第2話「数字の向こう側」
放課後の帝煌学園には、いつもと変わらない時間が流れていた。校舎のあちこちから部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえ、廊下を駆けていく足音や、友人同士で笑い合う声が重なっている。国家に関わる重大な権限を与えられた生徒たちがこの学校にいることなど、外から見れば到底分からない。生徒会室の奥に設けられた《国家参与特別委員会》の部屋も、扉を閉めてしまえばただの静かな一室にしか見えなかった。
しかし、その室内にいる七人の視線は、昨日までの学校生活とは明らかに違っていた。
大型モニターに映し出されているのは、前日の政府側との協議で提示された教育政策関連の資料だった。予算額、対象となる学校数、地方自治体への交付額、年度ごとの推移。どれも一見すれば何の変哲もない数字の羅列に見える。それでも片町学は、その画面を何度も切り替えながら、黙々と資料同士を照合していた。
やがて、学がキーボードから手を離す。
「……やっぱり、同じだ」
その一言に、机を囲んでいた全員が顔を上げた。
「昨日見つかった数字のズレ?」
零宮司が尋ねると、学は頷いた。
「それだけじゃない。昨日の資料を基準に過去数年分の公開資料も調べたんだけど、似たような差異が何度も出てる。しかも、同じ種類の項目で繰り返されてるんだ」
画面に年度ごとの数字が並べられる。差額そのものは決して巨大ではない。しかし、同じ箇所に似た傾向の差が積み重なっていることを確認すると、単純な入力ミスとして片付けるには不自然だった。
「それって、誰かが意図的に数字を変えている可能性もあるんじゃないですか?」
進藤颯が資料を覗き込みながら言った。
「可能性はある。でも、まだそこまでは言えない」
学は落ち着いた口調で答えた。
「今、私たちが見ているのは提出された資料と公開されている資料だけだから。元になったデータを見ない限り、どの段階で数字が変わったのかは分からない」
颯は納得したように頷いた。法律や行政手続きに関しては誰よりも細かい彼女だが、だからこそ、証拠のない段階で政府の不正を断定することには慎重だった。
「でしたら、まず原資料を確認するべきですね。数字の差が意図的なものなのか、集計方法の違いによるものなのか、それを確認してから判断したほうがいいと思います」
「私もそう思う」
戰國暁が静かに頷いた。
「今の段階で政府を疑う必要はない。だけど、疑問が見つかった以上、確認せずに終わらせるのも違う。国家参与として、そこはきちんと調べよう」
委員長としての暁の言葉には迷いがなかった。国家参与制度は、学生たちに国家のほぼ全ての分野へ干渉できるほどの広い権限を与えている。しかし、権限が大きいからこそ、その行使には責任が伴う。疑わしいから調べるのではなく、疑問があるから事実を確認する。それが暁の考える国家参与のあり方だった。
そんな二人のやり取りを聞きながら、堅橋穰介は椅子に深く座り、画面を眺めていた。
「つまり、元のデータを見ればいいってこと?」
「そういうこと」
司が答える。
「だったら話は早い。政府に見せてもらえばいいんじゃない?」
「そのために俺が交渉する」
司は資料を閉じた。
「制度担当官を通して正式に照会してもらおう。こっちが勝手に資料を持っていくより、そのほうが話は通しやすい」
「司に任せる」
暁がそう言った直後、八乃森燈縭がモニターを見ながら口を挟んだ。
「でもさ、数字だけじゃなくて、資料そのものの作り方も変じゃない?」
「作り方?」
茜が聞き返す。
燈縭は面倒そうに身体を起こし、画面の一部分を指差した。
「ここ。あと、こっち。金額は違うけど、年度ごとの増え方が妙に似てる」
望月茜が画面を拡大する。学も横から確認すると、確かに燈縭の言う通りだった。複数の項目が同じような比率で推移している。もちろん、それだけで不正の証拠になるわけではない。しかし、別々に集計されるはずの項目が不自然なほど似た動きをしていることは、確認する価値があった。
「……確かに、少し不自然ですね」
颯が言う。
「うん。でも、私も理由までは分かんない」
燈縭はいつもの調子で肩をすくめる。
「だから、元データを見ればいいんじゃない?」
学の目が鋭くなった。
「そうか。集計前の数字が確認できれば、どの段階でこの形になったのか追える」
「それなら決まりだな」
穰介が立ち上がる。
「俺たち、数字を追いかけるために放課後まで残ってんの?」
「そうだよ」
暁が即答した。
「うわ、青春っぽくないなぁ」
「国家参与に選ばれておいて何を言ってるんだ」
茜が呆れたように言うと、穰介は笑った。
「いやいや、俺だって普通の高校生なんだからさ。たまには部活とか寄り道とかしたいわけよ」
「それなら仕事が終わってからにしなよ」
燈縭が適当に返す。
「お前も帰る気ないじゃん」
「私は別にいいよ」
「その適当さで学年上位にいるの、ほんと納得いかないんだけど」
「穰介も勉強すれば?」
「俺、勉強できるし」
「じゃあやればいいじゃん」
穰介が一瞬黙り、それから笑った。
「燈縭、そういうところだよな」
七人の間に小さな笑いが起こる。
国家を巡る疑惑を追う彼らも、今はまだ高校生だった。こうした何気ないやり取りがあるからこそ、彼らが置かれている異常な立場がより鮮明になる。
暁はそんな仲間たちを見渡してから、改めて資料へ視線を戻した。
「じゃあ、司。明日、兵頭さんに正式な照会をお願いできる?」
「分かった」
司は頷いた。
「まずは確認する。それで何もなければ、それでいい」
「うん」
「話せるうちは、まだ敵じゃないから」
司がそう言うと、燈縭が小さく笑った。
「司って、その言葉好きだよね」
「好きっていうか、俺はそう思ってるだけ」
「いつまでそう思ってられるかな」
燈縭の声は軽かった。
だが、その言葉だけが妙に室内へ残った。
翌日。
国家参与制度担当官・兵頭和久との面談は、学校内に設けられた専用の会議室で行われた。
兵頭は七人が提出した資料に目を通しながら、落ち着いた表情で話を聞いていた。国家参与制度が特殊な制度である以上、学生たちと政府側の意見が衝突することも珍しくない。それでも兵頭は、彼らを単なる高校生として扱うことはなかった。国家参与として与えられた権限を持つ存在として、正面から向き合っている。
「それで、原資料を確認したいってことだな?」
「はい」
司が答える。
「昨日提示された教育政策関連の資料について、複数年度にわたって不自然な差異が確認されました。現時点では不正とは判断していません。ただ、どの段階で数字が変化したのか確認する必要があると考えています」
「学から聞いてる。かなり細かく調べたらしいな」
「私たちだけで判断するには、まだ情報が足りません。ですから、政府側が保管している元資料を確認させていただきたいです」
兵頭は学へ視線を向けた。
「君が見つけたのか?」
「はい」
学は普段と変わらない口調で答える。
「公開資料と今回提示された資料を照合しました。差異そのものより、同じ傾向が複数年度で繰り返されていることが気になっています」
「なるほどな」
兵頭は資料へ目を落とした。
「国家参与として確認したい、ということなら拒否する理由はない」
颯が反応する。
「では、原資料の閲覧を許可していただけるんですか?」
「ああ。制度上も問題ない」
兵頭は即答した。
「ただし、原資料を見たからって、全部の答えが出るとは限らないぞ」
その言葉に、司が少しだけ眉を動かした。
「……どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ。原資料は原資料でしかない。そこに書かれている数字が何を意味するのかは、別に考えなきゃいけない」
「つまり、原資料そのものに問題があるとは限らない、と?」
「そういうことだ」
兵頭は資料を閉じた。
「君たちは国家に干渉できる権限を持ってる。だからこそ、自分たちで見て、自分たちで判断しろ。俺から先に答えを決めてやるつもりはない」
「分かりました。ありがとうございます」
司が頭を下げる。
「原資料の確認について、手続きをお願いします」
「ああ、任せろ」
面談はそこで終わった。
七人が会議室を出て廊下へ戻ると、司は歩きながら資料を見直した。
「兵頭さん、思ったよりあっさり許可してくれたな」
「国家参与の権限を考えれば、当然ではあります」
颯が答える。
「ただ、少し気になることがあります」
「何?」
「原資料を見ても全部が分かるとは限らない、という発言です。普通なら、原資料を確認すれば疑問が解消されると考えると思うんですが……」
「兵頭さんは、最初からその先を考えてたってこと?」
茜が言う。
「可能性はあります」
学も続けた。
「それに、資料を見せること自体には全く抵抗がなかった。俺たちが何かを探していることを知っていて、それでも確認させるつもりなのかもしれない」
暁は黙って考えていた。
そのとき、燈縭が突然足を止める。
「……ねえ」
「どうした?」
司が振り返る。
「さっきの会議室で、兵頭さんが一回だけ変なところ見てた」
「変なところ?」
「資料のタイトル」
燈縭はそう言った。
「私たちが数字の話をしてるとき、一回だけ数字じゃなくてタイトルを見てたんだよね」
学が考え込む。
「タイトルに何かあるのか?」
「分かんない」
燈縭はあっさり答えた。
「だから確認するんじゃない?」
「……本当に適当なのか鋭いのか分からないな、お前」
穰介が笑う。
「どっちでもいいじゃん」
「よくねえだろ」
「じゃあ、鋭いってことで」
「自分で決めるなよ」
穰介と燈縭がいつもの調子で言い合う横で、司は再び資料へ視線を落とした。
タイトルには、何の変哲もない政策資料の名称が記されている。
少なくとも、今の彼らにはそう見えた。
「……まあ、原資料を見れば分かるか」
司が言う。
暁は頷いた。
「そうだね。今はまだ、それだけで十分」
七人は再び歩き始めた。
彼らが追っているのは、たった一つの数字の食い違いだった。そこにはまだ犯罪の証拠も、政府の陰謀も、誰かの裏切りもない。だからこそ、彼らは慎重だった。国家参与という強大な権限を持っているからといって、疑いだけで誰かを敵と決めつけることはできない。
けれど、その小さな違和感を放置することもできない。
数字が違うなら、どこで違ったのか。
誰が変えたのか。
そもそも、なぜ変える必要があったのか。
そして――兵頭が見ていた資料のタイトルには、一体何が隠されているのか。
このとき七人はまだ知らなかった。
教育政策を巡る小さな疑問が、やがて国家参与制度そのものへ疑問を向けるきっかけになることを。そして彼らが「国家を知る」ために手を伸ばしたその先に、現在の国家参与制度よりもはるか以前から存在していた、誰にも語られていない過去が眠っていることを。
今はまだ、ただの数字だった。
しかし国家を動かすのも、時として、その数字一つだった。
――第2話 完




