第24話 序幕 800年前の世界
ラグン・ラグロクトとは、一体何者なのか。
──時計の針を、800年前にまで巻き戻す。
彼は、ある日突然、世界に現れた。
当時のミヨクやファファル、その他世界に名を轟かせていたあらゆる実力者たちの誰もが、彼の存在を、その予兆すら知らなかった。あれほどまでに絶対的かつ圧倒的な力を持った個体でありながら、何者にも発見されることなく──ラグン・ラグロクトという災厄は、突如として世界に突起したのだ。
彼の肉体に神獣が宿っていると世界が気づかされたのも、まさにその瞬間であった。
世界最小の大陸において、彼が轟かせたたった一度の、咆哮によって。
──世界中に響き渡った歪で悍ましいその声は、遥か遠方に位置していた者にさえ、途端に身体を極限の恐怖で震え上がらせた。無論、震えるだけで済んだ者は幸運に過ぎない。震源の近くにいた者たちの被害は凄惨という言葉すら生ぬるく、脳か心、もしくはその両方を内側から粉々に破壊されて即死した。
死者数は、実に数千万人。
ただの1人の口から放たれた一吠えによってだ。更には2つの国が壊滅状態へと陥った。
大陸内でその震源から辛うじて離れていた、残りの13の国の王たちは、誰もが即座にこの超常の緊急事態を察知し、戦争の準備を始めた。
出し惜しみなど許されない。自国が保有する最高の最強の戦力を総動員した、生き残るための自衛戦争である。
◇◇◇
世界最小の大陸の面積は、1207万km2であった。
北の端から南の端までを直線で結ぶと約3600km。ラグン・ラグロクトは、世界を震撼させる咆哮を放った後、ごく普通の足取りで徒歩にて北上を開始した。
とはいえ、その身に神獣を宿した彼の身体能力は、やはり常軌を逸していた。徒歩の速度そのものは普通であったが、そこに走る跳ぶという動作が混ざるだけで、1500kmの距離に到達するのに2時間とかからなかった。
大陸のほぼ中心部には、8つの国々がひしめき合っていた。まだ歴史に同盟という概念すら存在しなかった、孤立無援の時代だ。
それでも、ラグンがこの中心部に到達するまでに1つの国を純粋な肉体のみで消滅させ、それを3度も繰り返すと、生存本能に突き動かされた大陸内の全国家が暗黙の内に手を結んだ。
歴史上、初めての同盟の誕生である。
その同盟軍に、この世界において戦争の主役とも言える魔法使いは何人集結していたろうか。中には国が誇る最高峰の国家戦力もいたし、一騎当千と謳われる英雄も存在していた。
だが、それでも半日も持たなかった。
ラグンという、理不尽を具現化したような暴力の前では、いかなる強者も、英雄も、すべてが等しくただの脆弱な紙切れでしかなかったのだ。そう、ただ単に、枚数が多いだけの。
彼らが稼いだ半日という数字も、ラグンにとっては抵抗を排除するための、単なる作業の手間に過ぎなかった。
2日。
──たったの2日で、ラグンはこの大陸に存在した15の国すべてを完全に滅ぼし、そこに生きていた全生命体のうち、80%を虐殺した。
2億人以上の営みがあった広大な大陸が、僅か2日で、静寂の墓場と化したのだ。
◇◇◇
炎と見間違うかのような、轟々たる真っ赤な髪。それは彼の全身を覆うほどに長く、まるで天を、空そのものを焼き尽くさんとするかのように烈烈と燃え上がっていた。
身長は170センチメートルほど。極端な猫背。決して筋骨隆々とした威圧感ではなく、むしろ不気味なほどの細身。だが、その左腕は──肩から指の先までに至るすべてが、あらゆる光を拒絶する闇のように深い黒色で覆われており、攻撃を繰り出すその刹那まで、生命を失ったかのように無気力にだらりとぶら下がっていた。
顔の造形は、人よりも狼などの野獣に酷似しており、前方に突き出たマズルと、硬く結ばれた黒い唇が、捕食者特有の絶対的な冷徹さを生々しく漂わせる。
ラグン・ラグロクト。
世界の海の法則に囚われることすらなく、重力さえ嘲笑うかのように広大な水面を平然と踏みしめて、彼は次の大陸を目指してただ淡々と歩き出した。




