第105話 Just a Little Longer
朝の静かな空気が、神代家を包んでいた。
障子の隙間から差し込む柔らかな陽射しが、和室の畳を淡く照らしている。
蒼志はいつものように父の枕元へ腰を下ろした。
「父さん、おはよう」
声を掛けると、蒼真はゆっくりと目を開ける。
「……おう」
それだけ返す声も、以前より力がない。
蒼志は酸素飽和度を確認し、脈を測る。
胸の上下は浅く、小さい。
呼吸数や脈拍、皮膚の色、浮腫、すべてを静かに確認していく。
数字だけを見れば、昨日と大きくは変わらない。
けれど────。
(……違う)
昨日までとは違う。
医師として説明できるほど大きな変化ではない。
それでも、毎日診てきたからこそ分かる。
分かってしまう。
父の身体は、また一段階、静かに終わりへ近づいていた。
「……どうした」
蒼真が不思議そうに蒼志を見上げると、蒼志は小さく首を振った。
「なんでもない」
そう答えながらも、胸の奥は重かった。
診察を終え、静かに部屋を出る。
廊下へ出た瞬間、小さく息を吐き、スマートフォンを取り出した。
発信先は────悠真。
昨夜は泊まり込みの仕事になっていた悠真。
補佐官の自分がいなくても、ちゃんと仕事はしてくれている。
補佐官としても、兄としても安心できる。
数回の呼び出し音の後、聞き慣れた声が響く。
『蒼志?どうした?』
「悠真…」
『父さん、何かあった?』
弟の声色が一瞬で変わり、蒼志は数秒だけ言葉を探した。
「……今日…休みをもらう」
短い沈黙のあと、悠真のはっきりとした声が耳に響いた。
『……分かった』
悠真は理由を聞かなかった。
聞かなくても分かったのだろう。
『本部は俺が見るよ。だから今日は父さんの側にいて』
「悪い」
『謝るなよ。……暁は俺が守る。だから、蒼志は父さんを守って』
その一言に、蒼志はようやく肩の力を抜いた。
「ありがとう」
通話を終えても、画面が消えたスマートフォンを握り締めたまま、蒼志はもう一度、和室の襖へ視線を向けた。
(今日だけは……医者じゃなく、息子でいよう)
静かにそう決めると、蒼志は再び父の待つ部屋へと足を向け、一度だけ深く息を吸い、和室の襖を静かに開ける。
蒼真は天井をぼんやりと見つめていた。
「……仕事、行かねぇのか」
「休んだ」
蒼志は父の枕元へ腰を下ろす。
蒼真は少しだけ首を動かし、不思議そうに息子を見つめ眉をひそめた。
「珍しいな」
「うん」
「……俺なら…大丈夫だぞ」
その言葉に、蒼志は小さく笑った。
「知ってる。だから休んだ」
「……?」
蒼真は意味が分からないという顔をしたが、蒼志はそれ以上何も説明しなかった。
ただ椅子を少し引き寄せ、父のベッドの横へ座る。
「今日は一日、ここにいる」
「……仕事、怒られんぞ」
「総統の許可は取った」
その一言に、蒼真は少しだけ目を丸くした。
「悠真か」
「うん」
「アイツ……ちゃんと仕事してんのか」
蒼志は思わず笑う。
「してるよ。統括も…白嶺町の復興も…だから安心して休めるんだ」
蒼真は「そうか」とだけ呟き、再び目を閉じた。
その穏やかな表情を見つめながら、蒼志は父の手をそっと握る。
細くなった指先は、それでもまだ温かかった。
廊下から味噌汁の香りが漂ってくる。
麗華が盆を持って和室へ入ってきた。
「朝ご飯できたよ」
部屋へ入るなり、まだ準備をしていない蒼志に目を留める。
いつもなら、蒼真の朝の確認をしてバタバタと準備をしているはずの時間。
「あれ?今日、お休み?」
「うん」
蒼志の返事はそれだけだった。
けれど、麗華は何も聞かなかった。
「そっか」
ただ静かに頷き、盆を置く。
その横顔を見て、蒼志は母も気付いたのだと悟った。
誰も口にはしない。
それでも、この家には同じ空気が流れ始めていた。
窓際で、蒼真と蒼志のやり取りを見ていた蓮が本を閉じた。
「俺、タバコ買ってくる」
何気ない口調だった。
蒼真は薄く目を開ける。
「……蓮」
「ん?」
「ついでに…羊羹」
蓮は小さく笑う。
「……相変わらずだな」
「……食いたい」
「分かったよ」
短い、いつものやり取りに、それだけで部屋の空気が少しだけ和らぐ。
蓮は財布を手に立ち上がると、障子へ向かって歩き出した。
「すぐ戻る」
「あぁ…」
玄関へ向かう、その背中を見送りながら、蒼真は安心したように目を閉じた。
まるで、”いつもの一日”が今日も続いていると信じているように。
蓮が買い物から戻り、穏やかに時間は過ぎていた。
眠ったり、時折目を覚ます蒼真の傍に麗華と蓮、蒼志の3人は寄り添い続けた。
「父さん」
「……ん」
「昼、何か食べられそう?」
蒼真は少しだけ考えてから、苦笑しながら答えた。
「……羊羹」
「そっか。じゃあ俺がたまには準備するよ」
蒼志は蒼真の答えを否定しなかった。
その様子に蒼真は少しだけ目を見開いた。
あれだけ『羊羹は食事じゃない』と怒られて来たのに、自分から食べやすいように羊羹を切ってくるとキッチンに蒼志が向かった。
そんな事、今まで一度もなかった。
────……蒼志…お前、分かってんだよな。
父が望むなら、食べたいのならそれでいい。
今日はどんな願いも叶えてあげたかった。
息子として。
「はい、父さん」
「……こんなに食えねぇよ」
「違うよ、俺も食べる」
皿に乗せられた羊羹を見て蒼真がため息をつく。
蒼志はにこやかな顔をしながら、蒼真のベッドの背中を調節した。
「私も今日は羊羹食べようかな」
「……たまにはこんな昼飯だって、悪くねぇ」
麗華と蓮もベッドの横から手を伸ばし、それぞれが羊羹を食べていくのを見ながら、蒼真も小さくひと口。
「…ぁ、これ、いつもと違う」
「え、そうなの?」
「蓮……和菓子屋で買ってきたな」
「……お前の1番好きな和菓子屋のだ」
蓮が答えると麗華と蒼志はクスッと笑う。
────本当に、仲がいい。
けれど、2人はそれを絶対に認めない。
不器用同士、年をとっても行動で示す所は全く変わらない姿だ。
そんな様子を見ながら、蒼真が二口目を食べようとした時だった。
蒼真は左手を胸にあてた。
「父さん?」
「……はぁ……悪い、あと食えねぇや」
「不整脈か?」
「軽いやつ。もう戻った……けど、寝みぃ…」
「…ゆっくり休んで、蒼真」
麗華はそう言うと蒼真の寝やすい角度へ、ベッドの背を調整する。
蒼真が目を閉じると、すぐに寝息が聞こえる。
けれど、その呼吸は少しだけ苦しそうで、浅い。
そんな蒼真の姿を3人は何も言わず、見守っていた。
玄関の扉が静かに開いた。
「ただいまー」
玄関から響いた明るい声は華凛の声だった。
リビングへ入ってきた華凛は、大きな紙袋を両手で抱えていた。
「お母さん、ちょっと見て!」
「どうしたの?」
「お父さんの新しいタオルケット買ってきたの!」
紙袋から取り出したのは、淡い水色の柔らかなタオルケットだった。
「使ってるの古くなってたから、これなら気持ちいいかなって」
そう笑う華凛は、まだ父の容体を深く知らない。
ただ、少しでも心地よく過ごしてほしい。
その思いだけだった。
麗華は一瞬だけ蒼志と目を合わせ、小さく微笑む。
「ありがとう、華凛」
「ほら、お父さん柔らかいの昔から好きだからさ、手触り良いの探したんだ」
そう言うと華凛は寝息を立てる蒼真のそばへ歩み寄る。
「お父さん」
その声に、蒼真がゆっくりと目を開けた。
「……華凛」
「起こしちゃった?」
「いや……大丈夫」
華凛はタオルケットを広げ、そっと掛け替える。
さらりとした生地が肌に触れた。
「どう?」
蒼真は指先で柔らかな生地を撫で、小さく笑う。
「……気持ちいいな」
その一言だけで、華凛はぱっと表情を明るくした。
「ほんと?」
「あぁ……」
少し息を整えながら、蒼真は娘を見上げる。
「……ありがと、華凛」
その言葉に、華凛は照れくさそうに笑った。
「どういたしまして」
それだけだった。
特別な会話はない。
「最後」なんて誰も口にしない。
ただ、娘が父を思って選んだ一枚のタオルケットが、静かな午後の部屋を優しく包んでいた。
その光景を見つめながら、蓮は何も言わずに煙草の箱を指先で弄び、麗華はそっと微笑み、蒼志は静かに目を伏せる。
華凛だけは、本当に何も知らないまま。
ただいつものように、「お父さんが少しでも楽なら」と思って来ただけだった。
だからこそ、その「……ありがと、華凛」という一言は、飾らない父親としての感謝であり、華凛にとっても、一生忘れることのない宝物になる。
夏の午後の神代家に穏やかな時間が流れていた。
新しいタオルケットに包まれた蒼真は、静かな寝息を立てている。
その傍らで華凛は、父の髪をそっと整えながら微笑んだ。
「気持ち良さそう」
「そうね」
麗華も蒼真を愛しそうに見つめ、優しく笑った。
いつもより早い時間に玄関の扉が開く音がした。
「ただいま」
「ただいま帰りました」
悠真と渚が並んでリビングへ入ってくると、すぐに和室へと足を向けた。
華凛は振り返り、小さく手を振った。
「あ、悠兄ぃ、渚ちゃんおかえり」
「ただいま」
悠真は笑い返したものの、すぐに部屋の空気の違いに気付くと、視線を自然と蒼志へ向いた。
「……蒼志」
悠真が短く呼ぶと蒼志は、静かに頷くだけだった。
その表情だけで、悠真は全てを悟る。
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
聞く必要もなかった。
渚は荷物を下ろすとゆっくりとエプロンを手に取る。
「麗華さん、今日の夕飯、私が作ります。」
「え……?」
「蒼志が仕事を休んだので」
その一言だけで十分だった。
理由なんて聞かない。
聞かなくても分かる。
渚は穏やかに微笑んだ。
「今日は、お義父さんのそばにいてあげてください」
「でも、渚ちゃん……」
「大丈夫です」
優しく首を横に振る。
「紬は夏期合宿でいませんし、蒼空くんもいないみたいだし、大人だけですもん。私、一人でできます」
麗華は少しだけ目を潤ませ、小さく笑った。
「……ありがとう」
「はい」
渚はそのままキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
包丁を取り出す音が、静かな家に優しく響いた。
悠真はネクタイを少し緩めると、ゆっくり父のそばへ歩み寄る。
眠る蒼真の肩には、見慣れない水色のタオルケット。
「これ……」
華凛が嬉しそうに笑う。
「買ってきたの。お父さん、気持ちいいって言ってくれた」
悠真はタオルケットへそっと触れる。
「……いい肌触り」
「でしょ?」
華凛は少し得意そうに笑った。
悠真も思わず笑みを浮かべる。
「父さん、喜んだでしょ」
「うん。『ありがと、華凛』って」
その一言に、悠真は静かに頷く。
「……良かった」
それだけ言うと、父の寝顔を見つめ、小さく微笑んだ。
「ただいま、父さん」
眠る蒼真が目を覚ますことはなかった。
それでも、その「ただいま」は、確かに父へ届いているようだった。
家族が自然と揃っていた。
誰かが呼んだわけでもない。
約束をしたわけでもない。
それでも誰もが、今日はここに居たいと思っていた。
蒼真が小さく息を吐いて、目をゆっくりと開けた。
「ぁ、起きた」
「蒼真、よく寝れた?」
「……なんで…みんな居るんだよ」
まだ眠たそうな蒼真はぼんやりと自分のベッドを囲む家族の顔を一人一人、見つめた。
その穏やかな時間は、まるで何事もない夏の午後のように、ゆっくりと流れていた。
────みんな、笑ってる。
一人一人の顔を見つめた後、蒼真はまた目を閉じて眠ってしまった。
夕暮れが近づくにつれ、部屋へ差し込む陽射しは少しずつ色を変えていった。
悠真は総統室から届いた報告へ最低限だけ返信を送り、スマートフォンの画面を閉じた。
蓮は読みかけの本を膝に置いたまま、窓の外をぼんやりと眺めている。
和室には誰かの話し声があるわけでもない。
ただ、それぞれが同じ時間を過ごしていた。
蒼真は穏やかな寝息を立てている。
眠っている時間が、少しずつ長くなっていた。
蒼志は父の枕元へ腰を下ろし、そっと手首へ触れる。
規則正しく感じられた脈は、時折、小さく乱れた。
呼吸は浅く。
ゆっくりと。
静かに。
胸の上下を見つめる蒼志の表情から笑みが消えていく。
聴診器を胸へ当てると耳へ伝わる呼吸音は、朝よりも確かに弱かった。
蒼志は静かに聴診器を外し、一度だけ目を閉じる。
(……もう)
医師として、息子として…何度も想像してきたその時が、すぐそこまで来ていることを理解してしまった。
それでも、父はまだ生きている。
まだ、この温もりはここにある。
蒼志は立ち上がり、部屋を見回した。
麗華。
悠真。
華凛。
蓮。
みんなが蒼志へ視線を向けると、蒼志はゆっくりと息を吸い、小さく口を開く。
「……このまま」
一度、言葉が止まる。
喉の奥が熱い。
それでも、震えそうになる声を押さえ込みながら続けた。
「このまま……みんな、父さんの傍にいて」
理由は誰も聞かなかった。
聞かなくても、その一言で十分だったから。
麗華は静かに頷き、蒼真の右手を包み込む。
「……うん」
悠真も小さく息を吐き、スマートフォンの電源を切った。
「今日はもう、総統じゃなくて息子でいる」
華凛は父の顔を見つめながら、涙をこらえるように微笑む。
「ここにいる」
蓮だけが何も言わず、ただ椅子を少し引き寄せると、いつもの様に蒼真の隣へ腰を下ろす。
そして眠る蒼真を見つめながら、小さく呟いた。
「……了解」
夏の夕暮れと風が、静かに神代家を包み込んでいく。
────ちりん…….。
窓際の風鈴が静かに音を鳴らした。
誰も口にはしなかった。
けれど、その場にいた全員が同じ願いを抱いていた。
────どうか、この時間が、もう少しだけ続きますように。




