第9話 好きなもの、なんですか
少女が、屋敷に来て、数日が過ぎた。
まず最初に変わったのは、見た目だった。
母とセリアが、よってたかって世話を焼いた結果、汚れて、もつれていた銀の髪は、丁寧に梳かれ、洗われ、見違えるほど、艶やかになった。痩せた体には、まだ肉がついていないけれど、清潔な服を着せられ、毎日きちんと食べさせられて、頬の色は、少しずつ、ましになってきている。
こうして見ると、本当に、綺麗な子だった。
——ただ。
中身は、まだ、何も、変わっていなかった。
「フィー、おはよう」
ワタシが声をかけると、彼女は、ぺこりと頭を下げる。
「……おはよう、ございます」
仮の名は、「フィー」にした。あの奴隷市場で鑑定したとき、彼女の名前は靄に覆われて、ほとんど読み取れなかった。ただ一つ、かろうじて掬えた断片——「フィ」という響き。それを手がかりに、そう呼ぶことにしたのだ。本当の名前がわからない以上、何かで呼ばないと不便だから、と、周りには説明して。本当は——「名無し」のままにしておくのが、嫌だったからだ。彼女には、彼女を呼ぶ、ちゃんとした音が、必要だと思った。
あの「フィ」が、いったい何の名残なのか。それは、ワタシにも、わからない。けれど——まったくの、でたらめではない。彼女の中に、確かに、あった響き。そう思うと、この名は、ただの仮の名以上のものに、思えた。
でも、フィーは、その名を、まだ、自分のものだとは、思っていないようだった。呼ばれれば、反応する。けれど、それは、犬が「待て」に反応するのと、たぶん、そう変わらない。
彼女は、命じられたことだけを、する。
「掃除をして」と言えば、掃除をする。「休んでいいよ」と言えば、休む。けれど、何も命じないでいると、彼女は、ただ、部屋の隅に座って、じっとしている。何時間でも。自分から、何かをすることが、ない。
それが、ワタシには、いちばん、こたえた。
*
「フィーは、何が、好き?」
ある日の午後、ワタシは、思い切って、訊いてみた。
庭の、陽だまり。フィーを連れ出して、芝生に座らせて。穏やかな風が吹く、いい日だった。こういう日なら、少しは、心がほどけるかもしれない、と思って。
「好きな、食べ物でも、いいよ。好きな色とか、好きな遊びとか。なんでも」
フィーは、しばらく、黙っていた。
薄紫の瞳が、ゆっくりと、ワタシを見た。それから、困ったように、ほんの少し、視線を、落とした。
「……わかり、ません」
ああ、やっぱり、と思った。
「ごめん。難しかったね」
「……申し訳、ありません。ご主人さまの、お役に立てず」
「役とか、そういうのじゃ、ないんだ」
ワタシは、できるだけ、優しく、言った。
「ワタシは、ただ、君の好きなものが、知りたかっただけ。役に立つとか、立たないとか、関係なく。——君が、何を好きか。それを、知りたかった」
フィーは、不思議そうに、ワタシを見た。
「役に立たないこと」を、訊かれたのが。たぶん、初めてだったのだろう。
彼女の世界には、ずっと、命令と、服従しか、なかった。役に立つか、立たないか。それだけが、彼女の価値の、すべてだった。だから——「好きなもの」なんていう、何の役にも立たない問いを、どう受け止めればいいのか、わからないのだ。
(——奪われたんだな)
ワタシは、静かに、思った。
この子は、「好き」を、奪われた。「嫌い」も、「嬉しい」も、「悲しい」も。心が動くことの、すべてを。生きるために、感じることを、やめさせられた。
それは——たぶん、鎖よりも、ずっと、残酷なことだった。
*
とはいえ。
悪いことばかりでは、なかった。
屋敷の人々は、思いのほか、あたたかく、フィーを迎えてくれた。
母は、毎日、フィーの髪を梳かしながら、とりとめのない話を、聞かせている。フィーは返事をしないけれど、母は気にせず、一人で、楽しそうに、喋り続ける。「あらこの子、髪がほんとに綺麗ねえ」「今日のお夕食はね、シチューよ」と。
姉セリアは、フィーに、刺繍を教えようとして——フィーが針も糸も、初めて触るとわかると、「じゃあ、一緒に、いちから、やりましょう!」と、張り切っている。
厨房のトマ——あの、調香の才能を見出した少年は、フィーに、こっそり、焼き菓子を、分けてくれた。「お、おれも、この家に来たばっかの頃、心細かったから」と、もごもご言いながら。
次兄レオは、相変わらず、つっけんどんだったけれど。フィーが廊下で、大きな犬におびえて、固まっていた時、何も言わずに、犬を追い払ってくれたのは、レオだった。
みんな、不器用に。でも、それぞれのやり方で、この、心を閉ざした少女に、手を、伸ばしてくれていた。
(——いい人たちだ)
ワタシは、それを見るたびに、胸が、あたたかくなった。
そして、同時に、思うのだ。
(——だからこそ)
この、あたたかい家の中でさえ。
フィーの首には、まだ、隷紋が、ある。
彼女が、ここで笑っても、ここで泣いても。彼女は、法的には、ワタシの「持ち物」だ。ワタシが命じれば、逆らえない。ワタシが手放せば、また、どこかへ、売られる。
彼女の心が、たとえ、これから、少しずつ、戻ってきたとしても。
その心は、まだ、鎖に、つながれたままなのだ。
(——それは、違う)
ワタシは、思った。
ワタシは、フィーに、「自由」を、あげたい。
ワタシの持ち物としてでは、なく。誰かの命令に、従う道具としてでも、なく。
フィー自身の、足で、立って。フィー自身の、心で、「好き」と、言える。そういう、自由を。
——そのためには。
あの、隷紋を、消さなくては、ならない。
*
その夜。
ワタシは、一人、自分の部屋で、机に向かっていた。
広げているのは、この数年こっそり集めてきた、隷紋に関する資料の数々だ。とはいえ、そこに書かれていることは、どれも似たり寄ったりだった。
——隷紋は、一度刻まれれば、二度と消せない。ただし、最初にその術を施した者ならば、あるいは解除できるやもしれぬ。
書物が語るのは、せいぜい、そこまで。当然だ。この世界で、隷紋を解いた者など、ただの一人も、いないのだから。解き方など、どこにも、書かれているはずがない。
(——だが。理論上は、できるはずなんだ)
ワタシは、書物の記述を手がかりに、そこから先を、独りで考え抜いてきた。街で見かける奴隷を、遠くから鑑定しては、その隷紋の構造を、目に焼きつけて。頭の中で、何度も、何度も、解除の理屈を、組み立てて。——誰も、たどり着いたことのない道を、机上で、描き続けてきた。
だが——それは、あくまで、頭の中だけの話。
実際に、隷紋に手を触れ、その波長をいじるには。まず、その奴隷が、自分のものでなければ、ならない。他人の奴隷を、勝手に、いじるわけにはいかないのだ。
そして今——ワタシは、初めて。その「自分の奴隷」を、手にしている。
所有権だけなら、もう、ワタシのものだ。フィーを「買った」のだから。けれど、それは、鎖の持ち手が、ワタシに移っただけ。鎖そのものは、まだ、外れていない。
そして、ワタシは、鑑定を通じて、その先を掴んでいた。——隷紋は、それを刻んだ術師の波長でしか、解けない。主人が何度替わろうと、紋の奥には、最初に刻んだ者の「署名」のような波長が、残り続けている。だからこそ、世間では、一度奴隷になった者が完全に自由になることなど、ありえないとされている。それが、この世界の、揺るがぬ常識だった。
(——でも、ワタシなら)
ワタシの、鑑定と、波長制御の技術なら。
鑑定で、隷紋の構造を読み解き、「鍵穴」の在りかを、突き止める。そして——その鍵穴に合う「鍵」、つまり、刻んだ術師の波長そのものを。自分の魔力波長を、髪一本ぶんずつ変えながら、手探りで、逆算し、合わせていく。
刻んだ術師に、なりすます。主人にではなく、紋を作った者に。
そうして初めて、本来解けないはずの隷紋を——解除できる。
理論は、頭の中にある。何度も、組み立てた。
でも。
(——失敗したら)
ワタシはぐっと、ペンを握りしめた。
脳裏をよぎるのは、あの書物にあった、一つの記述だった。——遠い昔、隷紋の解除を試みた者がいた。だが、その術は、失敗に終わった。暴走した隷紋は、刻まれていた奴隷の体を、内側から蝕み——その者は、程なくして、息絶えた、と。
解除は、繊細な魔力の作業だ。ほんの少しでも波長を読み違えれば、隷紋は、猛る。そして、その牙は——術者ではなく、刻まれた本人へと、向かうのだ。
つまり。
もし、ワタシが、失敗すれば。
フィーが、死ぬ。
ワタシのせいで。ワタシの、手で。
(——っ)
ペンを持つ手が、わずかに、震えた。
救いたくて、連れ帰った子を。自由にしたくて、挑んだことで。殺してしまうかもしれない。
そんな、恐怖。
ワタシは、ただの、普通の人間だ。誰かの命を、その手に、預かったことなんて、一度も、ない。前世でも。この世界でも。
怖い。正直に言えば、怖くて、たまらない。
——でも。
ワタシは、窓の外の、星を、見上げた。
(——アステリア。ワタシ、やるよ)
怖くても。震えても。
この子を、本当の意味で、自由にできるのは。
今、この世界で、ワタシ、ただ一人だけ、なのだから。
ワタシは、静かに、資料を、閉じた。
決意は、固まった。
明日では、ない。もう少し、準備がいる。万全の、状態で、挑む。一度きりの、しくじれない、勝負だ。
それでも——その日は、もう、すぐ、そこまで、来ていた。




