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第84話 揺らぐ千年の秩序

 大神官ベルゲンは——苛立っていた。


 大神殿の最奥。——豪奢な私室で、彼は——一通の、報告書を、握りしめていた。


 密偵からの、報せ。そこに記されていたのは——あの商会の、目覚ましい躍進ぶりだった。


 安価な紙が、王都の隅々まで行き渡り——子どもまでもが、文字を覚え始めている。かつて、一部の者だけのものだった「知」が——今や、民の手に、こぼれ落ちつつある。


*


 千年。——この国の秩序は、盤石だった。


 女神アステリアの名のもとに、身分は定められ——貴き者は貴く、卑しき者は卑しく。それが世の理。——女神の定めた秩序。


 そう教え込み、民を従わせてきた。聖典は——高価な羊皮紙にのみ記され、教会が厳重に管理する。民は、自ら読むことができぬゆえ——教会の説くことを、ただ信じるほかは、なかった。


 それでこそ、秩序は保たれた。羊は——羊であればよい。——余計な知恵など、つけさせてはならぬ。


*


 ——だが。今、どうだ。


 あの忌々しい紙のせいで、民が文字を覚え。書物を読み、互いに考えを、交わし始めている。


 「なぜ、生まれだけで——人の値打ちが、決まるのか」


 「今のやり方は、おかしいのでは、ないか」


 そんな声が——王都のあちこちで、囁かれ始めている。改革派の神官どもも、それに、勢いづいて——教会の内から、声を、上げ始めた。


 ベルゲンは——奥歯を、噛みしめた。


 羊どもが、自分の頭で考え始めている。それは——千年、彼が——最も恐れてきたこと、だった。


*


(——もう、止められぬところまで、来ている)


 ベルゲンは——冷たい汗を、感じた。


 一度、民が疑問を抱けば——その流れは、もはや堰き止められぬ。


 いったん広まった文字も、知恵も——もはや、取り上げることなど、できぬ。人々の心に芽生えた疑念は——もはや、消せぬ。


 このままでは——教会の権威は地に落ち、身分の秩序は崩れ。千年守り抜いてきたこの世界が——音を立てて、瓦解する。


(——許されることか。——そんなことが)


*


 ベルゲンにとって、これは——保身の話では、なかった。


 彼は——心の底から、信じていた。この千年の秩序こそが——正しい、と。


 身分があるからこそ、世は乱れぬ。卑しき者が分をわきまえるからこそ、国は治まる。それを守ることこそ——女神の御心であり、己の使命なのだと。


 その信念に——一片の揺らぎも、なかった。


(——秩序を乱す者は——女神への反逆者。——断じて、許さぬ)


 たとえどれほどの犠牲を払おうとも、この秩序は——守り抜かねば、ならぬ。それが——彼の揺るぎない信念、だった。


*


「……誰だ」


 ベルゲンは——低く、呟いた。


「この流れを——作り出した者は」


 彼は——すでに、調べ上げていた。


 あの紙。——それを生み出し、王都に広めた者。改革派の神官どもと通じ、民に知恵を与え——秩序を揺るがす元凶。


 アステリア商会。——その若き主。


「ルキウス・フォン・アーデルハイト……」


 ベルゲンの口から——その名が、漏れた。


 辺境伯家の三男。——一見、ただの商人。だが——あの紙を世に出し、改革派と結び——着実に、この国の土台を、掘り崩している。


(——あの男が、元凶か)


*


 ベルゲンは——目を、細めた。


 これまで、幾度も商会には圧力をかけてきた。だが——あの男は、巧妙に、法の内側をすり抜け——尻尾を、掴ませぬ。


 表立って罪に問うことは、難しい。ならば。


(——手段を、選んでは、おられぬ)


 ベルゲンの目に——昏い光が、宿った。


 千年の秩序を守るためなら、どんな手も使う。それが——女神に仕える者の、務め。


 彼は——静かに、手を打ち鳴らした。


 音もなく——一人の男が、闇の中から現れる。気配のない——影のような男。——ベルゲンが長年飼ってきた、暗殺者だった。


*


「……仕事だ」


 ベルゲンは——低く、命じた。


「アステリア商会の主。——ルキウス・フォン・アーデルハイト。——消せ」


 影の男は——無言で、頭を垂れた。


「ただし——事故に、見せかけよ。不審を抱かれては、ならぬ。あの男は——辺境伯家の係累。あからさまな暗殺と知れれば——厄介なことに、なる」


「……承知」


 影の男は——それだけ言うと、再び闇に溶けた。


 残されたベルゲンは——一人。握りしめた報告書を——暖炉の火に、くべた。


 ぱち、ぱち、と——紙が燃える。あの忌々しい商会の名が——炎の中で、黒く縮れていく。


(——燃えて、しまえ)


*


 炎を見つめながら、ベルゲンは——思った。


 この火のように。——あの男も、あの紙も——すべて、消えてなくなれば、いい。


 そうすれば、また——秩序は元通りになる。千年続いた、この静かな世界が——保たれる。


(——案ずるな、女神よ)


 ベルゲンは——炎に向かって、祈るように呟いた。


(——あなたの秩序は、このベルゲンが——必ずや、守り抜いてみせる)


 暖炉の炎が——彼の皺深い顔を、赤々と照らし出す。


 その瞳の奥には——狂気にも似た、確固たる信念が——燃えていた。


 千年の秩序を守る、というそのためなら——彼は、いかなる罪をも、厭わぬ。


 こうして——闇は、静かに、動き始めた。


 ルキウスのもとへと忍び寄る——一つの影と、なって。

 

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