第5話「第0期」
――翌日。
国立帝煌学園高等学校は、いつもと何ひとつ変わらない顔をしていた。
校門を抜けていく生徒たちの姿があり、校舎の窓から差し込む朝の光が廊下を白く照らし、教室では一時間目の準備をする声が響いている。誰もが自分の授業、自分の友人、自分の予定を考えていて、その日、この学校の生徒会直轄・特務部隊《国家参与特別委員会》が国家の過去に繋がるかもしれない記録を追っていることなど知る由もない。
それは、昨日までの彼らにとっても同じだった。
少なくとも、少し前までは。
「……やっぱり、気になるな」
――放課後。
委員会室の机に資料を広げた学が、画面を見つめたまま呟いた。
机の上には、昨日兵頭和久が置いていった資料の写しと、学が独自に調べた複数の行政資料が並んでいる。教育政策、安全保障関連の記録、過去の行政文書、そのどれにも共通して現れていたのが、あの不可解な分類番号だった。
数字そのものに意味があるのではない。
学は、そこに気づいていた。
問題なのは、その番号が使われている場所だった。
「教育関係の資料だけじゃない。安全保障、行政監査、それから予算関係の資料にも同じ形式が出てくる。しかも、普通の文書番号とは扱いが違う」
学は画面を切り替えながら説明する。二年生の六人は、それぞれの席から画面に視線を向け、颯も少し離れた場所から資料を覗き込んでいた。
「つまり、最初から教育予算の問題じゃなかったってこと?」
燈縭が訊く。
「その可能性が高い。俺たちが見つけたのは入口だったんだと思う」
「入口……」
司がその言葉を繰り返した。
昨日、兵頭が口にした言葉が脳裏に蘇る。
――原資料を見れば全部分かるとは限らない。
――その番号を追えば、教育の話では済まなくなるかもしれない。
あのときの兵頭は、明らかに何かを知っていた。
ただし、彼は何も教えなかった。
隠しているというより、教えること自体に何らかの制限があるようにも見えた。それが司には引っかかっていた。兵頭は学生たちの権限を否定してはいない。むしろ、国家参与特別委員会が持つ権限については何度も認めている。それでも、あの資料を見せたときだけは、ほんの僅かに態度が変わった。
「番号の先にあるものが、政府にとって触れられたくないものなら、俺たちが調べることで何かが起きる可能性はある」
茜が静かに言った。
「でも、だからって止める理由にはならないよね」
穰介が椅子にもたれながら答える。
「もちろん、何も考えず突っ込むつもりはないけどさ」
「穰介さん、そこは本当にお願いします」
颯が真剣な顔で言うと、穰介は苦笑した。
「颯ちゃん、俺をなんだと思ってるの?」
「危険な場所に一番先に行きそうな人です」
「否定できないなあ」
穰介が肩をすくめる。
そんなやり取りを見ながら、暁は資料の一枚を手に取った。
「今の段階では、番号の正体を決めつけない。それより、昨日の資料に残っていた『第■期』という部分を調べよう」
「俺もそれがいいと思う」
学が頷いた。
「番号が行政文書の分類じゃないなら、何かの制度や組織を示している可能性がある。『期』って表現を使う以上、継続して何かを実施した記録かもしれない」
「国家参与特別委員会そのものの前身……という可能性もありますね」
颯が言った。
その瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。
誰もすぐには言葉を返さなかった。
現在の《特別学生国家参与制度》は、学生が国家の政策決定や行政活動に関与するための制度だ。しかも、その権限は一般的な学生委員会の想像を遥かに超えている。政策への参与だけではない。必要と判断された場合には、行政機関への照会、資料へのアクセス、特定案件への介入、場合によっては現場への関与まで認められている。
それだけ大きな権限を、なぜ高校生に与える必要があったのか。
これまで彼らは、その問いを深く考えてこなかった。
制度が存在するから、そこに選ばれた。
与えられた権限を正しく使う。
それが自分たちの役割だと思っていた。
だが、その制度に現在とは違う過去が存在しているのなら話は変わる。
「学」
暁が呼びかける。
「はい」
「調べられる?」
「やってみる。ただ、昨日も言ったけど、普通の公開資料には出てこないと思う」
「なら、公開されていない資料にアクセスできるか確認しよう」
颯が資料から顔を上げた。
「それなら、私が手続き上の根拠を確認します。私たちには国家参与制度に基づく資料照会権限がありますが、過去の制度記録まで同じ範囲に含まれるのかは、明確にしておいた方がいいです」
「それが分かれば、司が話を通しやすくなる」
燈縭が続けた。
「私たちが勝手に掘っているように見えるのは避けたいからね」
「そういうこと」
司は頷いた。
「だったら、正式に確認しよう。まず兵頭さんに話を通す」
司がそう言った直後だった。
委員会室の扉が開いた。
「お、話が早いな」
入ってきた兵頭和久は、いつものような落ち着いた表情をしていた。
だが、彼の視線は一瞬で机の上の資料に向いた。
昨日と同じだった。
正確には、昨日よりもはっきりしていた。
資料の内容を確認するより先に、あの黒塗りの残された部分へ目を向けたのだ。
燈縭はそれを見逃さなかった。
「兵頭さん」
「ん?」
「昨日の資料にあった『第■期』って、何のことですか?」
単刀直入だった。
兵頭は答えなかった。
ただ、数秒ほど資料を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……そこまで来たか」
その一言で、部屋にいた全員の意識が変わった。
学が顔を上げ、茜は腕を組み直し、颯は資料から兵頭へ視線を移す。穰介でさえ、いつもの軽い表情を消していた。
「知ってるんですね」
司が静かに訊く。
「知ってる、というより……知ってはいけないことになってる、と言った方が近い」
「国家参与特別委員会にも?」
「お前らにもだ」
兵頭はそう言ってから、すぐに続けた。
「ただし、『権限がない』とは言ってない」
颯の目が鋭くなる。
「それは、どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ」
兵頭は机の資料に手を置いた。
「お前らには、かなり広い権限がある。それは俺も否定しない。ただ、国家の情報には、単純に『見られる』『見られない』だけじゃ済まないものがある。知った後に何をするのか、どう扱うのか、そこまで含めて責任が発生する」
「だったら、なおさら確認する必要があります」
颯の声には迷いがなかった。
「法的に閲覧できないのであれば、その根拠を提示してください。閲覧できるのであれば、私たちは制度に基づいて正式に確認します。『危険だから』だけでは、権限の制限理由として不十分です」
兵頭が颯を見る。
その表情に、わずかな驚きが浮かんだ。
「相変わらず真面目だな、颯」
「法務官ですから」
「そうか」
兵頭は苦笑した。
そして、資料を一枚だけ取り上げた。
「だったら、見せてやる」
その言葉に、全員が息を呑んだ。
「ただし、俺が説明できる範囲は限られる。そこは理解してくれ」
「分かりました」
司が答える。
「それで十分です」
兵頭は持っていた端末を操作し、委員会室の大型モニターへ一つの行政記録を表示した。
最初に映ったのは、何の変哲もない記録だった。
文書の作成日。
管理番号。
担当区分。
保存期限。
一般的な行政資料と大きく変わらない。
しかし、その下にあった一行を見た瞬間、学の表情が変わった。
「……待って」
「どうした?」
司が訊く。
学は画面へ近づいた。
「これ、保存体系が違う」
「どういうこと?」
「この文書は現在の行政記録として保存されてるんじゃない。過去の記録体系を引き継いでる」
茜が画面を見る。
「つまり?」
「現在の制度が作られる前から、この管理方式が存在していたってこと」
沈黙が落ちた。
そして、画面の中央に表示されている一つの記載へ、学の視線が止まった。
そこには、昨日見たものと同じ分類番号が記されていた。
その横には、昨日は黒く塗りつぶされていた文字列があった。
今回は黒塗りがない。
完全ではない。
しかし、読むことはできた。
「……第0期」
学が呟いた。
誰も動かなかった。
その言葉だけが、妙に鮮明に委員会室へ残った。
「第……0期?」
燈縭が確認するように言う。
学は頷いた。
「そう書いてある」
「現在の制度は?」
茜が訊く。
「少なくとも、俺たちが知ってる制度では第1期なんて呼び方はしてない」
学の声が少しずつ低くなる。
「じゃあ、この『第0期』って何?」
穰介が訊いた。
兵頭は答えなかった。
司は兵頭の顔を見る。
「兵頭さん」
「……ああ」
「この第0期は、現在の《特別学生国家参与制度》の前身ですか?」
長い沈黙だった。
兵頭はすぐには肯定しなかった。
しかし、否定もしなかった。
それだけで十分だった。
「制度には、始まる前がある」
兵頭が静かに言った。
「今のお前らが知っている制度は、最初から今の形だったわけじゃない」
暁が資料へ視線を落とす。
「じゃあ、第0期には何があったんですか?」
「それは俺からは言えない」
「なぜです?」
颯が訊く。
「記録が封じられているからだ」
その言葉に、学が反応した。
「誰によって?」
兵頭は答えなかった。
その代わり、画面に表示された文書を閉じた。
「今日はここまでだ」
「待ってください」
司が立ち上がる。
「まだ何も分かってない」
「分かってるよ」
兵頭は司を見る。
「だからこそ、今日はここまでだ」
「……それは、俺たちが知るべきじゃないからですか?」
「違う」
兵頭の声が低くなった。
「お前らが知るべきではないのではない。知ったら、もう今までと同じ目ではこの制度を見られなくなるからだ」
その言葉は、委員会室にいた全員へ突き刺さった。
現在の制度を疑うなという意味ではない。
むしろ逆だった。
兵頭は、制度を信じることそのものが難しくなる可能性を示していた。
「それでも調べるなら、覚悟しておけ」
兵頭はそう言って、扉へ向かう。
「何をですか?」
暁が訊いた。
兵頭は立ち止まった。
「お前らが追ってるのは、政府の隠し事じゃない」
その横顔は、今まで見たことがないほど険しかった。
「この国が、なぜ高校生に国家へ干渉する権限を与えたのか。その理由そのものだ」
扉が閉まった。
誰もすぐには口を開かなかった。
やがて、学がモニターを見ながら呟く。
「……第0期」
その言葉を、もう一度。
「今の制度より前に、何かがあった」
「しかも、それが記録として残っている」
燈縭が続ける。
「残っているのに、誰も存在を話さない」
「そして、わざわざ現在の行政記録とは違う保存体系で管理されている」
茜が資料を整理しながら言った。
「普通の歴史資料じゃない。意図的に隔離されている可能性が高い」
「なら、次にやることは決まってますね」
颯が言った。
その声には、いつもの慎重さがありながらも、はっきりとした決意があった。
「第0期に関する記録が、どこまで残されているのか確認しましょう」
司は頷いた。
「ああ」
そして、暁を見る。
「委員長」
暁は少しの間、何も言わなかった。
彼女は机の上に置かれた資料を見つめていた。
そこには、現在の制度について書かれた資料と、その遥か前に存在した「第0期」という文字が並んでいる。
自分たちは、国家に関与するために選ばれた。
国家を変えるためでも、政府を倒すためでもない。
ただ、必要な場所へ手を伸ばし、問題を見つけ、解決するために。
それが正しいと思っていた。
だからこそ、暁は決断した。
「調べよう」
静かな声だった。
「でも、勝手には動かない。法的な手続きを確認して、正式な権限の範囲で進める。それでも止められるなら、その理由を確認する」
司が微笑む。
「了解」
「学、資料の所在を追える?」
「やる」
「颯は閲覧権限と制限根拠の確認」
「はい」
「茜は第0期と現在の制度の共通点を整理して」
「分かった」
「穰介は……」
暁が言いかけると、穰介が先に笑った。
「分かってる。無茶しそうな奴がいたら止める役でしょ?」
「全員を帰すためにね」
「任せて」
最後に、暁は燈縭を見る。
「燈縭は?」
「私は、誰が何を隠しているのかを見る」
燈縭はそう言って、机の上の資料を指先で軽く叩いた。
「記録そのものより、記録を扱った人間の方が嘘をつくから」
その言葉に、誰も反論しなかった。
委員会室の時計が、静かに時刻を刻んでいる。
外では、いつも通りの学校生活が続いている。
生徒たちは笑い、教師は授業をし、校内放送が流れ、夕方になれば校門から一人、また一人と帰っていく。
その日常のすぐ裏側で、七人は国家の歴史に残された空白へ足を踏み入れようとしていた。
そして、学が最後にもう一度、保存資料の画面を開いた。
そこには、先ほど兵頭が見せた「第0期」の記録が残っている。
しかし、その下に一行だけ、学が先ほどまで見落としていた項目があった。
保存状態――継続。
参照可能記録――一件。
学の指が止まった。
「……一件?」
「どうした?」
司が訊く。
学は答える前に、その項目をクリックした。
画面が切り替わる。
表示されたのは、文書名ではなかった。
人物名でもない。
ただ一つの記載だけが、画面の中央に現れた。
――STATE;0。
学は息を呑んだ。
「……これ」
その声を聞いた瞬間、六人が画面へ視線を向ける。
誰も、その意味を知らない。
ただ、その文字列が偶然ここに存在しているとは、もう思えなかった。
現在の制度。
第0期。
記録にない番号。
そして、STATE;0。
すべてが一本の線で繋がっているように見えた。
だが、その線の先に何があるのかだけは、まだ誰にも分からない。
唯一分かっていることがあるとすれば――。
彼らが追い始めたのは、政府の一つの不正ではなかった。
もっと古く、もっと深く、この国の制度そのものに埋め込まれた秘密だった。
そしてその秘密は、彼ら自身が持つ「国家へ干渉する権限」が、なぜ存在するのかという問いへ繋がっていた。
――第5話 完




