第99話 Lean on Me
家へ戻ってから数日が過ぎた。
蒼真の一日は体重、血圧、脈拍、酸素飽和度などの測定から始まる。
蒼志が仕事へ向かう前に状態を確認し、麗華が薬を準備して、夜の見守りを終えた蓮は、昼間になると和室の隅に敷いた布団やリビングのソファで眠った。
最初こそ落ち着かなかった生活も、少しずつ神代家の日常へ馴染み始めていた。
その日は、朝から調子が良かった。
息苦しさはいつもより軽く、朝食も半分以上食べられた。
酸素飽和度も、蒼志が安心して仕事へ向かえる程度には保たれている。
「今日は顔色いいね」
麗華にもそう言われて蒼真自身も、身体が少し軽いように感じていた。
昼を過ぎた頃、麗華は洗濯物を取り込むため、庭へ出ていた。
蓮は昨夜ほとんど眠らずに蒼真を見ていたため、布団へ横になっていた。
和室には、規則的な寝息と酸素濃縮器の作動音だけが響いている。
蒼真は目を覚まし、しばらく天井を見つめていた。
それから、身体に僅かな違和感を覚える。
「……トイレ」
小さく呟き、蓮の布団を見る。
蓮は眠っている。
夜中にも何度か呼吸の確認をしてくれていたのだろう…寝ているなら、起こすのも気が引けた。
トイレは廊下へ出て、すぐの場所にある。
以前なら、何も考えずに歩いていた距離だ。
蒼真は介護ベッドのリモコンを手に取ると背中を起こし、ゆっくりと足元を下げる。
ベッドの小さな作動音が響いたが、蓮は起きなかった。
「今日は調子いいし……」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
一人での歩行は禁止されている。
分かっている。
けれど、数歩だ。
トイレへ行くくらいなら、自分でできると思った。
それくらい、まだ出来る。
ベッドの高さを下げて掛け布団を退け、酸素チューブが引っ掛からないように確かめながら、蒼真は柵を掴んだ。
床へ足を下ろし、そのまま暫く座り、呼吸を整えた。
苦しくない。
目眩もない。
蒼真は柵へ力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
少しだけ足が震えたけど、それでも立てた。
「ほら…まだ出来る」
小さく笑い、ベッドから手を離すと一歩。
続けて、もう一歩。
襖までは、すぐそこだった。
三歩目を踏み出した瞬間、急に息が入らなくなった。
胸が締め付けられ、視界が狭くなり足から力が抜けた。
咄嗟に手を伸ばしたが、掴めるものはなかった。
「……っ」
身体が傾き床へ倒れる寸前、後ろから腕を掴まれた。
「蒼真!」
蓮が蒼真の身体を抱え、その場へ膝をついた。
「おい、ゆっくり吐け。息吐け」
蒼真は答える事は出来ず、肩を大きく上下させ、浅い呼吸を繰り返した。
蓮は酸素チューブを確認しながら、蒼真の身体を支えた。
「立てるか?」
蒼真は僅かに首を振った。
「分かった。動くな」
蓮は蒼真の腕を自分の肩へ回し、身体を抱え上げ、数歩しか離れていないベッドへ戻し、背中を高く上げてくれた。
「呼吸に集中しろ」
「……麗華、は」
「庭だ」
「呼ぶ、な」
「この状態で何言ってんだ」
「大丈夫……だから」
「大丈夫な奴は床に倒れかけねぇよ」
蓮が声を張る前に、襖が開いた。
物音を聞いた麗華が駆け込んできた。
「蒼真?」
ベッドの上で呼吸を乱す蒼真と、床へ膝をついたままの蓮を見て、それだけで何が起きたのか理解した。
「一人で歩いたの?」
蒼真は答えなかった。
麗華は責めることなく、酸素飽和度を測る。
「蓮、酸素少し上げて」
「ああ」
二人は慌てず、蒼真の呼吸が落ち着くのを待った。
暫くすると、少しずつ息が入るようになった。
蒼真の肩から力が抜けていく。
数値が戻り始めたことを確認し、麗華は小さく息を吐いた。
「蒼志に連絡するね」
「しなくていい」
「するよ」
「怒られる」
「怒られるようなことしたんでしょ?」
麗華はいつもと変わらない優しい声で言い、スマートフォンを手に取った。
蒼真は反論できず、顔を背けた。
蒼志に状態を伝えながら、麗華は水を取りに部屋を出た。
蓮はベッドの横へ座ったまま、蒼真を見ていた。
「何見てんだよ」
「別に」
「寝てろよ」
「お前が勝手に歩くから寝られねぇんだろ」
「……起こしたくなかったんだよ」
「起こせ」
「トイレくらいで」
「そのトイレに行こうとして倒れたの、何回目だ?」
蒼真は黙った。
蓮は怒っていた。
けれど、声を荒らげることはしなかった。
怒っているけど、責めようとはしなかった。
「今日、調子良かったんだよ」
「ああ」
「朝飯も食えたし、息も楽だった」
「ああ」
「だから……歩けると思った」
蒼真の声が僅かに震えた。
「ほんの数歩だぞ」
蓮は何も言わない。
「襖まで……数歩しかねぇのに」
蒼真は自分の足へ視線を落とした。
まだ僅かに震えている。
「こんなことも、出来ねぇのかよ」
掠れた声が落ちた。
蓮は黙ったまま、ベッドの横へ座っていた。
蒼真は俯き、片手で顔を覆う。
「歩けねぇのは分かってんだよ」
指の隙間から、涙が落ちる。
「分かってるけど……それでも、足掻きたいんだよ」
身体が弱っているから歩けない。
そんな事、分かってる。
自分の意思と反比例する身体の状態を受け入れたつもりだった。
諦めきれなくて、確認したかった。
以前の自分には戻れない。
その事を軽々しく受け入れていくのも怖かった。
分かっていたはずのことを、僅か数歩で突きつけられなければ、覚悟も出来ない。
────悔しい。
「トイレくらい、一人で行きてぇよ」
「分かってる」
「分かんねぇだろ」
「分かるよ」
蓮は静かに答えた。
「俺も歩けなかった」
蒼真が顔を上げる。
「でも、お前は歩けるようになっただろ」
「そうだな」
「俺はもう、歩けねぇ」
「ああ」
蓮は否定しなかった。
いつかまた歩けるとも、頑張れば元に戻れるとも言わなかった。
そんな慰めを蒼真が望んでいないことを、蓮は知っていた。
「出来なくなったなら、俺を使え」
「……嫌だ」
「知るか」
「お前にトイレ連れてってもらうとか、最悪だろ」
「床で漏らすよりマシだ」
「漏らしてねぇよ」
「今回はな」
「今回はって言うな」
蓮が僅かに笑うと、蒼真も泣いたまま、ほんの少しだけ口元を緩める。
「お前に頼むの、嫌なんだよ」
「俺だって、お前に身体持ち上げられるの嫌だったぞ」
蓮が歩けなかった頃、何度も蒼真の肩を借りた。
風呂も、着替えも、移動も、出来ないことを蒼真に任せ、生きてきた。
それでも、蒼真は一度もそれを断る事はなかった。
────独り身の寂しい奴の世話くらい、やってやる。
そう言って、麗華と籍を入れてすぐでも、当たり前な顔をして、肩を貸してくれた。
「お前は当たり前に勝手にやってくれた」
「そうかよ」
「だから、俺も当たり前に勝手にやる」
「……クソ蓮」
「クソ蒼真」
いつもと同じ言葉だった。
けれど蒼真の目から、また一滴だけ涙が落ちた。
蓮はそれを見ても、何も言わなかった。
慰めることも、背中を撫でることもしない。
ただ、ベッドの横から動かなかった。
やがて蒼真は目元を拭い、深く息を吐いた。
「……蓮」
「なんだ」
「トイレ」
「だから最初から呼べって言ってんだろ」
「連れてけよ」
短い沈黙のあと、蓮が立ち上がる。
「ああ」
蒼真が自分から助けを求めたのは、家へ帰ってから初めてだった。
いつだったか、ペットボトルが開けられなくて頼られた事があったな。とれはふと思い出した。
蒼真は本当に必要だと感じれば、ちゃんと助けを求められる奴だ。
だけど、今は悔しいんだろう。
歩く、という当たり前の日常が無くなった事が。
出来ないことは、これからも増えていく。
そのたびに悔しくなり、腹を立てるのだろう。
それでも隣には、蒼真が手を伸ばすより先に、その身体を支える人がいる。
一人で歩くことは、もうできない。
けれど誰かの手を借りれば、蒼真はまだ自分の行きたい場所へ行くことができる。
そして、その誰かの手は当たり前に蒼真を支えてくれる。
夜になり、神代家は静かだった。
和室では、介護ベッドに身体を預けた蒼真が穏やかな寝息を立てている。
酸素濃縮器の規則的な作動音だけが、小さく部屋へ響いていた。
襖が静かに開き、仕事を終えた悠真と蒼志がそっと中を覗く。
蒼志は眠る父へ近づき、胸の動きと酸素チューブの位置を確認した。
呼吸は落ち着いていて、酸素飽和度も昼間母から連絡をもらった時の数値より戻っていた。
「……寝てるね」
悠真が小声で呟く。
「うん」
蒼志は父の額へそっと手を当てた。
熱もなく、穏やかに眠っている。
「父さん」
眠っているだけだと分かっていても、小さく呼んでしまう。
返事はない。
けれど、その穏やかな寝顔を見て、蒼志はようやく肩の力を抜いた。
「今日は大丈夫そう」
その一言に、悠真も小さく頷いた。
2人は蒼真を起こさないよう静かに襖を閉め、リビングへ戻る。
そこでは蓮がコーヒーを淹れて待っていた。
「寝てたか?」
「寝てました」
蒼志と悠真はコーヒーを受け取るとダイニングの椅子へと腰を下ろした。
「今日、あれから何か変わったことありました?」
蒼志が尋ねると、蓮は少しだけ考えてから答えた。
「昼は調子良かった。朝飯も食ってた。……でも」
蓮はマグカップを持ったまま視線を落とした。
「一人でトイレ行こうとした」
悠真がコーヒーを飲みながら苦笑する。
「やっぱりやったんだ」
「調子良かったからな」
「止めても行くと思った」
蓮は短く息を吐いた。
「案の定、数歩で呼吸苦。倒れかけた」
蒼志は静かに目を閉じた。
予想はしていた。
母から連絡が来た時、歩行した事を母は伏せた。
伝えればすぐに飛んで帰ってきて怒るだろうと思っての事だろう。
無理はさせたくない、だから歩行禁止にした。
それでも父は試す。
歩けなくなった現実を、本人が一番受け入れられていないから。
「……蒼真がな、泣いたんだよ」
蓮のその一言で、部屋が静かになった。
「え?」
悠真が思わず聞き返した。
「襖まで歩けなくてな……あいつ、自分で言ってた」
──『トイレくらい、一人で行きてぇよ』
誰も言葉を返せなかった。
あれほど強かった父が。
誰よりも人を助けてきた男が。
たった数歩の距離に、涙を流した。
「でも」
蓮が少しだけ笑う。
「最後はちゃんと言った。『連れてけ』って」
蒼志も、小さく笑った。
「初めてですね」
「ああ」
「俺に頼んだ」
短い沈黙が流れる。
誰も悲観はしていなかった。
出来なくなったことは増えた。
これからも増えていく。
それでも今日、父は初めて誰かを頼った。
それは失ったものではなく、新しく覚えた生き方なのかもしれなかった。
「……父さんらしくないけど」
悠真が笑う。
「父さんらしいですね」
蒼志も笑った。
蓮はコーヒーを一口飲むと、小さく肩を竦める。
「明日もどうせ一人で行こうとするぞ」
「ですね」
「間違いない」
三人は同時に笑った。
和室から聞こえてくる規則正しい寝息は、その笑い声にも目を覚ますことはない。
今日はちゃんと眠れている。
それだけで十分だった。




