第4話「第■期」
――翌朝。
帝煌学園の朝は、いつもと変わらなかった。
校門をくぐる生徒たちの姿があり、昇降口には登校してきた生徒たちの靴音が重なっている。教室では始業前の短い時間を使って宿題を確認する者もいれば、友人と他愛のない話をして笑っている者もいる。窓から差し込む朝の光が机の上へ伸び、その中を小さな埃がゆっくりと舞っていた。
国家に関わる権限を与えられた高校生たちが通う学校であっても、朝の風景だけを見れば普通の高校と何も変わらない。
それが、零宮司には少し不思議だった。
昨日まで自分たちは、一冊の行政資料に記された小さな番号について話していた。
たった数文字の分類番号。
それだけのものが、政府側の人間である兵頭和久の表情を変えた。
しかも、兵頭はその番号について詳しく語ろうとはしなかった。
知らないのか。
知っているが話せないのか。
あるいは――話してはいけないのか。
司は教室の窓から校庭を眺めながら、昨日の会話を何度も思い返していた。
「司」
後ろから声がする。
振り返ると、片町学が自分の席へ向かって歩いてきていた。
「昨日のこと、考えてた?」
「分かる?」
「顔に出てる」
「そんなに?」
「うん。いつもの三割増しくらい難しい顔してる」
「それ、褒めてないよな」
「もちろん」
学は淡々と言いながら席に座った。
そのやり取りを聞いていた八乃森燈縭が、少し離れた席からこちらを見る。
「朝から国家について悩む高校生って、改めて考えると変だよね」
「燈縭だって昨日ずっと気にしてたじゃん」
「私は気にするのが仕事だから」
「便利だな、その理屈」
「でしょ?」
燈縭は悪びれずに笑った。
その少し後ろでは、望月茜が教科書を開きながら二人の会話を聞いていた。
「そんなことより、昨日の資料。今日中に整理するんでしょ?」
「うん」
学が答える。
「もう少しで終わる」
「ならいいけど。授業中にやらないでよ」
「やらないよ」
「本当に?」
「本当に」
そのとき、教室の前方から進藤颯がやってきた。
「皆さん、おはようございます」
「おはよう、颯」
司が軽く手を上げる。
「おはよう」
学も続ける。
「おはようございます、学先輩」
颯はそう言ってから、少しだけ姿勢を正した。
それを見た穰介が笑う。
「颯、そんなに固くならなくていいって」
「いえ、先輩ですから」
「俺ら相手にそんな気を遣わなくてもいいだろ」
「そういうわけにはいきませんよ」
颯は苦笑する。
暁がその様子を見て、静かに笑った。
「颯はそのままでいいよ。無理に変える必要はない」
「ありがとうございます、暁先輩」
「うん」
七人の間には、国家参与制度という言葉からは想像もできないほど穏やかな時間が流れていた。
授業が始まれば、彼らも他の生徒と同じように黒板へ向かう。
問題を解き、教師の説明を聞き、ノートを取る。
国家の問題は、授業時間になれば一度脇へ置かれる。
少なくとも――表面上は。
だが、学の頭の中では、昨日の分類番号が消えていなかった。
授業が終わり、昼休みになる。
そして放課後。
七人が委員会室へ集まったとき、学はすでに一つの結論を出していた。
「この番号、普通の文書管理番号じゃない」
開口一番、そう言った。
暁が席につきながら尋ねる。
「どうして?」
「昨日の原資料に記載されていた番号を、政府が公開している文書管理関連の情報と照合した」
学が端末を操作する。
「結果、この形式の番号は現在使われている文書分類には存在しない」
「存在しない?」
茜が眉を寄せる。
「じゃあ、あの資料に書かれていた番号は何?」
「そこまでは分からない。でも、少なくとも現在の制度上、正式な分類として登録されているものじゃない」
颯が資料を覗き込んだ。
「ということは、古い分類方式?」
「その可能性もある」
「なら、過去の文書管理規程を調べればいいんじゃない?」
「そう思って調べた」
学が画面を切り替える。
「でも、変なんだ」
そこに表示されたのは、過去の行政文書に関する公開記録だった。
「普通なら、昔の分類方式が廃止されたなら、その記録が残ってるはずなんだ。制度変更の経緯とか、旧分類から新分類への移行とか。でも、この番号については何も出てこない」
「完全に記録がない?」
「そう」
燈縭が画面を覗き込む。
「でも、番号自体は存在してる」
「原資料には確かに書いてあった」
学は頷いた。
「だからおかしい」
司が腕を組む。
「記録にない番号が、政府の原資料に存在している」
「そういうこと」
「だったら、その番号が何を意味するのかを調べるしかないな」
穰介が言った。
「でも、どうやって?」
「そこを考えるのが茜の仕事じゃない?」
「雑すぎない?」
茜が呆れたように言う。
「まあ、いいけど」
茜は資料を引き寄せた。
「番号そのものを追うんじゃなくて、番号が使われている場所を探せばいい」
「場所?」
司が聞き返す。
「同じ番号が別の資料にも使われていないか調べる。もし教育政策以外にも存在するなら、単一の行政分野に属する分類じゃない可能性がある」
「なるほど」
学がすぐに検索を始める。
政府公開資料。
行政報告書。
予算概要。
政策資料。
過去の公開文書。
一つずつ検索条件を変えながら、学は該当する資料を探していく。
数分。
十数分。
やがて学の指が止まった。
「……あった」
委員会室の空気が変わった。
「どこ?」
司が立ち上がる。
学は画面を全員へ向けた。
「教育じゃない」
そこに表示されていたのは、別の行政分野に関する公開資料だった。
「この番号が、別の資料に記載されてる」
颯が画面を見る。
「同じ番号ですか?」
「完全に一致してる」
「何の資料?」
「安全保障関連」
その言葉が落ちた瞬間、穰介の表情が変わった。
茜も画面へ視線を固定する。
司は何も言わなかった。
教育政策。
安全保障。
一見すれば、何の関係もない二つの分野だった。
予算の目的も違えば、担当する機関も違う。
それなのに、同じ分類番号が存在している。
「……待って」
燈縭が口を開いた。
「それだけじゃないよ」
彼女は学の端末を指差した。
「この資料、作成時期を見て」
「……」
学の表情が変わる。
「教育資料より前だ」
「どれくらい?」
「数年前」
司が資料を確認する。
「じゃあ、教育資料のほうが後からこの番号を使った?」
「そうなる」
「それなら、教育政策の資料が安全保障関連の何かを参照してるってこと?」
颯が尋ねる。
「まだ分からない」
学は首を振った。
「でも、同じ番号が二つの分野に存在してる以上、偶然とは考えにくい」
暁は静かに二つの資料を見比べていた。
「共通するものは?」
「今のところ見つからない」
学が答える。
「だから余計におかしい」
燈縭が資料を覗き込む。
「教育と安全保障。普通なら、この二つを同じ分類で管理する理由って何?」
誰も答えられなかった。
司は椅子に座り直した。
頭の中で、昨日までの情報を整理する。
最初は教育予算の数字の差異だった。
そこから資料の構造に違和感が見つかった。
原資料を確認すると、通常の行政資料にはない分類番号が存在していた。
そして今、その番号が教育とは無関係に見える安全保障関連資料にも存在している。
点だったものが、少しずつ線になろうとしていた。
だが、その線がどこへ向かっているのかは、まだ分からない。
「もう一つ探そう」
司が言った。
「一つだけなら偶然の可能性もある。でも、三つ目が見つかれば話が変わる」
「賛成」
学が再び検索を始める。
しかし、その検索には時間がかかった。
該当する資料が少ない。
検索条件を変えても出てこない。
別の表記を試しても、結果はほとんど変わらなかった。
やがて、学が椅子の背もたれに身体を預けた。
「……出ない」
「本当に?」
茜が尋ねる。
「うん。教育と安全保障の二つだけ」
「それなら、二つの間に共通点があるのかも」
颯が言う。
「共通点?」
「制度とか予算とかじゃなくて、別の何かです」
颯は資料を見ながら考える。
「例えば、両方の資料を同じ部署が管理しているとか」
「管理部署は違う」
学が答える。
「作成時期も違う」
「じゃあ……」
颯が言葉を止めた。
「制度そのもの?」
その言葉に、全員が颯を見る。
「何?」
颯が戸惑う。
「いや」
司がゆっくり口を開いた。
「それ、あり得るかもしれない」
「どういうこと?」
暁が尋ねる。
「教育政策と安全保障が直接繋がってるんじゃない。両方が、同じ国家制度の中で管理されている可能性がある」
茜がすぐに否定する。
「でも、そんな制度があるなら公開されているはず」
「普通ならな」
司は資料を見る。
「普通なら」
その言葉が、妙に重く響いた。
燈縭が机の上の資料を一枚取った。
「ねえ」
「何?」
「この番号って、私たちが調べられる範囲に存在してるんだよね?」
「うん」
「でも、正式な分類としては存在しない」
「そう」
「じゃあさ」
燈縭は少しだけ笑った。
「この番号って、最初から『公開するための番号』じゃないんじゃない?」
沈黙が落ちた。
司の背筋に、冷たいものが走った。
公開するための番号ではない。
つまり、誰かが公開されることを想定せずに使っている番号。
それが何を意味するのか。
考えれば考えるほど、嫌な可能性が増えていく。
そのときだった。
委員会室の扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは兵頭だった。
司が驚いて立ち上がる。
「兵頭さん?」
「まだ調べてたのか」
兵頭は室内を見渡した。
机の上に並べられた資料。
端末に表示された行政文書。
そして、画面中央に表示された例の分類番号。
兵頭の目が、そこへ向いた。
ほんの一瞬。
だが、今度は誰も見逃さなかった。
兵頭の表情から、明らかに余裕が消えた。
「……そこまで見つけたのか」
その一言で、空気が凍った。
司が兵頭を見る。
「やっぱり知ってるんですね」
兵頭は答えない。
学が立ち上がった。
「この番号は何ですか?」
「学」
司が制するように名前を呼ぶ。
しかし学は止まらなかった。
「教育資料にも、安全保障関連資料にも同じ番号がある。でも現在の行政文書管理には、この分類番号が存在しない。過去の公開記録にも出てこない。それなのに、実際の原資料には残ってる」
学の声は静かだった。
「何のための番号なんですか?」
兵頭はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと視線を七人へ向ける。
「……お前らは、国家参与制度のことをどう思ってる?」
質問だった。
あまりにも突然だった。
「どうって?」
穰介が尋ねる。
「なんで高校生のお前らに、こんな権限が与えられてると思う?」
誰も答えなかった。
兵頭は続ける。
「政策に口を出せる。行政資料を要求できる。政府の人間と直接話せる。場合によっては国家安全保障に関わる案件にまで介入できる」
その言葉は、彼ら自身が今まで当然のように受け入れていた制度の姿だった。
「普通だと思うか?」
暁が答える。
「普通ではありません」
「だよな」
兵頭は笑わなかった。
「だったら、考えたことはないか?どうしてこんな制度が必要になったのか」
颯が静かに答える。
「制度の成立理由については、私たちも十分な情報を受けていません」
「そうだろうな」
「兵頭さんは知ってるんですか?」
司が尋ねる。
兵頭は司を見た。
「全ては知らん」
「でも、何かは知ってる」
「……そうだな」
その返答に、燈縭が小さく息を吐いた。
兵頭は資料を見た。
「この番号を追うのは構わない」
司が目を見開く。
「いいんですか?」
「ああ」
「政府として止めない?」
「止める理由がない」
「だったら――」
「ただし」
兵頭の声が重なった。
「ここから先は、お前らが思ってるより危険なことだ」
その言葉に、穰介が表情を引き締めた。
「危険って、どういう意味だ?」
「番号を追えば、恐らく別の資料に行き着く」
「それは?」
「その資料には、今の国家参与制度について書かれている」
司が息を呑む。
「制度の何が?」
「成立の経緯」
兵頭はそこで言葉を止めた。
「ただし――」
兵頭は、机の上に置かれた分類番号を指差した。
「そこには、お前らが今知ってる制度とは違う形の国家参与制度が記録されてる」
学の目が見開かれる。
「違う形?」
「そうだ」
「じゃあ、今の制度は……」
司が言葉を続けようとした、その瞬間だった。
兵頭が一枚の紙を取り出した。
それは今まで彼らが見たことのない資料だった。
表紙には、通常の行政文書とは違う管理番号が記されている。
そして、その番号のすぐ下に――。
黒く塗り潰された部分があった。
「これ以上は、俺から話せない」
兵頭はその資料を机の上へ置いた。
「自分たちで調べろ」
「兵頭さん!」
司が呼び止める。
兵頭は扉の前で振り返った。
「一つだけ覚えておけ」
その顔には、昨日までの気さくな雰囲気がなかった。
「国家っていうのは、秘密を一つ持ってるだけじゃない」
兵頭は静かに言った。
「秘密を隠すための仕組みそのものを持ってる」
扉が閉じる。
委員会室に、七人だけが残された。
誰もすぐには動かなかった。
学が、机の上に残された資料へ手を伸ばす。
「……これ」
表紙をめくる。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
そこには、現在の国家参与制度の成立過程らしき記録が並んでいた。
しかし、重要な部分だけが意図的に削除されている。
それでも、完全に消されているわけではない。
削除された文字の一部が、かすかに残っていた。
学は画面を拡大する。
燈縭も横から覗き込む。
颯が息を止める。
司は、そこに残った文字を見つめた。
ほんの数文字。
だが、それだけで十分だった。
その資料の中に、現在の制度より前に存在した何かが記録されている。
そして、その名称の前には――。
「第■期」
という文字が残っていた。
「■期?」
茜が呟く。
学は画面を見つめたまま、答えなかった。
黒塗りの向こう側に何が書かれていたのか。
なぜ、その記録だけが消されているのか。
そして――。
なぜ、現在の国家参与制度に繋がる資料の中に、存在しないはずの分類番号が使われているのか。
その答えは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ。
彼らが最初に見つけたのは、教育予算の小さな数字の違いだった。
しかし今、その数字の先には、国家参与制度そのものの過去が隠されている。
暁は資料を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……私たちが知らされていない歴史がある」
司が頷く。
「うん」
燈縭は黒塗りの部分から目を離さなかった。
「しかも、誰かが知られないようにした歴史」
颯は拳を握る。
「だったら、確認する必要があります」
学も頷いた。
「俺もそう思う」
穰介が椅子から立ち上がった。
「ここまで来たなら、最後まで調べよう」
七人の視線が、同じ資料へ集まる。
そのときだった。
学が、もう一度だけ資料の表紙へ目を落とした。
黒塗りの下。
わずかに残った文字。
そして、その横に記された分類番号。
それは昨日見つけたものと同じだった。
ただの番号ではない。
それは、現在の国家参与制度よりも前から存在していた何かを示すための番号なのかもしれない。
まだ、その名前を彼らは知らない。
だが――。
国家参与制度の歴史には、「始まり」より前の空白が存在していた。
そしてその空白こそが、彼らがこれから向き合う最初の、本当の謎になる。
帝煌学園の外では、夕暮れが街をゆっくりと染めていた。
いつもと同じ学校。
いつもと同じ放課後。
けれど七人が見つけてしまった一枚の資料によって、彼らの日常は、もう少しずつ変わり始めていた。
――第4話 完




