第10話 はじめての、解除
その夜を、ワタシは選んだ。
月のない、静かな夜。屋敷の者はみな寝静まり、見回りのセバスにだけは、それとなく、近づかないよう頼んであった。あの執事は、何も訊かずに、ただ頷いてくれた。
ワタシの部屋に、フィーを、呼んだ。
ろうそくの灯りの中、フィーは、いつものように、何も訊かず、ただ、ぽつんと、立っている。これから何が起きるのか、想像もしていない様子で。
ワタシは、彼女の前に、椅子を置いて、座らせた。そして、自分も、向かい合って、腰を下ろす。
言わなければ、ならないことが、あった。
「フィー。——よく、聞いて」
ワタシは、できるだけ、静かな声で、切り出した。
「今から、ワタシは、君の首の、隷紋を、消す」
フィーの、薄紫の瞳が、わずかに、ワタシを見た。
「隷紋がなくなれば、君は、もう、誰の奴隷でもなくなる。ワタシの命令にも、従わなくていい。——本当の意味で、自由になる」
「…………」
フィーは、答えない。
たぶん、「自由」という言葉の意味が、うまく、入ってこないのだろう。彼女の世界には、ずっと、なかった言葉だから。
ワタシは、続けた。一番、大事なことを。
「でも——これは、危険なことなんだ」
ワタシは、フィーの目を、まっすぐ見て、言った。ごまかしては、いけないと思った。
「失敗したら、君は、死ぬかもしれない。隷紋を消すっていうのは、それくらい、危ないことなんだ。——だから」
ワタシは、一度、言葉を切って。
「君が、嫌なら、やめる。無理には、しない。君が、決めていい」
——本当は。
隷紋がある限り、ワタシが「やる」と言えば、フィーは、逆らえない。命じてしまえば、それで、済む話だ。
でも、それでは、意味がない。
彼女の、自由を、取り戻すための行いを。彼女の意思を、無視して、命令で、始めるなんて。そんなのは、間違っている。
だから、ワタシは、待った。
彼女自身の、答えを。
フィーは、長いあいだ、黙っていた。ろうそくの炎が、ゆらゆらと、揺れる。
やがて——彼女の、唇が、動いた。
「……どうして」
かすれた、小さな声。
「どうして、ご主人さまは……わたしなんかに、そこまで、してくださるの、ですか」
それは、フィーが、初めて、自分から、口にした、問いだった。
「命令、すれば、いいのに。わたしは、逆らえない、のに。どうして……わざわざ、わたしに、訊くの、ですか」
(——ああ)
ワタシの、胸が、熱くなった。
訊いてくれた。この子が。「どうして」と。
それは——彼女の心が、ほんの少しだけ、動いた、証だった。命令を待つだけだった少女が、初めて、ワタシに、問いを、返した。
「——君が、君だからだよ」
ワタシは、言った。
「君は、物じゃない。命令を聞く、道具でもない。ちゃんと、心のある、一人の人間だ。だから、君のことは、君が、決めるべきなんだ。——たとえ、今は、それが、うまくできなくても」
フィーの瞳が、揺れた。大きく。
その奥で、何かが——長いあいだ、凍りついていた何かが、かすかに、軋むような。
彼女は、ゆっくりと、ゆっくりと、口を、開いて。
「…………おねがい、します」
消え入りそうな、けれど、確かな声で、言った。
「わたしを——自由に、してください」
(——っ)
それは、フィーが、生まれて初めて、自分の意思で、口にした、願いだった。
ワタシは、深く、頷いた。
「——うん。まかせて」
*
フィーの、首筋に。
隷紋は、あった。
黒い、いびつな紋様。肌に焼き付けられた、鎖の、しるし。
ワタシは、そっと、そこに、指を、近づけた。そして——鑑定の、目を、開く。
ぶわっ、と、隷紋の、内部構造が、視界に、展開した。
(——これが、設計図)
複雑に、絡み合った、術式の、層。幾重にも、編まれた、魔力の、回路。その奥に——あった。
作成者の、波長を、受け止める、ただ一つの、「鍵穴」。
(——見えた。あそこだ)
でも、鍵穴が、見えただけ。そこに差し込む「鍵」——この紋を刻んだ術師の、波長そのものは、鑑定には、映らない。文字にも、形にも、ならない。それは、術師の、指紋のような、固有の、癖。
自分で、合わせるしか、ない。
(——ここからが、本番だ)
ワタシは、ふう、と、長く、息を吐いた。
そして、自分の、魔力の波長を——変え始めた。
髪の毛、一本ぶん。
その、さらに、何分の一、ずつ。
ほんの、わずかに。鍵穴の、形に、寄せていく。手探りで。指先の、感覚だけを、頼りに。
(——違う。もっと、低く)
ぴり、と、隷紋が、反応する。合っていない波長に、紋が、ざわりと、警戒するように、震える。
(——っ、刺激するな。そっと。そっと、だ)
冷や汗が、こめかみを、伝った。
わずかでも、間違えれば。乱暴に、こじ開けようとすれば。隷紋は、暴走する。そうなれば、フィーの命が——
ワタシは、その想像を、ぐっと、振り払った。
(——集中しろ。今は、波長だけを、視ろ)
もう一度。慎重に。魔力の波長を、撚り合わせるように、整えていく。
鍵穴の、縁を、なぞるように。少しずつ、少しずつ、当たりを、探る。
(——もう少し。ここを、こう……いや、ほんの、わずかに、上)
時間の感覚が、消えた。
どれくらい、そうしていたか。一刻か、二刻か。指先は、痺れ、背中は、汗で、びっしょりだった。
それでも、ワタシは、やめなかった。やめられなかった。この子が——「おねがいします」と、自分の意思で、言ってくれた。その願いを、ワタシは、絶対に、叶える。
そして——
かちり、と。
ワタシの、魔力波長が。
鍵穴に、ぴたりと——嵌まった。
(——合った!)
その、瞬間。
ずっと、ワタシの侵入を、警戒していた、隷紋が。
ふっ、と、力を、抜いた。
まるで、長年、固く閉ざしていた扉が、正しい鍵に、ようやく出会って、観念したかのように。
(——今だ)
ワタシは、その、開いた回路に、自分の魔力を、そっと、流し込んだ。
暴れさせない。脅かさない。ただ、静かに。糸を、ほどくように。一本、また一本、編み込まれた術式を、優しく、解いていく。
黒い紋様が。
端から、淡い光に、変わって——
ほどけて、ゆく。
ほろほろと。
まるで、最初から、なかったかのように。
そして。
フィーの、首筋から。
隷紋は——完全に、消えた。
*
しん、と、静まり返った、部屋。
ワタシは、その場に、へなへなと、座り込んだ。全身から、力が、抜けていく。指先が、まだ、痺れている。心臓が、痛いくらい、脈打っている。
でも。
(——できた)
ワタシは、フィーを、見た。
彼女は、きょとんと、した顔で、自分の、首筋に、手を、当てていた。
「……あれ」
ぽつり、と、フィーが、呟いた。
「……からだが……かるい」
彼女は、不思議そうに、何度も、自分の首を、触った。長いあいだ、そこにあった、見えない重しが——魔力の、鎖が、消えたことを。たぶん、体が、先に、気づいたのだ。
そして。
フィーは、ワタシを、見た。
その、薄紫の瞳に。
今までに、なかったものが——宿っていた。
ほんの、わずかな。けれど、確かな。
——光が。
「……ご主人、さま」
「ルキで、いいよ」
ワタシは、疲れた顔で、けれど、精一杯、笑って、言った。
「もう、君の、主人じゃないからね。——ただの、ルキだ」
フィーは、しばらく、ワタシを、見つめて。
それから——ほんの、少しだけ。
ほんの、少しだけ、首を、傾けて。
「……ルキ、さま」
と、呼んだ。
それは、彼女が、初めて。
命令でも、なく。「ご主人さま」でも、なく。
ワタシを、ワタシの名で、呼んだ、瞬間だった。
(——一人)
ワタシは、座り込んだまま、天井を、仰いだ。
目の奥が、じん、と、熱かった。
(——やっと。本当に、一人。手の届く範囲から、一人——救えた)
まだ、たった一人。世界には、何万、何十万という、奴隷が、いる。
でも。
この、たった一人の重みを。この子の首から、確かに、鎖が、消えた、この瞬間の重みを。
ワタシは、一生、忘れないだろうと、思った。




