第80話 氷の、その奥に
フィーの出自のこと。それは——重い秘密だった。
軽々しく誰にも話せない。だからこそワタシとクラリスティアは、たびたび二人で額を突き合わせ、どうすべきかを話し合うことになった。
*
その夜も、人払いをした商会の一室で、ワタシたちは向かい合っていた。
「執事の証言だけでは——確証には、ならないわ」
クラリスティアは——思案顔で、言った。
「銀色の髪。年頃。見つからなかった遺体。——状況は揃っている。でも、それを決定づけるものが——まだ、ない」
「ああ」
ワタシも、頷いた。
「焦ってフィーに告げて、もし間違いだったら——あの子を、いたずらに傷つけるだけだ。かといって、本当だとしたら——あの子には、知る権利が、ある」
難しい問題だった。二人でいくら話しても、答えは簡単には出なかった。
*
「……ねえ、ルキウス」
ふと——クラリスティアが、口を開いた。
「あなたは、本当に——お人好し、ね」
「え?」
「フィーのこと、こんなにも真剣に考えて——あの子の幸せを、第一にしている」
クラリスティアは——わずかに、微笑んだ。
「あなたは、いつもそう。誰かのために必死になる。——自分のことは、後回しにして」
その言葉には、どこか温かな響きが、あった。
「……そんな、ことは」
ワタシが言いかけると、クラリスティアは——首を振った。
「いいえ。——わたくしは、知っているわ。あなたが、どれほど——仲間のことを、大切に思っているか。——だからこそ」
彼女は少し、言葉を切った。
「だからこそ——わたくしも、あなたに——力を貸したいと、思うの」
*
ワタシは、クラリスティアを見た。
いつもは「氷のバラ」と呼ばれる、凛として隙のない彼女。けれど今、その瞳には——柔らかな光が、宿っていた。
「クラリスティアさん」
ワタシは、言った。
「あなたがいてくれて、本当に心強いよ。フィーのことも、王のことも——あなたなしでは、ここまで——来られなかった」
その、瞬間。
クラリスティアの、頬が。——ほんのり、と。——赤く、染まった。
彼女は——慌てたように、視線を逸らした。
「……そ、そういうことを、さらりと——言わないで、ちょうだい」
「え?」
「あなたは、自覚がないから——困るのよ」
彼女は扇で口元を隠した。けれど、その耳が赤いのは——隠せていなかった。
*
(——あれ?)
ワタシは——内心、首を傾げた。
いつも冷静で、何事にも動じないクラリスティア。そんな彼女が今は、妙にうろたえている。
まるで、氷の仮面の奥に——別の顔が、あるかのように。
以前にも、こんなことがあった気がする。卒業の日、別れ際。彼女は何かを言いかけて、飲み込んだ。あの時の切なげな表情。
(——もしかして)
ワタシの胸が、かすかに——騒いだ。
*
「……クラリスティアさん、は」
ワタシは——おそるおそる、尋ねた。
「どうして、そこまで——ワタシたちに、力を貸してくれるんですか」
それは、純粋な疑問だった。
彼女は侯爵令嬢だ。危険な活動に関わる義理は、本当はない。なのに、いつも身を削って協力してくれる。
クラリスティアは——しばらく、黙っていた。
やがて——ぽつり、と。言った。
「……最初は、理想のためだった。奴隷制のない世界。——それを、あなたが目指していると知って——共感、したから」
彼女は一度、言葉を切った。
「でも、今は——少し、違うのかも、しれない」
「違う?」
「……理想だけでは、ないのよ。きっと——もう」
その声は、とても小さくて——でも、確かに、ワタシの耳に——届いた。
*
クラリスティアは——顔を、上げた。
その瞳が——まっすぐ、ワタシを——捉えた。
「ルキウス。——わたくしは」
言いかけて、彼女は、ふと口をつぐんだ。
まるで——崖の際で、足を止めるように。
「……いいえ、なんでも、ないわ」
彼女は——小さく、首を振った。
「今は、フィーのこと、王のこと。やるべきことが——山積み、だもの。——こんな話をしている場合では、ないわね」
その横顔は、少し寂しげで——でも、どこか——晴れやかでも、あった。
ワタシは、その時、はっきりと悟った。
クラリスティアの氷の仮面の奥に、ワタシへの確かな想いが——あることを。
(——ワタシは)
*
そして、ワタシ自身の心にも問いかけてみた。
クラリスティアのことを——どう思っているのか。
同志。かけがえのない協力者、尊敬する相手。——けれど、その言葉だけでは——足りない。何かが、確かに——あった。
フィーへの想いとも、また違う。大人びた、けれど——同じくらい、温かな、何か。
ワタシの心には今、二つの灯が、ともっている。
そのどちらも、偽りではない。どちらも——大切で、かけがえが、ない。
この気持ちに、どう向き合えばいいのか。——ワタシには、まだ——わからなかった。
*
「……さあ」
クラリスティアが。——いつもの、調子に。——戻って、言った。
「感傷は、ここまで。フィーのことを、どう進めるか——続きを、考えましょう」
「……ああ。——そうだね」
ワタシたちは再び、話し合いに戻った。
けれど、さっきまでとは——少し、空気が——変わっていた。
二人の間に、言葉にできない、温かな何かが——流れている。
氷のバラ。——その凛とした美しさの奥に、こんなにも——優しく、一途な想いが——隠れていた、なんて。
ワタシは、その想いに、いつかきちんと応えなければならない。
フィーへの想いも、クラリスティアへの想いも、どちらも——大切にしながら。
その答えを、ワタシは——まだ、探している。
でも、今は——目の前のことを、一つずつ、彼女と——共に。
窓の外では、夜空に一輪の月が。氷のバラのように——凛と、美しく、輝いていた。




