第25話 800年前の歴史的大戦①
ミヨクは見ていた。
世界最小の大陸において繰り広げられた、あの悪夢のような2日間の惨劇を。
この頃の彼はすでに50歳を過ぎており、肉体の老いとともに視力も低下し始めていたが、それでも高台の上から血に染まる大陸の終焉をしっかりと見届けていた。
──ただ、正確には、見ていることしかできなかった、のだが。
なにせ、あのラグン・ラグロクトという超常の怪物には、ミヨクの世界の時間を止める魔法が、一切通用しなかったのだから。
高台に立つミヨクの隣には、一人の魔法使いと、その肩に割と太めの猫が乗って……いや、必死にずり落ちないよう爪を立ててしがみついていた。
「……その猫……ナツメさんだっけ、名前? 太りすぎだろ」
「猫は太りすぎているくらいが可愛いもんじゃよ」
そう言って穏やかに白髭を揺らす老人は、新法大者にして夢の魔法使いであった。
「──それより、お手上げか、ミヨク?」
「……うん、まあ、そうだね。俺は世界の時間を止めることしか能がないからね。それが通用しなけりゃ、何もできないよ」
「通用したところで、どうせ何もしないじゃろ? お前さんはどこまでいっても傍観者じゃからな」
「うん……まあね。俺、不死だから生きているだけで、本当はこの時代の人間でもないしね。でも、お前は何かするだろ、あの化け物相手に」
「もうしておるよ」
夢の魔法使いが静かにそう告げた瞬間、彼の肩の上で必死にしがみついていたデブ猫が「なーなーなー」と情けない声で鳴き、そして。世界を、夢の魔法の不可視の波動が優しく包み込んでいった。
夢の魔法。
その効力は強制的安眠であった。
魔法の通用しないラグン、そして任意の者たちを除く、世界のすべての人間を文字通り強制的に眠らせる超広域魔法であった。
「──夢の内容は、わしがこの目でリアルタイムに見た今の惨劇のすべて。つまりは記憶の共有じゃな。そして、あの化け物がこれからどこへ向かっていくのかまで。わしも戦う専門の魔法使いではないからのう……さて、世界の強者たちはどう動くかのう」
「なーなーなー」
猫は、ただ肩から真っ逆さまに落ちないよう、必死に鳴いているだけであった。
◇◇◇
バチリ!
どこかジムのような雰囲気の場所で、全身鏡に自分を映してダンベルを持ち上げながら器用に眠っていた男が、ぱちり、と可愛らしい音ではなく、バチリ! と豪快な音を立てながら慌てて瞼をこじ開けた。
「……いや、そりゃバチリにもなるだろ! だって寝てたんだろ俺? トレーニング中に急に寝かされてたんだろ! しかも立ったまま! いや、マジで怖えーわ。ダンベルが足に落ちてたらどうすんだよ? なんだよ強制睡眠って? 夢の魔法使いのヤロー何が戦闘専門じゃねーだよ。ミヨクの時間を止める魔法並みに最強じゃねーか。クハハハ」
夢の魔法使いによる強制的な眠りから覚めた途端、彼はその事実を噛み締め、豪快に笑った。
「──っで、今の夢は現実で、あのラグン・ラグロクトって化け物も現実で、っであの化け物を倒せ、と……いや、倒せとは言ってねえか……どうするかは俺ら次第ってか……。まあ、選択肢なんてねーだろ最初からよ! 戦わなきゃ世界が滅ぶんだから。だったら戦うだろ! クハハハ!」
彼の名はソクゴ。封印の魔法使い。その風貌は、魔法使いでありながらも身体を鍛え上げるのが趣味という少し変わり者で、服装は年中タンクトップを好み、身嗜みには微塵も興味がないため髪と髭はむさ苦しく不精に伸ばしていた。
「──それにしても、なんだあの化け物は? 強いかどうかは別にどうでもいいんだが、魔法が効かないってのは反則だろ。まあ、効いてりゃあミヨクの野郎がなんとかしてるんだろうがな……あっ、いや、アイツはダメか。人殺しとかしねーもんな。気が弱えーからな、あの薄ら禿げは。クハハハ! まあ、でも物理攻撃は通っていたよな。耐久力が頑丈すぎるけどよ。まあ、でも、だったらなんとかするか。クハハハ!」
彼は、とにかくよく笑う男だった。
「──まあ、その前に上腕二頭筋を鍛える続きをするのが先だがな。クハハハ!」
ルーティンは欠かさない。けれど、それからのソクゴの行動は迅速を極めた。
そして丸1日後、彼は後に世界の大敗北として歴史の刻まれることとなる、運命の地へと足を運ぶのだった。
◇◇◇
世界最大の大陸。
ソクゴがその乾いた大地に足を踏み入れた頃には、すでにラグン・ラグロクトの討伐戦は火蓋を切って落とされていた。
緊急事態に際して急遽平地へと均されたのであろう、広大な荒地。そこでは地平を埋め尽くすほどの大勢が、たった1人の男を包囲して死闘を繰り広げており、その後方の安全圏ではその戦況を冷徹に見つめている複数人の影があった。
ソクゴはその複数人の顔ぶれを見渡して、馴染みの顔を見つけると、おもむろに足音を響かせて近づいていく。
「クハハハ! よお、ケムニス。やっぱりお前も来ていたか。っで、どんな感じだ?」
「……ん? おう、封印の魔法使いか。お前は今しがた到着したのか?」
ケムニスと呼ばれた男は、まるで巨大な肉団子のような横幅の広い重厚な風貌をしていた。さらに、その巨体を、顔だけが露出する分厚いローブで完全に包み隠している。その見るからに暑苦しい佇まいのせいで、ソクゴはただ近寄っただけで、全身の毛穴から嫌な汗がじわりと滲み出た。
「……相変わらずだなケムニス、お前の周りだけ別次元に暑ちーわ、クハハハ! っで、あれがラグン・ラグロクトか。夢の魔法使いの夢で見させられた通りに……いや、少し違うか……髪が空に向かってねーな。いや、空に向かって激しく燃えてたのは最初だけで、後は下に垂れていたんだっけ……いや、まあ、そんな細かいことはどうでもいいか。どうでもいいが、あの赤い髪、いくらなんでも長すぎだろ。地面が赤い血の池みたくなってるぞ、クハハハ。ただ……圧はすげーな。生で見ると、正に化け物って感じだわ。クハハハ!」
荒地の中心に立つラグンのサイズは、身長170センチメートル程度の人間サイズ。髪は尋常ではない超長髪。なのに、彼から放たれる質量めいたプレッシャーは、まるでこの世界最大の大陸すべてを、一瞬で覆い尽くさんばかりに邪悪で、凶暴で、強大であった。
「──……なのに、よくまあアイツら突っ込むよな……。立っているだけで、精神が削られてやっとの筈なのによ」
ソクゴのその言葉は、現在進行形でラグンを取り囲み、命を使い捨てている大勢の戦士たちを指していた。
「……仕方ないだろう。あれらは全員、この大陸のあらゆる国から集結した猛者たちなんだからな。意地もプライドも、背負っている守るべきものもあるさ」
ケムニスが少し悲しげな表情でそう言った。
「まあ、分かっちゃいるけどよ……っで、お前ら他大陸の実力者たちは、その意を汲んで取り敢えずは静観ってとこか」
「まあ……あわよくば、奴の体力の消耗も願ってはいるんだが。どうやらそれは不可能のようだな」
そう、それは目を凝らすまでもなく、明白なまでの事実であった。
何故ならラグンは、体力の消耗どころか、四方八方から押し寄せる攻撃に対して、ほぼ突っ立っているだけ、の状況だったのだから。
取り囲んでいる大勢の総数は、一体幾人になるだろうか。世界最小の大陸の時よりも数が絞られているのは恐らく夢の魔法使いが見せた、夢のお告げ、により、並の有象無象が突っ込んだところで無意味だと誰もが悟ったからであろう。
故に、ここに集う大勢とは、この世界最大の大陸の国々から厳選された、それぞれの国の最高峰たる精鋭たち。
けれど、その正真正銘の精鋭たちが放つ、あらゆる最高火力の魔法や物理攻撃に対しても、ラグンは傷を負うどころか、その体勢がわずかに傾くことすら一度としてなかった。
──その光景は、峻厳たる巨大な城壁と、それを素手で叩く赤子のような、絶対的かつ絶望的な力関係そのものであった。
「おーおー、本当にただ突っ立ってるだけで、すべての攻撃は無ってか。例の左手を使って魔法攻撃を無力化する必要すらねえってか。おーおー舐めてんな、あのヤロー。クハハハ!」
そして、ラグンの攻撃方法もまた極限まで相手を舐め腐ったものであった。
彼はただ、自分の射程距離に入ってきた愚者を右拳で殴る。ただそれだけ。
しかもそれは、遠くから客観的に見ているソクゴたちからすれば、まるで運動前の準備体操のように、軽く左右に腕を振っているだけのようにしか見えない。
けれど、その軽々しい一振りの威力は、当たった瞬間に、ゴッ!! という痛烈な破砕音を響かせ、相手を消し飛ばして確実に絶命させていた。
さらに、間合いの外から遠距離攻撃を仕掛けてくる小賢しい魔法使いたちに対しては、地に転がっている人間の死骸や、へし折れた武器を無造作に投げつけることで、正確にその肉体を破壊し殺していた。
──大地に転がっている死骸の山は、すでに彼らの足場をすべて埋め尽くすほどに膨れ上がっていた。
「クハハハ! つえーつえー! でもな、勘違いするなよラグン。そのくらいの事はな、ここでお前をぐるりと囲っている俺たち静観者たちなら誰だって出来る事なんだよ。なにせ“絶界者”の集まりだからな。つまりは討伐戦は、ここからが本番なんだよ。クハハハ!」
豪快に笑うソクゴの背後で、ただ静かに戦況を眺めていた異形の者たちの眼が、一斉に細められた。
有象無象の肉壁が消え失せた荒野で、ついに世界最高峰の実力者たちがその絶対的な力を解放する。
──VSラグン・ラグロクト。
真の絶望と大敗北の歴史は、まさにこの瞬間に幕を開ける。




