第84話 揺らぐ千年の秩序
大神官ベルゲンは——苛立っていた。
大神殿の最奥。——豪奢な私室で、彼は——一通の、報告書を、握りしめていた。
密偵からの、報せ。そこに記されていたのは——あの商会の、目覚ましい躍進ぶりだった。
安価な紙が、王都の隅々まで行き渡り——子どもまでもが、文字を覚え始めている。かつて、一部の者だけのものだった「知」が——今や、民の手に、こぼれ落ちつつある。
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千年。——この国の秩序は、盤石だった。
女神アステリアの名のもとに、身分は定められ——貴き者は貴く、卑しき者は卑しく。それが世の理。——女神の定めた秩序。
そう教え込み、民を従わせてきた。聖典は——高価な羊皮紙にのみ記され、教会が厳重に管理する。民は、自ら読むことができぬゆえ——教会の説くことを、ただ信じるほかは、なかった。
それでこそ、秩序は保たれた。羊は——羊であればよい。——余計な知恵など、つけさせてはならぬ。
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——だが。今、どうだ。
あの忌々しい紙のせいで、民が文字を覚え。書物を読み、互いに考えを、交わし始めている。
「なぜ、生まれだけで——人の値打ちが、決まるのか」
「今のやり方は、おかしいのでは、ないか」
そんな声が——王都のあちこちで、囁かれ始めている。改革派の神官どもも、それに、勢いづいて——教会の内から、声を、上げ始めた。
ベルゲンは——奥歯を、噛みしめた。
羊どもが、自分の頭で考え始めている。それは——千年、彼が——最も恐れてきたこと、だった。
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(——もう、止められぬところまで、来ている)
ベルゲンは——冷たい汗を、感じた。
一度、民が疑問を抱けば——その流れは、もはや堰き止められぬ。
いったん広まった文字も、知恵も——もはや、取り上げることなど、できぬ。人々の心に芽生えた疑念は——もはや、消せぬ。
このままでは——教会の権威は地に落ち、身分の秩序は崩れ。千年守り抜いてきたこの世界が——音を立てて、瓦解する。
(——許されることか。——そんなことが)
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ベルゲンにとって、これは——保身の話では、なかった。
彼は——心の底から、信じていた。この千年の秩序こそが——正しい、と。
身分があるからこそ、世は乱れぬ。卑しき者が分をわきまえるからこそ、国は治まる。それを守ることこそ——女神の御心であり、己の使命なのだと。
その信念に——一片の揺らぎも、なかった。
(——秩序を乱す者は——女神への反逆者。——断じて、許さぬ)
たとえどれほどの犠牲を払おうとも、この秩序は——守り抜かねば、ならぬ。それが——彼の揺るぎない信念、だった。
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「……誰だ」
ベルゲンは——低く、呟いた。
「この流れを——作り出した者は」
彼は——すでに、調べ上げていた。
あの紙。——それを生み出し、王都に広めた者。改革派の神官どもと通じ、民に知恵を与え——秩序を揺るがす元凶。
アステリア商会。——その若き主。
「ルキウス・フォン・アーデルハイト……」
ベルゲンの口から——その名が、漏れた。
辺境伯家の三男。——一見、ただの商人。だが——あの紙を世に出し、改革派と結び——着実に、この国の土台を、掘り崩している。
(——あの男が、元凶か)
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ベルゲンは——目を、細めた。
これまで、幾度も商会には圧力をかけてきた。だが——あの男は、巧妙に、法の内側をすり抜け——尻尾を、掴ませぬ。
表立って罪に問うことは、難しい。ならば。
(——手段を、選んでは、おられぬ)
ベルゲンの目に——昏い光が、宿った。
千年の秩序を守るためなら、どんな手も使う。それが——女神に仕える者の、務め。
彼は——静かに、手を打ち鳴らした。
音もなく——一人の男が、闇の中から現れる。気配のない——影のような男。——ベルゲンが長年飼ってきた、暗殺者だった。
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「……仕事だ」
ベルゲンは——低く、命じた。
「アステリア商会の主。——ルキウス・フォン・アーデルハイト。——消せ」
影の男は——無言で、頭を垂れた。
「ただし——事故に、見せかけよ。不審を抱かれては、ならぬ。あの男は——辺境伯家の係累。あからさまな暗殺と知れれば——厄介なことに、なる」
「……承知」
影の男は——それだけ言うと、再び闇に溶けた。
残されたベルゲンは——一人。握りしめた報告書を——暖炉の火に、くべた。
ぱち、ぱち、と——紙が燃える。あの忌々しい商会の名が——炎の中で、黒く縮れていく。
(——燃えて、しまえ)
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炎を見つめながら、ベルゲンは——思った。
この火のように。——あの男も、あの紙も——すべて、消えてなくなれば、いい。
そうすれば、また——秩序は元通りになる。千年続いた、この静かな世界が——保たれる。
(——案ずるな、女神よ)
ベルゲンは——炎に向かって、祈るように呟いた。
(——あなたの秩序は、このベルゲンが——必ずや、守り抜いてみせる)
暖炉の炎が——彼の皺深い顔を、赤々と照らし出す。
その瞳の奥には——狂気にも似た、確固たる信念が——燃えていた。
千年の秩序を守る、というそのためなら——彼は、いかなる罪をも、厭わぬ。
こうして——闇は、静かに、動き始めた。
ルキウスのもとへと忍び寄る——一つの影と、なって。




