第100話 I’ll Keep Coming Back
季節はいつもの様に流れて、春の柔らかな陽射しが、本部の大きな窓から総統室へ差し込んでいた。
机に積まれた決裁書類を悠真は一枚ずつ目を通しながら署名を入れ、処理済みの書類へと重ねていく。
向かいでは、次の会議の資料を蒼志が確認していた。
静かな時間だった。
ペンを走らせる音だけが部屋に響く。
「……ねぇ蒼志」
不意に悠真が口を開くと蒼志は資料から顔を上げた。
「ん?」
「父さんさ」
その一言だけで、誰のことを話したいのか分かった。
「最近、笑ってる?」
蒼志は少し考える。
「笑ってるよ」
「家では蓮さんとくだらないことで笑ってるし、紬や蒼空が遊びに来れば嬉しそうにしてる」
「そう」
悠真は小さく頷いた。
「でもさ…前みたいにベッドから出ようとしなくなった」
蒼志は窓の外へ目を向けた。
「庭に出たり、ソファに座ったり…車椅子へ移るだけでも手伝いが必要だし、歩くこともほとんど出来ないから…遠慮してると思うんだ……」
言葉が続かなかった。
受け入れることと、割り切れることは違う。
歩けなくなった現実は、きっと父自身が一番苦しい。
けれど、自分の我が儘で麗華と蓮に負担をかけたくない。
父の性格ならやりかねない。
悠真は静かに息を吐いた。
「……父さん、昼間も眠ってる時間、増えてきたって母さん言ってた…」
悠真の言葉に蒼志の目が僅かに揺れた。
昨年の夏に倒れて以降、確かに状態の急激な悪化はない。
けれど、止まっている様に見えるだけで、ゆっくりと確実に状態は悪くなってきている。
眠る時間が少しづつ増えているのは間違いなかった。
本部の桜並木が少しずつ色付き始めているのと逆行して、父の人生の色が失われていく。
「ばあちゃん」
「ん?」
「父さんに会わせたい」
「ばあちゃん?」
「うん」
その言葉に、蒼志は少し驚いた表情を見せた。
「急にどうしたの?」
「父さんさ昔の話になると、楽しそうだから」
悠真は微笑んでいた。
「じいちゃんの話とか若い頃の蓮さんの話とか……俺達が知らない父さんの話を聞いてる時は、なんか嬉しそうなんだよ」
蒼志は思い返す。
確かにそうだった。
麗華や蓮、奏達や元第一特務遊撃隊のみんなとメッセージで昔話をしている時だけは、病気のことを忘れたように笑っていると母が教えてくれた。
「俺達じゃ知らない父さんがいる。でも、ばあちゃんなら全部知ってるじゃん。父さんが総統になる前も、子どもの頃も」
悠真は椅子へ深く腰掛ける。
「病気の話じゃなくて昔話をしてほしいんだ。そういう時間も必要なんじゃないかなって」
蒼志はゆっくりと息を吐いた。
医者になってから、自分は父の身体ばかり見ていた。
異変がないか、そればかり考えていた。
でも、父は患者ではない。
神代蒼真という、一人の人間だ。
その人には、積み重ねてきた人生がある。
「……そうだね」
蒼志は穏やかに笑った。
「ばあちゃんに電話してみるよ。今日は暖かいし庭で話せたら、父さんも気分転換になるかもしれない」
悠真は笑いながら、スマートフォンを手に取る。
「父さんも変な気を遣わないだろうしね、母親なんだし」
「……あとさ、父さんも会いたいと思うんだよ、ばあちゃんに。言わないだけで」
悠真は画面に表示された『澪』の文字を見つめ、小さく微笑んだ。
「きっと、喜んで来てくれるよ。ばあちゃんだって会いたくないわけないもん」
冬の間、固く閉じていた神代家の庭にも、少しずつ色が戻り始めていた。
縁側の先では、薄桃色の花びらが風に揺れている。
満開にはまだ早いけれど、長かった冬が終わったことを知らせるには十分だった。
「今日は暖かいねぇ」
澪は庭を眺めながら、ゆっくりと縁側へ腰を下ろした。
その隣では、蒼真が介護用の椅子へ身体を預けている。
鼻には酸素チューブ、膝には麗華が掛けた、薄手の毛布。
冬に比べれば呼吸は落ち着いていたが、少し身体を起こしているだけでも疲れるのか、蒼真は背もたれへ深く沈んでいた。
椅子に移るのには、澪を連れて帰って来た悠真が支えてくれた。
蓮は最近また咳がしつこいからと蒼志に薬を出してもらいに暁本部の医療棟に行っている。
「澪さん、お茶ここに置きますね」
麗華が二人の間に湯呑みを置いてくれた。
「ありがとうね、麗華ちゃん」
「何かあったら呼んでね、父さん」
「ああ」
蒼真が短く答えると麗華は一度、蒼真の酸素チューブと顔色を確認してから、悠真と共に家の中へ戻っていった。
澪はその背中を見送り、隣へ視線を向ける。
「麗華ちゃん、心配性になったねぇ」
「前からだよ」
「前よりずっとよ」
「……仕方ねぇだろ」
蒼真は小さく息を吐いた。
以前なら、一人で勝手に庭まで出ていた。
止められても聞かなかっただろう。
今はこうして、椅子へ移るだけでも誰かの手を借りている。
澪は何も言わず、湯呑みを手に取った。
庭を抜ける風が、桜の枝を揺らす。
「天音もね」
澪が、不意に口を開いた。
「最後の頃は、よく庭を見てたの」
蒼真は視線だけを澪へ向ける。
「親父って、庭見てたんだ…」
「そうよ」
「庭なんか見る趣味あった?」
「失礼ねぇ。あの人だって花くらい見てたわよ?」
「似合わねぇ」
「あなたも今、同じことしてるじゃない」
「俺は連れてこられただけ」
「はいはい」
澪は笑いながら、再び庭へ目を向けた。
「天音も、同じこと言ってたわ」
蒼真の眉がわずかに動く。
「自分で来たくせに?」
「そう。私が外へ連れ出したみたいな顔してた」
「……クソ親父」
「本当にそっくり」
「似てねぇよ」
「似てるわよ」
澪の声には、懐かしさが混じっていた。
寂しさだけではない。
長い年月を共に過ごした人を思い出す、穏やかな声だった。
蒼真は何も返さず、庭の桜を見る。
風が吹くたび、まだ少ない花びらが小さく揺れた。
「天音ね…黎明の医療棟に転院する迄は家に帰りたがってたの」
蒼真の表情が、少しだけ変わった。
「病院にいる時は、早く家に帰るって」
「言いそうだな」
「先生に今日は無理ですって言われても、明日は帰るって」
「面倒くせぇ患者だな」
「あなたが言う?」
澪が呆れたように笑うと蒼真も、口元だけで笑った。
「でもね……馬鹿息子がここにいろ。って言うなら言うこと聞いてやるかって…」
澪の声が、少しだけ柔らかくなる。
「蒼真が天音の命を繋いでいたかったの、分かってたわよ」
「……悪い事したかもな、俺」
「そんな事ないよ。苦しい時もあったし、痛い時もあった。それでも、蒼真がいつでも駆けつけてくれるなら、黎明の医療棟が正解だったんだなって」
澪は自分の膝の上へ視線を落とした。
「家より、蒼真の近くに居れて良かったって」
静かな風が、二人の間を通り抜けた。
蒼真はしばらく黙っていた。
遠くで鳥の鳴く声がする。
冬に蓮と作った巣箱には、まだ鳥は入っていない。
「……俺は…間違ってなかった?」
蒼真が小さく呟いた。
澪が隣を見ると、蒼真は庭を見たままだった。
「俺、親父を縛り付けた…本当は…」
「うん」
「まだ生きててほしくて…怖くて…総統継いだ俺を見てて欲しかった……だから…」
「うん」
澪は、それ以上何も言わなかった。
否定も、慰めもしない。
ただ、蒼真の言葉をそのまま受け止めた。
それが今の蒼真には、ありがたかった。
「蒼真」
「ん?」
「もう、頑張らなくてもいいのよ」
蒼真の眉間に、すぐ皺が寄った。
「嫌だね」
澪は思わず笑う。
「そう言うと思った」
「まだ生きてんだぞ」
「分かってるわよ」
「生きてる間くらい、頑張るし…親父より長生きしろって言われた……まぁ親父の最後の言いつけは守れないかもしれないけど…」
蒼真は息を整えながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「でも、それでもさ…俺はずっと、帰る場所を守るって決めてるんだ」
澪は黙って聞いてくれていた。
「みんなが帰れる場所を作るって」
「そうね」
「だから、俺は」
蒼真は一度、言葉を切った。
胸がゆっくりと上下して、酸素が流れる音だけが、僅かに聞こえた。
「最後まで、ここに帰る」
澪の目が、わずかに細くなる。
泣きそうになったのではない。
きっと、同じ言葉を知っていたからだ。
昔、天音も同じように家を選んでいた。
けれど、天音は息子に最後は従って、息子の作り上げた”黎明”を帰る場所に選んだ。
そして今、その息子もまた、自分の帰る場所を選んでいる。
「そう」
澪は穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、ちゃんと帰ってこないとね」
蒼真は少しだけ笑って答えた。
「もう帰ってるだろ」
「何言ってんの?あと何回、倒れても帰って来なさいって意味よ」
「面倒くせぇな」
「生きるって、そういうものでしょ」
蒼真は返事をしなかったが、その表情はどこか穏やかだった。
風が吹く。
庭の桜が揺れる。
その向こうで、小さな影が巣箱の屋根へ降り立った。
「……あ」
蒼真が目を細める。
一羽の小鳥が、巣箱の入口を覗いている。
「蓮に言わねぇと」
「喜ぶわね」
「あいつ、俺より毎日見てるから」
小鳥はしばらく巣箱の周りを跳ねたあと、春の空へ飛び立っていった。
蒼真はその姿を、見えなくなるまで追っていた。
長かった冬は終わった。
神代家にも、また春が来ていた。




