第九章 狐の初恋
ここは、何処だったでしょうか?
寒くて、痛くて、悲しくて、寂しくて、苦しい。
わたしには、そんな場所に覚えがありました。
………そうだ、ここは確か吹雪の中。わたしは人間の作った罠にはまって、身動きがとれなくなっていたんでした。
肉食獣のアギトのような罠が、わたしの足に食い込んでいます。きっとこのまま吹雪で凍えるか、でなければ飢えて死んでしまうでしょう。
人間は、何でこんな事をするんでしょう? 母さまが殺され、兄弟姉妹達も皆死んでわたしは一人ぼっち。
寂しい、辛い、痛い……。
ニンゲンはドウシテ、コンナにヒドイコトばかり。
寒い、身体が凍える。サムイ、ココロガコオル。
ニクイ、ニクイ。ニクイニクイコワイニクイ。
コロシテ、シマイタイ。コロシツクシテ、シマイタイ。
「どうしたの、こんな所にいたら死んじゃうよ?」
ダレダ、ワタシニコエヲカケルノハ?
「あっ! 罠に掛かっちゃったんだね。……酷い怪我。待ってて、今助けてあげるから!」
ニンゲンノ、コドモ?
クルナ。ワタシニチカヅクナ、フレルナッ!
コワイ、コワイコワイコワイニクイ。
「大丈夫だよ、そんなに唸らないで。怖くないから、傷つけたりしないから。ぼくはキミを助けたいんだ」
ウソダッ! ウソダウソダウソダッ!
ニンゲンハコワイ、ワタシヲキズツケル。ワタシヲコロスッ‼
キズツケラレルマエニキズツケテヤル。コロサレルマエニ、コロシテヤル。
コロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルッ!
「うぐぅううっ‼」
ドウダ、カミツイテヤッタゾッ!
イタイダロウ? クルシイダロウ? ダッタラモウチカヅクナ、ワタシニフレルナ。
「だい、じょうぶ」
?
「大丈夫、だよ? 怖く、ないよ?」
ナゼダ?
ナゼニゲナイ? ナゼダキシメル? ナゼキズツケヨウトシナイ?
「ぼくは、キミを助けたいんだ」
なぜ、ドウシテ?
わたしは、アナタヲキズツケタのに、ドウシテヤサシクするの?
ドウシテ、そんな顔でわたしをミツメテクレルノ?
「大丈夫、大丈夫だよ。ぼくが絶対に守るから、助けるから」
アタタカイ。ここは、とても温かい。
「今、外してあげるからねっ」
小さな手が、わたしを拘束している罠に触れる。
ダメっ! この罠はとっても鋭いから貴方が怪我をしちゃう。
「う、うううぅううっ!」
小さな手が、力いっぱいに罠を外そうとしてくれる。わたしが思った通り、鋭くとがった罠で怪我をして、血を流しているのに。
私が噛み付いた右腕と、罠を外そうとする左手から血を流して雪を紅く染めながら、それでもこの人はわたしを助けようとしてくれる。
「大丈夫だよ、すぐ、だから……」
もういいっ!
もういいから、それじゃ貴方が痛いから。
「ほら。もう、少し」
足に固く食い込んだ罠が、少しずつ少しずつ持ち上げられていく。そしてガシャリと音を発てて、もう二度と外れることはないと思っていた罠から、わたしは解放されました。
「外れたっ! 外れたよっ」
わたしを助けてくれた人の喜ぶ声が聞こえる。
温かい。
わたしは今、とても温かい場所にいる。
「大丈夫だよ、もう痛くないから」
うん、痛くない。もう寒くない。悲しくない。寂しくない。苦しくもない。
温かい。
この場所は、とても温かい。この腕の中に、ずっと居たい。そうしたら、わたしは……。
わたしは、もう。怖くない。
「う、あっ」
わたしが気が付いた時、目の前に広がったのは血の赤。
そして、わたしを抱きしめて微笑む命さんの優しい笑顔。
「命、さん?」
「気が付いたの、泉美ちゃん?」
「どう、して? ………っ⁉」
わたしは、自分の歯が牙のように鋭く伸びて、命さんの腕に深々と突き刺さっている事にようやく気付きました。
「わ、わたし。いったいどうしてっ!」
急いで命さんから牙を抜こうとしましたが、身体の自由が利かず。抜くどころか、牙は更に深く命さんの腕にめり込みました。
「ふぅっ!」
腕から溢れた命さんの血が、牙を伝ってわたしの口に流れ込んできます。口の中全体に広がる血の味に、わたしは絶望にも似た痛みを覚えました。
「うぐっう!」
命さんの呻き声。その顔は出血と痛みで青白く、今にも死んでしまいそう。
「命さん、わたしを殺してくださいっ! このままじゃ、命さんが」
「そんなの、ダメに決まってるじゃないか」
「でもっ!」
死んじゃう。このままじゃ、命さんが死んでしまう。
そんなのは嫌です!
そんな事になるくらいなら、わたしが死んだ方が良いのに。命さんは首を縦には振ってくれません。
「どうしてですかっ!」
口を動かせば命さんに痛い思いをさせると分かっていても、わたしは言わずにはいられませんでした。
「わたしなんか、どうなっても良いんです。そんな事よりも命さんの方が大事です」
だって、わたしは怒っていたんです。
命さんを傷つけてばかりいる自分に、そんなわたしを放してくれない命さんに。
「どうなっても良いだなんて、言わないでよ。ぼくは、泉美ちゃんの方が大切だよ」
背中に回された腕の力が強くなるのを感じました。まるで、もう二度と放さないとでも言っているように。
「だって、ぼくは泉美ちゃんの事が好きなんだから」
「―――――」
時間が止まったように感じました。
わたしの心が、勝手な願望で幻聴を聞かせたのかと思いました。
でも、命さんはもう一度口を開いて。
「好きだよ、泉美ちゃん」
そう、言ってくれました。
「う、うぅうううっ。うあ、うわぁああああああんっ!」
涙を抑えられませんでした。
嬉しいと言う気持ちが溢れて、止まりませんでした。
命さんが、わたしを好きだって。こんな、こんなわたしを好きだって言ってくれた。
喜びも嬉しさも、幸福も何もかも。いろんな想いが溢れてきて、心がいっぱいで。他のものなんか、命さん以外のものなんかもう入らないくらい。
『オォォォ』
その瞬間、涙や想いと一緒に、わたしの中に入り込んだ悪霊が外に溢れ出しました。
「出たっ! 子栗鼠、手伝え。あの悪霊どもを今度こそ捕まえるぞ!」
「がってんだっ!」
姉さまと子栗鼠ちゃんがわたしから出て行った悪霊を捕まえてくれているようでしたが、そちらはわたしの目には入りませんでした。
「命さんっ!」
ようやく自由が利くようになったわたしは、命さんの腕から牙を抜き。そのまま命さんい抱きつきました。
「本当ですか、わたしなんかの事、本当に……」
夢よりも夢みたいな事だったから、わたしは確かめずにはいられませんでした。
「……命さん?」
でも、命さんは何も答えてくれません。やはり、あれは夢だったのでしょうか?
「命さん?」
反応がありません。わたしは段々不安になってきました。
「命さんっ!」
揺すってみても、頬を叩いてみても、やはり反応がありません。顔色もさらに悪くなって、姉さまよりも白くなってしまっています。
「命さんっ‼ しっかりしてください、命さんっ⁉」
嘘っ、嘘です!
命さんが、命さんが死んじゃうなんてっ! そんな訳ありません。
「姉さま、姉さま来てください。命さんが、命さんがっ!」
「どうしたっ、泉美!」
「姉さま! 命さんが大変なんです。命さんがわたしのせいで、わたしのせいで死んじゃったんですぅ!」
急いで駆けつけてくれた姉さまに、わたしは泣きつきました。
「落ち着け泉美。まだ大丈夫じゃ、息はある」
「本当ですかっ‼ 姉さま、命さんを助けてください。お願いします」
「分かっておる。子栗鼠、兎姫子を運べ。わしは美琴と命を連れて行く」
「分かった」
悪霊を捕まえ終えた子栗鼠ちゃんが、命さんの上着に包まって幸せそうに眠っている兎姫子ちゃんを背負って運ぼうとします。
「むううぅ。お、重いぃ」
「頑張れ、残念ながら幾らわしでも三人は運べん」
「お、おう。任せ、とけぇ~っ!」
子栗鼠ちゃんは小さな身体で頑張っていました。わたしも、子栗鼠ちゃんに負けていられません。
「泉美、お主は一人で歩けるな?」
「はい、大丈夫です姉さま!」
「よし」
命さん、大丈夫ですからね。必ず助かりますから、頑張ってください。
時間はすっかり深夜になってしまいました。
神社に帰ったわたし達は、二手に分かれて治療に当たりました。怪我の軽い兎姫子ちゃんと、大怪我だけれど命に別状のない美琴さんをわたしが。そして、命さんを姉さまが。
「…………」
兎姫子ちゃんと美琴さんの治療は無事に終わりましたが、わたしはとても不安な気持ちで命さんの治療をしているはずの姉さまの所に向かっていました。
「あっ」
そして姉さまは、思いの外速く見つかりました。
「おう、泉美。美琴と兎姫子は大丈夫じゃったか?」
縁側に腰かけて月を見上げていた姉さまは、わたしが来た事に気付くと開口一番に聞いてきました。命に別状がない事が分かっていても、やはり心配だったようです。
「はい。二人とも、今は眠っています」
「そうか、ならよかった……」
姉さまはそれだけ言うと、再び月に視線を戻してしまいました。命さんの事は、話してくれません。それが余計にわたしの不安をあおります。
「………あ、あの姉さま?」
「……うん」
「その。……命さんは、大丈夫なんですか」
言ってすぐにわたしは目を瞑って、身を固くしました。聞かずには居られませんでしたが、聞くのも怖かったんです。
「……ふふ、大丈夫じゃ。心配せんでも、もう意識も回復しておる。お主の作った霊薬のおかげじゃぞ、泉美」
「そ、そうでしたか」
わたしは安心して、身体から力が抜けてしまいそうでした。でも、そうなると歩けなくなってしまうので、わたしはグッと堪えました。
「ありがとうございました。姉さま」
聞きたかった事を聞いたので、わたしは姉さまにお礼を言ってから踵を返しました。このまま戻って、部屋で眠っている美琴さんと兎姫子ちゃんを看病するつもりでした。
「………泉美よ、命を見舞っては行かないのか?」
でも、わたしは足を止めてしまいました。姉さまの声が、とても静かで優しかったから。
「会えるわけ、ありません。わたしは命さんに、あんな大怪我をさせてしいまったんですよ? どんな顔をして会えばいいって言うんですか」
「普通の顔をして会えば良かろう。きっと、命はそれだけで喜ぶ」
「姉さま……それでも、やっぱりダメですっ!」
姉さまの言っている事は、きっと事実だと思います。でも、そうやって甘えてしまったら、わたしはまた命さんを傷つけてしまう。そんなのは嫌だから、わたしは姉さまに背を向けて駆け出しました。
「涙の訳は、分かったか?」
駆け出した足は、またも姉さまに止められてしまいました。
「分かったのか?」
それは、何時か姉さまに考えろと言われた事。
「………はい」
「ならば、聞かせてくれんか?」
答えない訳には行きませんでした。振り返った姉さまが、酷く真剣な表情でわたしの目を、見詰めていたから。
「……わたしが、命さんを好きだったからです」
「そうか……」
わたしの答えを聞くと、姉さまの視線は再び月へと逸れました。
「……のう、泉美よ。命の右腕にはのう、傷痕があるぞ」
「!」
「それも、狐に噛まれた噛み傷がのう」
「姉さま、それって!」
それって、そう言う事なんですか? 命さんが、あの人なんですか?
「ああ、命からも聞いて確かめた。おそらく、間違いないじゃろう」
「そんな……命さんが」
「のう、泉美よ。わしは甘えても良いと思うぞ。あやつなら、お主をちゃんと受け止めてくれる。わしが保証してやる」
「姉さま……」
姉さまには、わたしの気持ちは隠せないみたいです。
「でもわたしは、これ以上命さんを傷つけたくないんです。わたしは命さんを傷つけてばっかりで、こんなわたしじゃ命さんを不幸にしちゃいます。だから、もう会わない方が……」
「それこそ命を不幸にするぞ、泉美」
「えっ?」
「あやつは悪霊に取り付かれたお主を抱きしめて、好きだと言った程の男じゃぞ? 例え泉美が命と距離を置いても、お主の事を想い続けるじゃろうて」
「そんな、でも……」
「会って来い、泉美。せめて、十年前の例くらい言って来い。お主は、そのためにあやつをずっと探しておったんじゃろう?」
煮え切らない私の背中を、姉さまは押してくれました。
「はいっ!」
わたしは命さんがいる部屋に向かって走り出します。
「………ゆけ、泉美。想いのままに。わしの妹よ」
姉さまの声を背に受けて、わたしは命さんの所に飛び込みました。
「泉美ちゃん? どうしたの」
命さんは、部屋の中央に敷かれた布団の中で横になっていました。わたしが噛み付いた右腕には包帯が巻かれ、添え木が当てられています。
「命さん。……命さぁあああんっ!」
その姿を見て、その微笑を向けられると、もうダメでした。押さえ込もうとしていた気持ちが溢れて、涙が零れてしまいます。
「泉美ちゃんっ⁉」
何時の間にか、わたしは命さんに抱きついてしまっていました。はしたないとは思うのに、泣きついた命さんの胸が温かくて離れたくありませんでした。
「ごめんなさい命さんっ! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「ど、どうしたの泉美ちゃん? さっきの事なら泉美ちゃんが悪いわけじゃないんだし、気にしなくっても良いんだよ?」
命さんは布団から身体を起こして、わたしを抱きとめてくれます。
「悪いのはわたしですっ! わたしが、失敗したのが悪いんです……」
命さんは優しい、優し過ぎます。
「今日の事だけじゃありません。命さんが自転車で転んだのだって、飛び出したわたしを避けようとしたからです。わたしは、命さんを、傷つけてばっかりで」
「泉美ちゃん。それはこの前、いいって言ったじゃないか」
「それだけじゃないんですっ! 姉さまから聞きました。命さんは、小さい頃に狐に噛まれた事がありますよね?」
「? うん、あるけど。それがどうかしたの?」
「それは、吹雪の日の事じゃありませんでしたか?」
「そうだけど。……何で分かったの?」
「……あぁ」
ああ、姉さま。本当に命さんでした。
ようやく会えたんだ。本当に、会えたんだ。あの人に。
嬉しい。
あの人に会えたことが。そして、それ以上にあの人が命さんだった事が嬉しい。
「命さん……。あの日、命さんを噛んだ狐はわたしです。あの日、命さんが助けてくれた狐はわたしなんです」
「泉美ちゃんがっ⁉ …………でも、あぁそうか。そうだったのか。だから月下さんは、あの時あんな事を」
「ありがとうございます、命さん。わたしを助けてくれて。この気持ちを伝えたくて、ずっとあなたを探していました」
今でもはっきりと憶えています。震えていたわたしに掛けてくれた、言葉の優しさを。
「命さん、ごめんなさい。ごめんなさいっ! ……ずっと、あの時の事を謝りたかったんです。命さんはわたしを助けてくれようとしたのに、あんな大怪我をさせてしまって」
忘れられた事なんかありません。真っ白な雪に染み込んだ血の赤を。
「だから。……だから、わたしは命さんに好きになってもらう資格なんかないんです。命さんを傷つけてばかりの、わたしになんか……」
好きです。
大好きです、命さん。
………でも、きっと命さんは私の事を嫌いになります。ううん、きっともうわたしは嫌われてしまっているはずです。
こんなに命さんを傷つけてばかりいるわたしなんか、嫌われて当然なんです。
「う、うぅう。……ぐす、ひくっ」
でも本当は、嫌われたくなんかない。好きになってほしい。
例え幻聴でも良いから、もう一度好きだと言ってほしい。
「……好きだよ、泉美ちゃん」
「あっ!」
幻聴だと思いました。わたしの妄想だと。でも、違っていました。わたしを抱きしめてくれた腕が、向けてくれた深い笑みがそれを証明してくれました。
「命、さん? ……どうして」
「ぼくはね、泉美ちゃん。君に傷つけられたなんて思ってないよ。十年前も、今もね。それどころか、感謝してるくらいなんだから」
「そんなっ! だって、命さんはこんなに大怪我をっ!」
「確かに身体にはちょっと怪我しちゃったけど、それだけだよ。それ以上のものを沢山もらったから、ぼくは傷ついてなんかいない」
「わたしは、命さんに何もあげられていません……」
「そんな事ないよ。……夢をもらったよ、十年前に」
「夢……?」
「そう、夢」
命さんはわたしを抱きしめたまま、顔を上げて遠くを見るような表情になりました。
「あの時、ぼくはあの狐を……泉美ちゃんを助けたかったんだ。でも、ぼくには助けてあげられなかった……」
「そんな事ありませんっ! 命さんはわたしを助けてくれました」
「うぅん、助けられなかったよ。ぼくに出来たのは、死に掛けて意識を失った泉美ちゃんを動物病院に連れて行く事だけだった」
「……命さん」
それは、確かにそうなのかもしれません。確かに、わたしが目を覚ました時、そこは見知らぬ建物の中でした。
そこに命さんの姿はなく、だから逃げ出して命さんと出会った場所に戻ったんです。結局命さんと会うことは出来ませんでしたけど、代わりに姉さまに会うことが出来ました。
「………それでも、わたしはやっぱり命さんに助けてもらいましたっ!」
姉さまと会えた事で、私は救われました。
泉美と言う名前を、新しい家族を。沢山の愛情を。わたしは姉さまから頂きました。
それもこれも、あの時命さんがわたしを罠から解き放ってくれたから。だからやっぱり、わたしは命さんに助けてもらったんです。
「泉美ちゃん……。ありがとう。でもね、あの時のぼくは悔しかったんだ。君を肝心なところで助けてあげられなかったのが」
そこで命さんは一度言葉を切って、わたしを抱く腕の力を強めてくれました。
「だから、ぼくはその時に思ったんだ。……獣医になろうって」
「獣医さん、ですか?」
「うん、あの時の泉美ちゃんみたいな大怪我をした子を治してあげられるような、そんな獣医になって、笑顔を見たいなって」
「笑顔……?」
「そう笑顔。動物達を見てると何となくね、思う時があるんだよ。ああ、この子は今幸せなんだなって。そんな表所をしてるような気がするんだ。だから、笑顔」
「命さん」
わたしが妖かしになる前。ただの狐だった時にも、今と同じように心があって。嬉しかったり、悲しかったり、寂しかったりしました。
でもそれは、中々人間さんには伝わらないものです。命さんはそれを、ちゃんと感じ取ってくれているんだと思うと、なんだか嬉しくなってしまいます。
「ぼくはね、泉美ちゃん。あの狐に、笑顔になってほしかったんだ。とっても寂しそうで、苦しそうにしていた君に、笑顔になってほしかったんだ」
「……命さん」
「だから泣かないで、泉美ちゃん。ぼくは君が好きなんだ。泉美ちゃんは笑顔に……幸せになってほしいんだ」
「っ!」
見上げた命さんの顔は、涙でくすんで良く見えませんでした。
わたしなんかの事をそんなに想ってくれるのが嬉しくて、また好きだって言ってもらえただけでわたしは幸せで。
「もし、泉美ちゃんがぼくを嫌いだって言うんなら。圭の方が好きだって言うんなら、ぼくは大人しく身を引くよ。でも、もしそうじゃないんなら……」
「……あっ」
圭さんの方が好きだと言えば、もうわたしのせいで命さんが傷つくことはなくなります。
「わたしは……」
でもたったそれだけの言葉を、わたしは口にする事が出来ません。また、命さんを傷つけてしまう事があるかもしれないのに。
「わたし、は………」
「泉美ちゃん」
言葉を続けられなくて、俯いたわたしの名前を、命さんが呼びました。その声に誘われるように顔を上げると、命さんが優しい目でわたしの事を見詰めていました。
「大好きだよ」
もう、ダメでした。
それだけで、わたしの気持ちは弾けてしまいました。
「っ! 命さん。命さん命さん命さんっ! …………わたしも、わたしも命さんの事が好きです。大好きですっ‼」
「………うん。ありがとう、泉美ちゃん」
「命さんっ! 好きなんです。貴方の事が好きで好きでたまらないんです」
「うん。ぼくもだよ」
あぁ、そうか。この部屋に入った時から……命さんの前に立った時から、この気持ちを止められるはずなんてなかったんだ。
だって、こんなに好きなんですから。
「命さん、もうわたしを置いて行かないでください。ずっと、ずっと探してたんですから」
「うん。もう絶対に置いて行かないよ。ずっと一緒にいよう」
「はい。……はいっ!」
嬉しくて、温かくて。わたしは幸せでした。これ以上ないくらいに。
「命さん……」
「泉美ちゃん……」
わたし達は、何時の間にか見詰め合っていました。命さんの顔が、本当に近い。このままキスが出来そうなほどに。
「…………」
わたしは、そっと目を閉じました。
圭さんとキスしようとした時とは、全然違う気持ち。胸の奥がドキドキして、触れ合える事がこんなにも嬉しいなんて、わたしは知りませんでした。
「んっ……」
ほんの一瞬、ささやくような優しいキス。
それだけなのに、こんなにも心が満たされるのは何故なんでしょう?
唇が触れ合っただけなのに、心まで繋がったような気がするのは何故なんでしょう?
触れ合った唇が熱くて、命さんの唇が離れてしまった事がこんなにも寂しく思うのは何故なんでしょう?
「命さん……その、も一度なんて、ダメ、ですよね?」
あまりに寂しく思えるので、わたしはついつい命さんにおねだりしていました。恥ずかしい事を言っているのは分かっているのに、気持ちが口をついて出てしまったんです。
「ダメですよねっ! そうですよ――」
ねっ? と、最後まで言う事は出来ませんでした。
「んうぅ! …………んっ」
命さんがわたしの願いを叶えてくれたからです。
先程よりも長い、命さんの体温がわたしの中に染み込んでくるようなキス。
やがて息が切れ、名残惜しく思いながら唇を離し。力の抜けたわたしは、命さんの胸にもたれかかりました。
命さんの温もりに身を任せながら、わたしは自分が命さんを探していた本当の理由を今になってようやく理解する事が出来ました。
命さんに……わたしを助けてくれた人に会って、謝ってお礼をする。わたしは、それだけが目的のつもりでした。
でも、あの人に会って……命さんに会って。わたしが本当にしたかった事は、お礼でも謝罪でもなく。こうしてまた、あの時みたいに抱きしめてもらう事。
わたしが本当に求めていたのは。あの時の温もりに、この温かさに。もう一度帰って来る事でした。
わたしはきっとあの日から、命さんに恋をしていたんです。長い長い、初恋を。




