十年も動き続けた心音も。
そのどちらも、もう聞こえなかった。
蒼志はゆっくりと目を閉じ、覚悟を決めたようにその目を開いた。
そして、父の顔を見つめたまま、小さく息を吸う。
「……19時12分」
声が少しだけ震えた。
それでも最後まで言い切る。
「神代蒼真────死亡を確認しました」
夏の風が神代家を静かに吹き抜けていき、風鈴だけが、小さく鳴った。
ちりん──。
風鈴の音と共に蒼志は立ち上がると一歩、また一歩とゆっくりと和室を出る。
襖を静かに閉めた瞬間だった。
「……蒼志」
廊下で待っていた渚に小さく名前を呼ばれ、蒼志は顔を上げて、何かを言おうと口を開いた。
けれど、言葉にならなかった。
張り詰めていた糸が、そこで切れた。
渚は何も言わず、ただ、そっと蒼志を抱きしめた。
その腕の中で蒼志は初めて声を殺して泣いた。
「……父さんッ…」
医師じゃない。
補佐官でもない。
ただ一人の息子として。
父を失った涙だった。
悠真は父の枕元に立ち、父を見つめた。
穏やかな寝顔は、さっきまでと何も変わらない。
静かに父の肩へ手を添える。
「父さん」
少しだけ笑う。
笑ったつもりだった。
けれど、一筋の涙が頬を伝った。
だから、もう一度、泣きながら笑う。
「……お疲れ様、ゆっくり休んで…」
父は最後まで帰る場所を守った。
今度は自分が守る番だ。
悠真は涙を拭い、もう一度だけ笑った。
「任せて」
華凛は父の足元へ座り込んでいた。
新しい水色のタオルケット。
今日、自分が買ってきたもの。
その端をそっと撫でる。
「……似合ってるよ」
笑おうとした。
でも、笑えなかった。
ぽろり。と涙が一粒だけ落ち、タオルケットに染み込んだ。
「お父さん……っ…」
その一言だけで、もう続きは出てこなかった。
麗華は何も言わず、右手を包むように握ったまま、その温もりを離さなかった。
少しずつ。
少しずつ。
愛した人の体温が遠ざかっていく。
それでも────
「……おかえり、蒼真」
小さく笑う。
「ちゃんと、帰ってきたね」
その手が冷たくなっても。
麗華は最後まで握り続けた。
妻として。
最愛の人へ。
最後のぬくもりを贈るように。
蓮は静かに立ち上がると、煙草だけ持って縁側から庭へ出た。
夏の夜風が頬を撫でる。
ライターを鳴らすと小さな火が煙草の先を赤く染めた。
煙をゆっくり吐き出し、夜空を見上げる。
しばらく黙ったまま、何回目かの煙を吐いたあと、ぽつりと呟く。
「……クソ蒼真」
少し笑った。
本当に少しだけ。
「最後の組手は……勝ち逃げかよ」
返事はもう二度と聞こえない。
蓮は空を見上げたまま、小さく笑うと煙を吐いた。
煙草の煙が夏の夜空へ溶けていく。
風鈴が、静かに鳴った。
ちりん――。
蓮は思わず鼻で笑う。
まるで「俺の勝ち」そう返された気がして。




