第101話 What I Wanted to See
春の陽射しが神代家の庭を柔らかく照らしていた。
縁側の先では、蓮と蒼真が作った巣箱へ、小鳥が時折様子を見に来る。
「……また来た」
介護用の椅子へ身体を預けた蒼真が、小さく呟いた。
その隣では蓮が腕を組み、巣箱を見上げている。
「入口の向き、正解だったか」
「だから言っただろ」
「俺は餌を置いた方がいいって言ったんだけどな」
「巣箱に餌置く馬鹿があるか」
「そういうもんなのか?」
「知らん」
二人は真剣な顔で頷き合っていると、玄関の扉が開く音がした。
「こんにちはー!」
明るい声と一緒に、小さな足音が庭へ駆けてくる。
「おじいちゃん!」
「おう、蒼空」
蒼空は一直線に蒼真の元へ走り、その膝へ飛び込もうとして、麗華に止められた。
「蒼空、おじいちゃん苦しいから、ゆっくりね」
「はーい!」
勢いだけは止まらず、腕へしがみつく蒼空を蒼真は少しだけ笑って、その頭を優しく撫でた。
「元気だな」
「今日はプリン持ってきたよ」
蒼空の後ろから歩いてきた華凛が紙袋を持ち上げて笑う。
「父さん好きでしょ?」
「好き」
穏やかな蒼真の声に、華凛は笑いながら紙袋を麗華へ渡すと蒼真の隣へ腰を下ろした。
蒼空は蓮と庭で遊び始めていた。
穏やかな風が吹き、桜の花びらが一枚、庭へ舞い落ちる。
蒼真はしばらく、その花びらを眺めていた。
そして、椅子の横に置いていたロシア語辞書へ手を伸ばす。
蒼真は辞書を数ページめくり、小さく頷いた。
「……華凛」
「ん?」
蒼真は娘を見つめた。
その目は、どこまでも穏やかだった。
ゆっくりと息を整え、小さく口を開く。
「Будь счастлива.」
聞きなれない言葉に華凛は目を丸くする。
「……え?お父さん、それ……」
意味を聞こうとした時だった。
蒼真は小さく息を吐き、そのまま目を閉じる。
春の陽射しが暖かく、穏やかな風が心地よい眠気を誘う。
言葉を伝え終えた安心からか、蒼真はそのまま静かな寝息を立て始めた。
「……寝ちゃった」
華凛は困ったように笑いながら父の寝顔を見つめた。
「今の、どういう意味だったの……?」
答えてくれる人は、もう眠ってしまっていた。
その寝顔は穏やかで少しだけ微笑んでいるように見えた。
縁側では、小鳥がまた一羽、巣箱の入口へ降り立つ。
華凛は父の持つロシア語辞書へ、そっと視線を落とした。
「……後で、調べてみようかな。」
その時はまだ、この短い一言が、自分へ向けられた父からの大切な贈り物だとは気づいていなかった。
華凛は眠ってしまった父の顔を見つめ、小さく笑いながら、そっと毛布を胸元まで掛け直す。
その寝顔は穏やかだった。
苦しそうな表情もなく、ただ静かに春の風を感じながら眠っている。
「おじいちゃん、寝たの?」
蒼空が蓮と遊び終え戻ってくると不思議そうに覗き込む。
「うん。お昼寝」
「起こさないでおくね!」
「ありがとう」
華凛が頭を撫でると、蒼空は嬉しそうに頷き、そのまま庭へまた駆けていった。
「れんじぃー!」
「おう、どうした。」
「鳥、また来たね!」
「……そうだな」
蓮が蒼空に手を引かれ、巣箱の方へ歩いていく姿を華凛は蒼真の隣で見つめていた。
家の中からは、麗華が食器を洗う音が響き、風鈴が、ちりん……と優しく鳴る。
穏やかな時間だった。
しばらくして、玄関が開く音がする。
「ただいま」
「おかえりー」
帰ってきたのは蒼志と渚、紬だった。
「蒼空くん来てる!」
華凛の声に気がついた紬がリビングから庭にかけて来ると、蓮と蒼空に合流し巣箱を眺めていた。
少し遅れて、もう一度玄関が開いた。
「ただいまー。母さん、腹減ったー!」
「はいはい。華凛のプリンあるよー」
「ラッキー!」
相変わらず賑やかな兄に華凛は思わず笑う。
悠真も蒼真と同じく、昔から華凛の作るプリンが大好きだ。
昔はよく、2人が取り合いをしていた事を思い出して華凛は笑った。
悠真がリビングへ入ろうとした時、縁側で眠る蒼真へ気付き、足を止めた。
「……寝てる」
「うん」
「最近、本当によく寝るよね」
その一言に、華凛は少しだけ視線を落とした。
「でもね」
「ん?」
「さっき、お父さんが多分、ロシア語で何か言ったの」
悠真が首を傾げる。
「ロシア語?」
「うん。でも意味を聞こうとしたら寝ちゃってさ。蒼兄ぃはロシア語わかる?」
リビングのソファに座っていた蒼志は突然振られた話題に苦笑しながら首を横に振った。
「いや、分かんない」
「だよねぇ…」
3人は顔を見合わせ、小さく笑う。
その笑い声に反応するように、庭から蒼空の大きな声が響いた。
「きたーーー!!」
全員が一斉に振り向くと巣箱の入口には、小さな一羽の鳥が止まっていた。
神代家の庭とリビングに穏やかな笑い声が広がると、蒼真はゆっくりと目を開けた。
家族が揃った穏やなか時間。
その様子を縁側から眺めながら、蒼真は小さく息を吐いた。
「……平和だ」
「お父さん…起きたの?」
「……うん」
蒼真は静かに呟くと庭へ目を向ける。
蒼空が鳥を驚かせないよう、小さな声で紬と蓮に話しかけて笑いあっている。
麗華と渚はキッチンで笑い合い悠真は何故か鳥に向かって「ようこそ神代家へ!」などと話しかけている。
「……平和だけど、賑やかだ」
ぽつりと漏れたその言葉へ、華凛が優しく答える。
「お父さんが作った家族だもの」
その言葉に蒼真は静かに首を横へ振る。
「違う」
蒼真は華凛を一度見ると、視線を全員に少しづつ向ける。
庭で遊ぶ紬と蒼空と蓮、そして悠真、ソファに疲れて沈みこんでいる蒼志。
食事の準備をする麗華と渚を見つめ、小さく笑う。
「俺じゃない……みんなだよ」
その言葉に、華凛は照れくさそうに笑った。
「急に何?」
その時、台所からいい香りが漂ってきた。
「ご飯できたよー」
渚の一声で、庭に居た悠真と蒼空と紬は目を輝かせて戻ってくる。
3人と一緒に華凛はリビングへと向かった。
蓮が呆れた顔で悠真を見ながら歩いて戻ってきた。
蒼真がゆっくり立ち上がろうとすると、蓮から手が差し伸べられた。
蒼真は一瞬だけその手を見つめると、小さく笑ってその手を取った。
「……悪ぃ」
「珍しく素直だな」
「今だけ」
穏やかな春の日に家族が揃ってご飯を食べる。
平和で賑やかな、そんな神代家の春の昼下がりだった。
そんなひと時が蒼真にとって心地良い時間だった。




