第3話「片隅の番号」
――翌日の昼休み。
国立帝煌学園高等学校の校舎には、いつもと変わらない昼休みの喧騒が広がっていた。廊下を行き交う生徒たちの声、教室から聞こえてくる笑い声、階段を駆け下りていく足音。窓の外では校庭に出た生徒たちが昼食を取りながら談笑しており、どこから見ても、ごく普通の高校の昼休みだった。
けれど、その校舎の一角には、普通の高校生とは明らかに違う仕事を抱えている七人がいる。
生徒会直轄・特務部隊《国家参与特別委員会》。
国の政策に関わり、政府と交渉し、必要とあれば行政機関の資料にまで手を伸ばすことを許された高校生たち。その肩書きだけを聞けば、まるで国家の中枢にいるようにも思えるが、彼ら自身がやっていることは、授業を受け、テストに追われ、放課後になれば委員会室へ向かうという、学生としての日常の延長線上にあった。
ただし、その机の上に並ぶものだけが普通ではない。
「……やはり、ここだ」
片町学は昼休みの委員会室で、一人だけ先に資料を確認していた。
机の上には昨日までに集めた教育政策関連の資料が広げられている。政府から提供された資料、過去に公開された行政資料、それらを学自身が整理して作った比較表。紙の資料と端末上のデータを照合しながら、学は何度も同じ箇所を見返していた。
学は成績だけなら委員会の中でも群を抜いている。だが、彼が情報官として評価されている理由は、単純に頭がいいからというだけではない。
数字を数字として見るのではなく、その数字が「どこから来たのか」を考える。
誰が作ったのか。
いつ作ったのか。
何を目的に作られたのか。
そして、なぜその形になっているのか。
学はそうした情報の背景を追うことを好んでいた。
「……昨日の差異は、やっぱり偶然じゃない」
小さく呟き、学は二つの資料を並べる。
予算総額そのものに大きな違いがあるわけではない。しかし、特定の項目を細かく追っていくと、年度ごとに不自然な調整が入っている。しかも、その調整は一度だけではない。複数年度にわたって似たような傾向が続いている。
それだけなら、予算制度の変更や集計方法の違いで説明できる。
だが、学が気になっているのは、その数字ではなかった。
「資料の作り方が同じなんだよな……」
学は過去の資料を一枚めくった。
項目名は違う。
年度も違う。
担当する政策も違う。
それなのに、分類の順序や数字の配置、注記の付け方に、不自然なほどの共通点がある。
まるで、毎年同じ設計図を使って資料だけを作り替えているようだった。
そのとき、委員会室の扉が開く。
「学、早いね」
入ってきたのは零宮司だった。昼食を片手にしている。
「司も早いじゃん」
「今日はちょっと確認したいことがあったから」
「昨日の資料?」
「うん」
学は司に向かって、手招きする。
「ちょうどいい。これ見て」
「どれ?」
「ここと、こっち」
司が机の横へ移動すると、学は二つの資料を並べた。
「数字じゃなくて、構成を見て」
「構成?」
「そう。項目の順番とか、分類の仕方とか。去年の資料と今年の資料で名称は変わってるんだけど、骨組みがほとんど同じなんだ」
司は資料を覗き込み、しばらく黙って見比べる。
「……確かに似てる」
「でしょ」
「でも、同じ形式を使ってるだけって可能性もあるんじゃない?」
「もちろんあるよ。だから、これだけで何かがおかしいとは言えない」
学は即座に答えた。
「俺たちがやるべきなのは、怪しいって決めつけることじゃない。どうしてこうなってるのか確認することだよ」
その言葉に、司は小さく笑った。
「学らしいな」
「何それ」
「いや、なんでもない」
再び扉が開き、今度は戰國暁、望月茜、堅橋穰介、八乃森燈縭が入ってくる。最後に進藤颯が少し遅れて姿を見せた。
「全員揃ったね」
暁が席に着く。
「昨日の件、続きからやろう」
「もう学がかなり進めてるよ」
司が言うと、学は端末の画面を全員が見える位置へ移動させた。
「昨日見つかった数字の差異だけじゃない。資料そのものに気になるところがある」
「具体的には?」
茜が尋ねる。
「複数年度の資料を比較したんだけど、分類構造が妙に似てる。普通に考えれば、年度が変われば制度変更とか予算編成の影響で、ある程度は構造が変わる。でも、この資料は表面の項目名だけが変わっていて、内部の構造がほとんど変わってない」
「つまり、古い資料を流用してるってこと?」
穰介が尋ねる。
「それも可能性の一つ。でも、それならそれで問題はない。行政資料って、過去の形式を引き継ぐこともあるから」
「じゃあ、何が問題なんだ?」
「そこがまだ分からない」
学は画面を切り替えた。
「だから原資料を確認したい」
その言葉に、昨日の会話を思い出したのか、司の表情が少し変わった。
「兵頭さんが言ってたやつだね」
「うん」
学は頷いた。
「この資料がどうやって作られたのかを確認しないと、数字の意味が分からない。元データがどう処理されたのか、その過程まで見ないと判断できない」
颯が資料を受け取りながら口を挟む。
「原資料の確認自体は、制度上可能なのですか?」
「確認してみないと分からないけど、要求する権限はある」
「機密扱いだった場合は?」
「当然、勝手には見られない」
颯は資料の端を指でなぞりながら続ける。
「でも、その場合は何を理由に開示できないのか、確認はできます。私たちには国家参与制度上の権限があるから、単純に『見せられません』だけでは終わらせられない」
「相変わらず頼りになるな」
穰介が笑う。
「法律のことなら颯に任せとけばいい」
「だからって全部私に押しつけないでください!」
「分かってるって」
「絶対分かってないでしょ」
穰介と颯のやり取りに、燈縭が小さく笑った。
「でも、私も気になることがある」
「何?」
暁が尋ねる。
燈縭は昨日の資料を一枚取り出した。
「兵頭さん」
その名前が出た瞬間、司が顔を上げた。
「昨日の兵頭さんが、ちょっと気になった」
「何かあった?」
「私たちが資料を出したとき、数字を見る前にタイトルを確認してた」
「タイトル?」
茜が聞き返す。
「そう。普通だったら、私たちが何を問題にしてるのか確認するために、予算額とか年度とかを見ると思う。でも兵頭さんは、最初に資料のタイトルを見た」
燈縭はいつものように軽い口調だったが、その目だけは笑っていなかった。
「しかも、ほんの一瞬だけど、タイトルを見たあとに表情が変わった」
「見間違いじゃないの?」
学が尋ねる。
「かもしれない。でも、私はそういうのを見るのが仕事だから」
「燈縭がそこまで言うなら、無視はできないな」
暁が答えた。
司は腕を組み、考え込む。
昨日の兵頭和久は、原資料についてこう言っていた。
――原資料を見れば全部分かるとは限らない。
そのときは慎重な言い方だと思っていた。
しかし、今こうして資料そのものに違和感が見つかると、その言葉の意味が変わって聞こえてくる。
「……俺、もう一回兵頭さんと話してみる」
司が言った。
「原資料を正式に確認させてもらおう」
「大丈夫?」
暁が尋ねる。
「何が?」
「政府側との交渉になる」
「それが俺の仕事だから」
司は笑った。
「話せるうちは、まだ敵じゃない」
燈縭が司を見る。
「またそれ言ってる」
「いいだろ」
「うん。でも、敵じゃないと決めるのと、疑わないのは別だからね」
「分かってるよ」
司はそう答えた。
その日の放課後。
司、学、颯、燈縭の四人は、政府との連絡に使用される会議室へ向かっていた。
暁と茜、穰介は別の校内案件に対応している。国家参与制度によって与えられた仕事は、一つの案件だけではない。教育政策を調べながら、学校の問題にも対応しなければならない。国家に関わる仕事をしているからといって、彼らが学生であることまで消えるわけではなかった。
むしろ、学生だからこそ背負わされている責任がある。
授業もある。
試験もある。
学校行事もある。
そして、その合間に国家の問題を扱う。
その奇妙な二重生活こそが、《特別学生国家参与制度》という制度の異質さを象徴していた。
会議室に入ると、すでに兵頭和久が待っていた。
「来たか」
「お待たせしました」
司が頭を下げる。
「いいって。そんなに畏まらなくても」
兵頭は笑いながら椅子を示した。
「座れよ」
「ありがとうございます」
四人が席に着く。
司は持参した資料を机の上へ置いた。
「昨日の資料について、追加で確認したいことがあります」
「原資料だろ?」
兵頭が言った。
その瞬間、学の視線が兵頭へ向いた。
司も気づいていた。
こちらがまだ要求内容を説明していないのに、兵頭は原資料という言葉を口にした。
「……はい」
司はあえて平静を保った。
「原資料と、その資料が作成された過程について確認したいです」
「いいぞ」
あまりにもあっさりとした返答だった。
「見せられる範囲ならな」
颯がすぐに反応する。
「やっぱり、何らかの制限があるんですか?」
「原資料って言っても、一つの情報だけで構成されてるわけじゃないからな。他の部署の情報や、扱いに制限がある情報が混ざってる場合もある」
「それなら、閲覧できない部分については理由を明示してください」
「分かってるよ」
兵頭は颯を見て笑った。
「お前、そこは本当に厳しいな」
「法務官なので」
「そうだったな」
兵頭は軽く肩をすくめた。
その様子を見ながら、学は黙っていた。
彼の意識は、兵頭の言葉よりも、机の上に置かれた資料へ向いている。
兵頭が一冊のファイルを取り出した。
「これが原資料だ」
ファイルが机の上を滑ってくる。
学が受け取り、表紙を見る。
そこで、兵頭の視線が一瞬だけ動いた。
ほんのわずかな変化だった。
だが、燈縭は見逃さなかった。
「……また見た」
「何を?」
司が聞く。
「タイトル」
燈縭が答えた。
「昨日と同じ」
学がファイルの表紙を見る。
そこには、政府が正式に管理している教育政策関連資料の名称が記載されている。
しかし、学はすぐに違和感に気づいた。
「……これ、昨日もらった資料とタイトルが少し違う」
司が覗き込む。
「本当だ」
「でも、内容は同じ系統」
学はファイルを開いた。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
ページを進めていく。
数字そのものは、昨日の資料と大きく変わらない。
しかし、原資料には昨日の資料には存在しなかった情報がいくつも含まれていた。
作成日。
更新日。
資料管理番号。
情報の分類。
そして、その下にある小さな記載。
学の手が止まった。
「……これ、何だ?」
誰も答えない。
学は目を細め、もう一度確認した。
「この分類番号、普通の行政資料の番号じゃない」
颯が身を乗り出す。
「どこが?」
「形式が違う。普通の資料なら部署や年度、文書種別を示す番号になる。でも、これはそれとは別の体系になってる」
「何を意味してるの?」
司が尋ねる。
「まだ分からない」
学は即答した。
「だから調べたい」
燈縭が兵頭を見る。
「兵頭さんは、この番号を知ってる?」
兵頭は答えなかった。
それまで柔らかな表情を見せていた男の顔から、ほんのわずかに笑みが消えていた。
沈黙。
会議室の空調が低く唸っている。
窓の外からは、帝煌学園の校庭から聞こえる運動部の声がかすかに届いていた。
同じ時間。
同じ学校。
同じ放課後。
それなのに、この部屋だけはまるで別の世界だった。
「……兵頭さん?」
司がもう一度尋ねる。
兵頭はしばらく番号を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「それを気にするとは思わなかった」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ」
兵頭は椅子に背を預けた。
「お前らが最初に見つけたのは、ただの数字の差異だった。だから、ここまで来るとは思ってなかった」
「ここまでって?」
司が聞く。
兵頭は答えず、ファイルを閉じた。
「資料に書かれていることが、全部とは限らない」
昨日と同じ言葉だった。
しかし、今度はその意味が違って聞こえた。
学が静かに尋ねる。
「じゃあ、資料に書かれていない情報があるってことですか?」
「そうとも言える」
「それは、国家参与制度の権限でも確認できないものですか?」
颯が続ける。
兵頭は颯を見る。
「そういう意味じゃない」
「では?」
「知る必要がない情報と、知ってはいけない情報は違う」
颯の表情が変わった。
燈縭も黙っている。
司は兵頭の言葉を一つずつ頭の中で整理した。
知る必要がない。
知ってはいけない。
似ているようで、意味はまるで違う。
「兵頭さん」
司はまっすぐに兵頭を見る。
「俺たちは、この制度によって国の問題に関わる権限を与えられています」
「ああ」
「だったら、俺たちが知る必要があるかどうかを決めるのは、俺たち自身でもあるんじゃないですか?」
兵頭は黙った。
司の言葉は、挑発ではなかった。
怒りでもない。
ただ、自分たちに与えられた権限の意味を確認しているだけだった。
それでも、その言葉が会議室の空気を変えた。
兵頭はしばらく司を見つめ、それから小さく笑った。
「……そういうところは、さすがだな」
「褒めてます?」
「半分はな」
「残り半分は?」
「危なっかしいってことだ」
兵頭は立ち上がった。
「その番号については、俺から説明できることは少ない」
「少ない、ということはゼロじゃないんですね」
燈縭が言った。
兵頭が彼女を見る。
「本当にお前はよく見てるな」
「それが仕事だから」
「そうか」
兵頭は一度だけ頷いた。
「ただ、一つだけ言っておく」
その声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
「その番号を追うなら、教育予算の話だけじゃ終わらない」
司は息を呑んだ。
「どういう意味ですか?」
「そのうち分かる」
「兵頭さん」
「今日はここまでだ」
兵頭はそう言って会議室を出ていった。
扉が閉まる。
残された四人は、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのは学だった。
「……教育予算の話じゃ終わらない、か」
学は閉じられたファイルを見る。
「だったら、あの番号は教育政策だけに使われてるわけじゃない」
「そう考えるのが自然だね」
燈縭が答える。
「でも、まだ推測」
「うん」
学は頷いた。
「だから調べる」
颯がファイルを見ながら言った。
「法的に調査できる範囲を整理する。勝手に踏み込むのはダメ。でも、正式な権限で確認できるところまでは全部確認する」
「俺は政府側にもう一度確認を取る」
司が続ける。
「暁と茜、穰介にも共有しよう」
燈縭は椅子から立ち上がった。
「じゃあ、今日は一回戻ろうか」
四人は資料をまとめ始めた。
そのとき、学がもう一度だけファイルを開いた。
視線の先には、あの分類番号。
数字と記号が並んでいるだけの、何の変哲もない文字列。
それなのに、兵頭がその番号を見た瞬間に見せた表情が、頭から離れなかった。
学は情報官だ。
知らないことを恐れる。
だからこそ、知ろうとする。
けれど同時に、知ってしまった情報が誰かを傷つけることもあると理解している。
それでも――。
「知らないまま判断することが恐ろしい」
学が小さく呟いた。
司が振り返る。
「何か言った?」
「ううん。なんでもない」
学はファイルを閉じた。
そして四人は委員会室へ戻るため、会議室を後にした。
廊下には、まだ学校の日常が残っていた。
部活動へ向かう生徒。
友人と笑いながら歩く生徒。
教師と話をする生徒。
誰も、自分たちのすぐ近くで国家の情報が動いていることなど知らない。
司はその光景を見ながら歩いていた。
自分たちも、少し前までは同じだった。
国がどう動いているのか。
政府が何を決めているのか。
どんな情報が公開され、どんな情報が公開されないのか。
そんなことを考えることもなかった。
けれど今は違う。
ほんの小さな数字の差異を見つけたことから始まり、その数字を追いかけた先で、資料の構造に違和感が見つかった。
そして、その資料の奥には、通常とは異なる分類番号が存在していた。
まだ、何も分かっていない。
不正があるのか。
隠された政策があるのか。
あるいは、単なる行政上の管理番号に過ぎないのか。
現時点では、何一つ断定できない。
だからこそ、司は歩みを止めなかった。
「……調べよう」
隣を歩く学が頷く。
「うん」
颯も続く。
「正式な手続きでね」
燈縭が笑った。
「疑いながら、ちゃんと調べる」
四人はそのまま廊下を進んでいく。
窓の外では、夕暮れが始まっていた。
帝煌学園の校舎が赤く染まり、長い影が廊下へ伸びている。
彼らはまだ知らない。
あの分類番号が何を意味するのか。
なぜ兵頭和久が、その番号を見て言葉を失ったのか。
そして、なぜ《特別学生国家参与制度》という制度そのものが、これほどまでに強大な権限を高校生へ与えているのか。
今の彼らにとって、それはまだ別々の疑問だった。
しかし、やがてその疑問は一つの線で結ばれていく。
国家の表側にある制度。
その裏側にある情報。
そして、現在の国家参与制度よりもさらに古い、誰も語ろうとしない過去。
その入口に、彼らはようやく立った。
ただの予算資料だと思っていた一冊のファイル。
その片隅に記された、小さな番号。
それが後に彼らの高校生活を、そして日本という国家そのものを大きく揺るがすことになるとは――このときの七人は、まだ知る由もなかった。
――第3話 完




