第八章 悪霊と金狐
「あ、悪魂封結!」
目の前に現れた悪霊目掛けて、ぼくは封魂玉をかざした。
悪霊は無事に吸い込まれ、ぼくはホッとして一息つく。ここまで何匹かの悪霊を捕まえたが、どうにも慣れない。
「上出来じゃ、命」
「いや、そんな事ないですよ。月下さん達が助けてくれるから何とかなっているだけです」
月下さんに肩を叩かれ、ぼくは頬をかいた。
「ぼくなんかよりも、凄いのは………」
そして、ぼくは視線を下げて月下さんの背後を見た。
「……………」
そこには、無言で封魂玉をかざして悪霊を捕らえる兎姫子ちゃんの姿があった。
「………あれで、何で出来るんですか?」
「…………知らん。兎姫子に関しては、わしの専門外じゃ」
ぼくと同じものを見ていた月下さんが、頭痛を覚えたかのように額を揉みながら首を横に振った。
その間にも、兎姫子ちゃんは一言の言葉も発せずに悪霊をもう一体捕まえていた。もはや、感心を通り越して呆れてしまう。
「こらっ! 兎姫子ばっかり褒めないで、オレも褒めろっ」
二人で兎姫子ちゃんの活躍を眺めていると、子栗鼠ちゃんに怒られてしまった。
見ると、子栗鼠ちゃんの封魂玉はすでに二つも真っ黒に染まっている。
「おおっ! 子栗鼠ちゃんも凄いね」
「ふふぅん。そうだろう、そうだろう」
子栗鼠ちゃんの活躍を素直に褒めると、彼女は小さな胸を張って嬉しそうに丸い耳をピコピコ揺らした。
その頭が撫でろと言わんばかりに突き出されていたので、ぼくは子栗鼠ちゃんの頭をそっと撫でてみた。
滑らかな髪の毛と、柔らかくて温かい耳の感触が手のひらから伝わってくる。
「むふふぅんっ」
「………!」
「えっ? 兎姫子ちゃんも?」
子栗鼠ちゃんの頭を撫でていると、今度は兎姫子ちゃんに怒られた。彼女はジェスチャーと表情だけで、器用に感情を伝えてくる。
「えっと、じゃあ……」
子栗鼠ちゃんを撫でていた手を兎姫子ちゃんに移す。子栗鼠ちゃんとはまた違う長い髪のしなやかな感触と、手が当たる度に揺れる重量感のある長い耳。
「…………」
兎姫子ちゃんは無言のままだったけれど、その名が示すように青空のような晴れやかな笑顔を浮かべてくれた。
「あっ、ずるいぞ兎姫子!」
「………!」
「オレだってまだ撫でられ足りねえよっ」
「………」
「ああっ、分かった分かったから!」
二人が喧嘩を始めてしまったので、ぼくは空いている方の手も使って二人の頭を同時に撫でる。それでようやく二人は喧嘩をやめてくれた。
「くふふふふ、命はモテるのう。これは、泉美も大変そうじゃ」
「か、からかわないでくださいよ。月下さん」
「くははははははっ。………うん?」
子栗鼠ちゃん達にじゃれつかれるぼくをからかっていた月下さんの胸元で、何かが光る。
「これは……、桂木からの連絡じゃな」
それは、神社を出る直前に連絡用にと桂木さんからもらった御神木の葉だった。月下さんはそれを額に当てて目を閉じる。
「………うむ。どうやらこの辺りの悪霊は取り尽くしたらしい」
光が消えると、月下さんは御神木の葉を再び胸元に戻しながら口を開いた。
「じゃあっ!」
「うむ。これから、泉美達の居る東側の森に向かうっ!」
ぼく達は頷き合うと、泉美ちゃん達のいる東側の森を目指して足早に移動を開始した。
そのまましばらく歩き続けて、東側の森に足を踏み入れた時の事だった。月下さんの胸元で、再び御神木の葉が光りだした。
「………何っ! それは真か‼」
先程と同じように御神木の葉を額に当てた月下さんの顔が歪む。
「ど、どうたんですかっ!」
「何かあったのかっ!」
「………」
その表情に嫌な予感をおぼえて、ぼく達は月下さんに説明を急かした。
「………不味いぞ、悪霊どもが一箇所に集まりだしたらしい。おかけに、泉美と美琴もそこに居るそうじゃ」
「それって、危ないんじゃ!」
「ああ、だから急ぐぞっ! はぐれるなよ」
走り出した月下さんに、ぼく達は慌ててついて行った。月下さんは余裕がないらしく、一度もぼく達の方を振り返らないでどんどんスピードを上げていく。
それが泉美ちゃん達の危険を如実に表している気がして、ぼくも足の筋肉を限界まで酷使して走る速度を上げた。
「ここじゃっ!」
月下さんが足を止めたのは、小さな洞窟の前に来た時だった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。こ、はぁ、ここですか?」
「ちっちぇなぁ~~」
「………」
その洞窟は本当に小さかった。子栗鼠ちゃん達ならともかく、ぼくと月下さんは立って歩く事は出来ないだろう。
「わしが先に入る。お主達はわしの後に続け」
月下さんが先陣を切って洞窟の中に入っていく。
「むう、窮屈じゃのう」
大変そうではあったが、それでも何とか洞窟に入る事は出来るようだった。
「よし、オレ達も行くぞ兎姫子」
「………」
その後に兎姫子ちゃんと子栗鼠ちゃんが続く。ぼくもその後から洞窟に足を踏み入れたのだが。あまりの狭さに、楽々と進んで行く二人がこの時ばかりは羨ましく思えた。
でも狭いのは最初の方だけだったようで、途中から洞窟の幅は広くなり。やがてひらけた広場のような場所に出た。
「んぐっ!」
ドシャァアアアアンッ‼
「な、何だ!」
ひらけた場所に出た直後、ぼく達のすぐ横に何かが凄い勢いで飛んで来た。
洞窟の壁に激突した何かが、天井の穴から入る僅かな光にその姿をさらす。
「「「美琴っ‼」」」
「………!」
そこに居たのは、ボロボロになった美琴さんだった。メガネは割れ、額からは血が流れている。
「美琴、大丈夫か美琴っ!」
駆け寄った月下さんが美琴さんを揺り起こそうとする。しかし、美琴さんは気を失っているのか、反応がない。
その直後、広場の奥から悲鳴があがった。
「きゃぁああああああっ」
美琴さんの所に駆け寄ろうとしていたぼく達は、驚いて足を止める。
声のした方に視線をめぐらせると、そこには腕があった。闇の中で、不気味に光る巨大な腕。その手の中に、泉美ちゃんが捕まっていた。
「泉美ちゃんっ!」
「うぐぅう」
腕が泉美ちゃんの身体を圧迫する。
「このっ! 泉美ちゃんを放せっ」
「落ち着け命っ! 無闇に飛び出すな」
「でもっ!」
ぼくでは力になれないのは分かっている。だけれど、苦しんでいる泉美ちゃんをただ黙って見ていることなんか出来ない。
「くっ!」
「「命っ!」」
「……!」
ぼくは居ても立ってもいられなくて、月下さんの制止を振り切って飛び出した。
「泉美ちゃんっ!」
「命、さん……。っ! ダメです、来ないで!」
『グゥオオオオ、ニンゲン、ニンゲンコロスゥウウウ!』
「あっぐ!」
「命さん!」
声とも雷鳴ともつかぬおぞましい叫びをあげる巨大な腕から、もう一本の腕が飛び出してきて、ぼくはその腕に殴り飛ばされた。
「…………!」
美琴さんのように洞窟の壁にぶつかる事を覚悟したのだけれど、そうはならなかった。
「兎姫子、ちゃん」
「……………」
寸でのところで兎姫子ちゃんが受け止めてくれたのだ。だけど、体型が違ううえに勢いがついた身体を受け止めきる事は出来ず、兎姫子ちゃんはぼくの下敷きなってしまった。
「「命、兎姫子っ!」」
兎姫子ちゃんのおかげでダメージの小さかったぼくは、急いで彼女の上から退くと、その小さな身体を抱き起こした。
「兎姫子ちゃん、大丈夫っ!」
幸いにも兎姫子ちゃんの意識はしっかりしていたが、ダメージが大きく動く事が出来ないようだった。
「ごめん、兎姫子ちゃん……。ぼくのせいで」
「………」
それでも、兎姫子ちゃんは笑顔を浮かべて首を横に振る。
「……ふぅ、どうやら生きておるようじゃのう。まったく、二人とも無茶しおってからに」
「すみません、月下さん」
「まったくじゃ、あまり心配をかけさせてくれるな」
月下さんは大きく息をついて肩をすくめる。
「……う、うぅ。……月下、さん……?」
「美琴っ、気が付いたか!」
その時、美琴さんの目がうっすらと開かれた。しかし呼吸は荒く、言葉も途切れ途切れ。何時また意識を失うか分からないような状態だ。
「すみ、ません……。……泉美さん……を、……庇い……きれなくて」
「無理をして喋るな。丈夫じゃ、後はわしが何とかする」
「……お願い、します……」
月下さんの腕の中で、美琴さんの目が再び閉じられる。しかし、月下さんに後を託して安心したのか、その表情は先程よりも幾分か安らいで見えた。
「美琴、大丈夫かっ!」
「心配するな子栗鼠、美琴は気絶しただけじゃ」
月下さんは美琴さんをそっと地面に寝かせると、悪霊へと向き直った。
「わしの親友と大切な妹を傷つけた責任。とってもらうぞ?」
静かに、しかし今まで見た事もない怒りを紅い目の奥に宿して、月下さんは呟いた。瞬間、その身体が燃え上がる。
黄金色の炎。
最初、ぼくは自分の見たものをそう思った。しかし、月下さん自身も服も燃えていない。
『オ、オオォォォ……』
腕が月下さんから遠ざかるように身をよじると、弱々しい声をあげる。
「ふん悪霊ふぜいが、わしの妖気に恐れをなしたか。じゃが、許してはやれんぞっ!」
「妖気……」
その言葉で理解した。月下さんのまとう黄金色の炎が、彼女の言う妖気なのだと。
「ゆくぞっ!」
腕に向かって駆け出す月下さん。腕も黙ってそれを見ていることはなく、ぼくの時と同じように小さな腕を出して月下さんを襲う。
「ふん。遅いわっ!」
月下さんは飛んで来る腕を膝で打ち上げると、そのまま流れるような動きで回し蹴りを叩き込んで弾き飛ばしてしまう。
「凄い……」
ぼくを吹き飛ばした攻撃をいとも簡単に撃退した月下さんに、ぼくは思わず感嘆の声をあげていた。
月下さんは腕からの攻撃を掻い潜り、あるいは蹴散らしてその身に肉迫していた。
「泉美を返してもらうぞっ!」
炎のような妖気をまとった月下さんの拳が、指の一つを打ち抜く。
『グギャアアアアアアア』
「きゃあっ!」
指を打ち抜かれた事で、腕は泉美ちゃんを手放す。月下さんは開放された泉美ちゃんを空中でキャッチすると、彼女を抱えたまま後ろに後退してぼくの隣に並んだ。
「命、泉美と兎姫子を連れて下がれ。少し派手にいく」
「分かりました」
ぼくは頷くと、動けない兎姫子ちゃんを抱き上げた。
「行こう、泉美ちゃん」
足にダメージがない事を確認して、泉美ちゃんに声を掛ける。月下さんは腕との戦いに戻っていたのが、泉美ちゃんは地面に下ろされた時の格好のまま動かなかった。
「どうしたの? もしかして、どこか怪我でもしたのっ!」
泉美ちゃんは小さい傷こそ見受けられたが、大きな怪我はしていないように見えた。しかし、見えないところに大きな怪我を負っているのではないかと思って、ぼくは慌てる。
「ち、違うんです。………ただ、その。腰が、抜けてしまって」
泉美ちゃんは、恥ずかしいのかぼくから顔を逸らして喋る。よく見ると、その身体が細かく震えている事が分かった。
幽霊が苦手な泉美ちゃんが、それも悪霊に捕まっていたのだ。そのくらい当然。いや、むしろちゃんと意識を保っている事だけでも、そうとう無理をしているのかもしれない。
「ごめん、気付けなくって。えっと、それじゃ……」
泉美ちゃんを助け起こそうにも、両手は兎姫子ちゃんで塞がってしまっている。
「…………」
悩んでいると、兎姫子ちゃんに服の袖を引っ張られた。
「どうしたの、兎姫子ちゃん?」
「…………」
兎姫子ちゃんはぼくの服を掴んだ腕の力だけで身体を持ち上げながら、その綺麗な瞳で何かを訴えかけてくる。
「兎姫子ちゃん………。もしかして、背中に移動してくれるの?」
「………」
兎姫子ちゃんは頷いてくれた。たしかに、兎姫子ちゃんを背負えるなら腕が開くので泉美ちゃんを支える事が出来る。
でもそれだと、兎姫子ちゃんの方でもぼくに掴まってもらわなければならない。今の兎姫子ちゃんにそれだけの腕力が残っているか、ぼくには心配だった。
「………」
だけれど、無言で訴えてくる兎姫子ちゃんの気持ちに負けて。ぼくはいったん兎姫子ちゃんを下ろして、彼女に背中を向けた。
「兎姫子ちゃん、大丈夫? 掴まっていられる」
「………」
ぼくの身体に頑張ってよじ登った兎姫子ちゃんが頷くのを背中の感触で確認して、ぼくは彼女が落ちてしまわないようにゆっくりと立ち上がった。
「さ、泉美ちゃん。ぼくに掴まって」
「………すみません」
泉美ちゃんのそばで身を屈め、腰に腕を回した。兎姫子ちゃんを背負っているので肩を貸す事は出来ないが、それでも泉美ちゃんはぼくを支えに何とか立ち上がる事が出来た。
「行くよ」
「はい……」
激しい戦闘を続ける月下さん達から離れるため、ぼく達は動きだす。とりあえず、子栗鼠ちゃんと美琴さんが居る広場の出口付近まで戻るつもりだった。
「ぐぅううううっ!」
「姉さまっ!」
幾らも歩かないうちに、月下さんがぼくらの横を足で地面をガリガリと削りながら飛ばされていった。
「大丈夫じゃっ! しかし、意外としぶといのう」
月下さんは泉美ちゃんに声を掛けると、巨大な腕を睨みつける。ぼく達も足を止めて、腕の方に視線を移した。
『オオゥオオアァア』
悪霊の塊である腕は、月下さんに打ち抜かれた指を再生させ、他にも月下さんが開けたと思われる穴を修復しているところだった。
「ふん。ちとしゃくじゃが、もう少しばかり力を出さねばなるまい」
月下さんはそう言うと、戦闘中なのにもかかわらず紅い目を閉じてしまう。
「………ふぅーーっ」
月下さんが短く息を吐く音がぼくの耳に届いた直後、変化は起こった。
ピンと立てられた月下さんの金色の尻尾から、まるで扇が開く時みたいに左右に妖気の炎が広がる。
広がった炎は、その一つ一つが尻尾の形をしていて、徐々にそれらが実体となっていく。
全ての炎が実体に変わると、月下さんには右に四本、左に四本。真ん中の一本も入れて、合計九本の尻尾が生えていた。
それがどんな意味を持つのか、ぼくには分からなかったけれれど、九尾になってからの月下さんは凄かった。元々凄かったけれど、それに輪をかけて凄かった。
腕が再生できないほどの速さで攻撃を繰り出し、完全に悪霊を圧倒していた。ぼくも泉美ちゃんも、見惚れてしまって逃げるのを忘れたほどだ。
「これで終いじゃ。『妖炎よ我の真なる似姿となりて、我が敵を討ち滅ぼせ。九遠・愛祈怒』」
月下さんは弱った腕から距離をとると、呪文のような言葉を口にする。
すると、月下さんのまとっていた妖気の炎が爆発的な勢いで立ち昇り、何かの形にまとまりだした。
『キュオォォオオオオオオオンッ!』
形を得た妖気の炎が、獣のような声で咆哮する。
それは狐だった。
九本の尻尾を持ち、黄金の体毛に覆われた巨大な狐。妖気で出来た九尾の狐は、本体である月下さんから離れ、悪霊の塊である腕に躍り掛かる。
『キュオォォオオオオオオオン』
『グウゥウオオオオアアアア』
二つの巨大な力はぶつかり合い。やがて、弾けた。
ドゴォオオオオオオンッッ‼
「うわあぁあああああっ‼」
「きゃあぁあああああああっ‼」
激しい爆発の衝撃に、ぼく達は慌てて身を伏せる。
ぼく達の悲鳴さえ掻き消されそうな、けたたましい轟音に閃光。洞窟全体を揺らすような振動に、ぼくは生き埋めになる事も覚悟した。
「…………あれ、収まった?」
「………みたい、ですね」
しかし結果的に、爆発は広場の出入り口とは反対側の壁を吹き飛ばしただけに止まった。
崩れた壁の向こうに大きな満月と、満天の夜空が見える。どうやら爆発の力が外に抜けてくれたおかげで、ぼく達は無事に済んだらしい。
「………終わったようじゃのう」
腕があった場所は瓦礫の山と化しており、それを見た月下さんが身体から力を抜いた。炎のようだった妖気は消え、八本の尻尾も実体を失って霧散する。
「さて、残るは後始末だけじゃな」
月下さんは封魂玉を取り出すと、瓦礫の山に向かって構える。
「悪魂封結」
月下さんに倒された悪霊達が瓦礫の山から吸い出され、封魂玉を黒く染めていく。ある程度染まったところで、月下さんはもう一つ封魂玉を取り出して、同じ手順を繰り返した。
すると、一つ目の封魂玉に流れていた悪霊達がもう一方の封魂玉に吸い寄せられる。一つ目の封魂玉の吸引力は弱まって消えた。
月下さんはそれを悪霊が出なくなるまで続け、全て捕まえた事を確認してからぼく達の所に駆け寄って来た。
「お主ら、大丈夫じゃったか?」
「はい、ぼくと兎姫子ちゃんは何とか」
背中にしょった兎姫子ちゃんが頷くのを確認してから、ぼくは月下さんに返事を返した。
余談だが、あの爆発でさえ一言も発しなかった兎姫子ちゃんは、無駄に凄い子だと思う。
「泉美も大丈夫か?」
「はい、姉さま。わたしも大丈夫です」
「そうか、良かったぁ~」
月下さんは泉美ちゃんの無事を確認すると、心底安堵したように息を漏らす。
「まったく、責任を感じたのも分かるが。あまりわしを心配させないでおくれ」
「はい、すみません………」
落ち込んだ泉美ちゃんの頭を軽く撫ぜると、月下さんは美琴さん達の様子を見にぼく達の前から歩き去った。
「ふぅ~。何とかなって良かったね、泉美ちゃん」
ぼくはそれまで背負ったままだった兎姫子ちゃんを下ろして、緊張しっぱなしで硬くなった身体をほぐす。
兎姫子ちゃんを地面に直接寝かせる訳にはいかないので、上着を脱いで彼女の下に敷いてあげたのだが……。
兎姫子ちゃんの全身をその上着だけでガバー出来てしまって、こんなに小さな身体でぼくを助けてくれたのかと思うと、頭が下がる思いだった。
「……ごめんなさい、命さん。こんな危険な事に巻き込んでしまって」
安心したのか、何時の間にか安らかな寝息を発てていた兎姫子ちゃんを感謝を込めて見詰めていると、泉美ちゃんが震える声で呟いた。
「泉美ちゃん……」
兎姫子ちゃんから目を戻すと、泉美ちゃんは顔を伏せて震えていた。その可愛い狐耳も、今は力なく垂れ下がっている。
「泉美ちゃんが悪いわけじゃないよ。それにほら、ぼくはこんなに元気だよ?」
泉美ちゃんに落ち込んだ顔をさせたくなくて、ぼくはことさら陽気な声で元気元気と繰り返した。
「命さん……」
そのかいあってか、泉美ちゃんが伏せていた顔を上げてくれる。
よし、もう一息だと気合を入れ直して、口を開こうとした時だった。
『オォオオオ、ニンゲンッ! コロスコロスコロスゥウ‼』
悲鳴のような声をあげて、数対の悪霊が瓦礫の下から飛び出して来た。
「何っ! まだ残っておったのか! 逃げろっ。命、泉美」
美琴さんと子栗鼠ちゃんの無事を確かめていた月下さんが、叫びながら駆け寄って来ようとしたが、間に合わない。
「ニンゲン、ニンゲンンンッ!」
悪霊達は弾丸のような速度でぼくに襲い掛かってきた。
「うわあぁあああっ」
とっさに避ける事も出来ず、ぼくは顔の前に腕を回して目を閉じた。
「危ないっ、命さん!」
泉美ちゃんの声が聞こえ、直後に軽い衝撃。
「うぐっ!」
地面に身体を打ちつけて、ぼくは目を開ける。悪霊に襲われたにしては痛みが弱い。
「泉美ちゃんっ‼」
そしてぼくは、目の前に信じたくない光景を目撃する。
ぼくと悪霊の間に身体を割り込ませた泉美ちゃんが、ぼくの代わりに悪霊に襲われている。泉美ちゃんがぼくを庇ってくれたのだ。
「ううぅうああああっ!」
「泉美ぃいいいっ!」
泉美ちゃんの悲鳴と月下さんの悲鳴は同時たった。
悪霊達は泉美ちゃんの周囲を飛び回り、一体また一体と、彼女の身体の中に入っていく。その度に泉美ちゃんは苦しみの声を上げ、頭を抱える。
「しまったっ、泉美に取り付くきか!」
「取り付くっ! そんな……」
月下さんの叫んだ言葉を証明するように、次第に泉美ちゃんの姿が変容していった。
爪が鋭く伸び、小さかった口は耳まで裂けて牙が突き出す。二本の足で立つこともやめ、獣のように四足になる。
「ううぅ、うグゥウウウウウウアアアアッ」
目が血走り尻尾が二本に別れた時には、泉美ちゃんの声も獣の咆哮に変わっていた。
「ニンゲン、コロス。コロスッ!」
泉美ちゃんのものとはとても思えない、しわがれた声で叫び。強い殺気をぼくがぼくにぶつけられる。
「不味い、これは人に虐げられた動物霊かっ! 命、速く泉美から離れろ」
月下さんも、悪霊が泉美ちゃんに取り付いてしまった事で手を出しあぐねている。
「グアァアアアアアアアッ」
月下さんに言われて離れようとしたぼくに、泉美ちゃんは容赦なく襲い掛かってきた。
「あぐぅうう」
とっさにかざした右腕に、泉美ちゃんの牙が突き刺さる。
「ぐあああああっ!」
牙に骨まで貫かれたのが分かった。腕がひしゃげ、血がとめどなくふきだす。
「グゥウウウウウ」
こんなの、泉美ちゃんじゃない。
優しくなんかない。凶暴だ。
可愛くなんかない。恐ろしい
………それでも、ぼくは腕に噛み付いた泉美ちゃんを振り払う事が出来なかった。
確かに今の泉美ちゃんは、可愛くはないし優しくもない。
でも、それでも。やっぱり愛しい。
惚れた弱み、と言うやつだろうか? 泉美ちゃんのこんな姿を見ても、ぼくのこの気持ちはちっとも揺るがなかった。それどころか、どんどん強くなっていく。
噛み付かれた腕から、痛みと一緒に泉美ちゃんの体温を感じる。腕を噛み千切り、首を圧し折ろうと近づけられた髪から、土の匂いに混じって微かに甘い香りがする。
例えどんな姿になっても、泉美ちゃんは泉美ちゃんで。例え噛み殺されそうになっても、ぼくはどうしようもなく泉美ちゃんの事が好きだったんだ。
「泉美ちゃん……」
ぼくは噛み付かれた腕ごと泉美ちゃんを引き寄せ、左腕でその身体を抱きしめた。
牙をむいて唸る泉美ちゃんの姿が、血走った目が、恐怖に震えているように見えたから。
「大丈夫だよ、泉美ちゃん。ぼくが、傍に居る。何も怖い事なんかないよ」




