第103話 I’m Still Happy
夜も更けた頃、神代家の玄関の扉が静かに開く。
「ただいま」
仕事を終えた悠真が帰ってきた。
ネクタイを緩めながらリビングへ入ると、麗華が振り返る。
「おかえり」
「父さんの今日のドライブはどうだった?」
父が楽しみにしていたドライブの感想を悠真はすぐに聞きたかった。本当なら、早めに帰ってきて、ドライブから戻ってきた父を出迎えたかったが、多重追突事故がおこり、その現場の統括から抜ける事が出来なかった。
仕事を放棄して帰ったなんて父にバレたら、ただでは済まないだろうと思った。
そして、麗華は少しだけ困ったように笑った。
「楽しかったって……でも、熱が出ちゃってね」
「え?」
「病院へ行くほどじゃないって蒼志が言ってたから……今日は疲れが出たみたいね」
その言葉を聞いた瞬間、悠真は察した。
「……無理したのかな」
麗華は首を横に振る。
「ちゃんと、約束守ったって言ってたわ」
その言葉に、悠真も小さく笑った。
「……そっか」
悠真は荷物リビングに置くと静かに和室へ向かう。
襖を少しだけ開けると、薄暗い部屋の中で蒼真が眠っていた。
ベッドの横には蓮が椅子に座り、本を読んでいた。
悠真は小声で蓮に声を掛けた。
「父さん、どうですか?」
蓮は声を潜めて答えた。
「熱は少し下がってきた」
「そうですか…」
悠真は静かに頷いて、眠る父の顔を眺めた。
その様子を見た蓮は椅子から静かに立ち上がる。
「タバコ吸ってくるから、代われ」
「分かりました」
悠真はベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
眠る父の顔を見つめる。
静かで穏やかな寝顔で、寝息だけが少しだけ苦しそうだ。
そんな父の手を悠真は優しく握った。
「……悠真?」
目を閉じたままの蒼真から小さな声が聞こえた。
「起きてたの?」
蒼真はゆっくりと目を開けると視線を悠真に向けた。
「帰ってきたか」
「うん、ただいま。ドライブどうだった?」
蒼真は少しだけ笑みを浮かべた。
「最高」
「そっか…父さん楽しみにしてたから、良かったね」
蒼真は悠真の言葉に少しだけ微笑むと悠真を見つめる。
しばらく何かを考えるように黙り、小さく息を吸って、静かに口を開く。
「Я верю в тебя.」
悠真は目を丸くしながら、首を傾げた。
「……呪文?」
「……ロシア語だよ、バカ」
蒼真は悠真の反応に少し呆れた顔で笑った。
「バカって言わないでよ。ロシア語なんて分かんないよ。で、なんて言ったの?」
悠真は苦笑して抗議したが、蒼真はゆっくり首を横へ振った。
「……そのうちな」
それだけ言うと、蒼真は安心したように目を閉じる。
「父さん?」
返事はなく、穏やかな寝息だけが聞こえてきて悠真は小さく笑った。
「寝るの早ぇよ」
その夜、悠真はまだ知らなかった。
父が残したロシア語の意味を知る日が、そう遠くないことを。
蓮が戻ると悠真は静かに部屋を出た。
襖が閉まり、和室には再び静けさが戻った。
リビングで悠真が小さく息を吐き呟く。
「……最近、父さんロシア語ばっか…」
その言葉に麗華が苦笑する。
「照れ隠しかもねぇ」
「照れ隠し?」
「日本語じゃ言えないことをみんなに言ってるのかもよ」
「確かに父さんらしいけど…結局、何て言われたんだろ」
悠真が椅子に腰をおろすと麗華は微笑んだ。
「そのうち、分かるかもね」
日付が変わる頃、珍しく蓮は昼の運転で疲れたのか眠っていた。麗華は温かいタオルを手に持ち、眠る蒼真の額へそっと手を当てる。
「少し下がったかな……」
タオルで優しく汗を拭き取る。
何十年も繰り返してきた仕草。
怪我をした時も肺を手術した時も。
総統になってからも何度もこうして看病してきた。
「ほんとに……心配ばっかり」
麗華は今までを思い出しながら小さく呟く。
その声に反応したのか、蒼真がゆっくり目を開けた。
「……麗華?」
「起きちゃった?」
「…ずっと、いる?」
「いるよ。当たり前でしょ」
麗華が答えると蒼真は安心したように笑った。
「……そっか」
少しだけ沈黙が流れ、静かな神代家のリビングで風鈴が小さく鳴った。
「今日さ……楽しかった」
「うん」
「蓮の運転も景色も、車も全部」
「そうだね」
その表情は、少年のようで麗華も小さく笑う。
蒼真は麗華を見つめた後、天井へと視線を向け少しだけ目を細めると、ゆっくりと息を吐いた。
「……麗華」
「ん?」
「…幸せだったか」
その問いはあまりにも静かだった。
麗華は一瞬だけ驚いたように蒼真を見たが、すぐにいつもの優しい笑顔に戻った。
「その答えは、ちゃんと起きてる時に話す」
そう言うと麗華は、そっと蒼真の手を握った。
蒼真は小さく笑うと観念したように目を閉じた。
「……分かった」
麗華は繋いだ手を離さなかった。
風鈴がまた一度、優しく鳴る。
その音を聞きながら、蒼真は静かな眠りへ落ちていった。
翌朝、障子越しの柔らかな陽射しが、静かに和室を照らし、蒼真はゆっくりと目を開けた。
熱は昨日より下がっているけれど、それでも身体は重く起き上がる気力はまだ戻っていなかった。
ぼんやりと天井を見つめていると、襖が静かに開いた。
「おはよう」
麗華がにこやかに入ってきた。その手に持つお盆には湯気の立つお粥と、温かいお茶。
蒼真は小さく笑う。
「おはよう」
麗華はベッドの横へ腰を下ろし、額へ手を当てた。
「うん、昨日より熱は下がってるね」
「担当医様にも言われた」
「蒼志?」
「……寝てろって」
「でしょうね」
麗華はベッドを少し起こし、お粥を一口掬った。
「はい」
「……自分で食える」
蒼真は少しだけ困ったような顔をした。
「昨日もそう言って三口しか食べなかった」
麗華がそう言うと、蒼真は観念したように口を開けた。
「……」
麗華にお粥を一口、二口と食べさせてもらう。
ゆっくりと噛み締める。
昔から具合いを崩すと麗華が作ってくれた味だ。
ずっと変わらない、優しい味。
「……美味い」
「良かった」
蒼真が呟くと麗華は、ほっとしたように笑った。
食事を終えると、しばらく静かな時間が流れた。
窓の外では、小鳥が庭へ降り立ち巣箱を覗き込み、また飛び立っていく。
蒼真はその様子を目で追いながら、小さく呟いた。
「巣、気に入ってくれたかな」
「きっとね」
麗華も一緒に庭を見る。
夫婦で眺める景色は、昔と何も変わらない。
変わったのは場所だけだった。
やがて麗華は、ふっと笑った。
「昨日の続きだけど」
蒼真が麗華へ視線を向ける。
「幸せだったか、って聞いたでしょ?」
蒼真は少し照れくさそうに笑う。
「うん…」
麗華は迷いなく頷いた。
「もちろん、幸せだったよ。」
「……」
「あなたと結婚して、蒼志が生まれて悠真が生まれて、華凛が生まれて、みんなで笑って。泣いた日もあったけど、全部ひっくるめて私は幸せだった」
麗華は蒼真の手をそっと包んだ。
「そして、今も幸せ」
蒼真は何も言わず、ただ静かに麗華の顔を見つめる。
目元が少しだけ緩む。
安心したような、どこか肩の荷が下りたような笑顔だった。
「……そっか」
その二文字だけだった。
けれど、その声には何十年分もの想いが滲んでいた。
麗華は少し悪戯っぽく笑う。
「今度は私の番」
「ん?」
「蒼真は?」
蒼真は一瞬だけ考えるように窓の外を見た。
庭、風鈴、鳥の巣箱へ視線を向けると、麗華へ視線を戻した。
「……幸せだった……最高の人生だった。今も、幸せだよ」
「うん…」
その返事だけで十分だった。
2人の間に、それ以上の言葉はいらなかった。
しばらく、二人は何も話さず窓の外で風に揺れる木々が小さく葉を鳴らす音を聞いていた。
庭先では、小鳥が巣箱の縁へ止まり、周囲を見回してから飛び立っていった。
蒼真はその姿を目で追い、ふっと笑う。
「……来年には雛がいるかもな」
「そうだね、楽しみだね」
その何気ない一言に、蒼真は少しだけ俯いた。
「……見てぇな」
ぽつりと漏れた言葉だった。
麗華は聞こえないふりをした。
聞こえてしまったら、泣いてしまいそうだったから。




