第11話 あかい、ほうが、いいです
解除の、翌朝。
ワタシは、寝不足の、重い頭を抱えて、目を覚ました。
昨夜は、結局、明け方近くまで、眠れなかった。隷紋を解いた高揚と、安堵と、そして——「やってしまった」という、遅れてやってきた実感とで、頭の中が、ずっと、ぐるぐるしていたからだ。
(——もう、後戻りは、できないな)
ワタシは、王国法を、破った。死刑になっても、おかしくない、大罪を。
でも、不思議と、後悔は、なかった。むしろ、あの、フィーの首から鎖が消えた瞬間を思い出すと、胸の奥が、じんわりと、温かくなる。
(——さて。フィーは、どうしてるかな)
ワタシは、身支度を整えながら、ふと、あることに、思い至った。
(——そうだ。フィーの、首)
昨夜、ワタシは、フィーの隷紋を、消した。——だが、それは、この世界の常識では、絶対に、ありえないことだ。隷紋は、誰にも消せない。それが、この国の、揺るがぬ大前提。
なのに、フィーの首には、もう、隷紋がない。
もし、これを、誰かに見られたら。「なぜ、消えている?」と、怪しまれる。そして、たどっていけば——ワタシが、隷紋を消せるという、最大の秘密に、行き着いてしまう。
(——それだけは、絶対に、まずい)
隷紋が「ある」ことより、「ない」ことのほうが、よほど、危険なのだ。皮肉な、話だけれど。
ワタシは、戸棚から、柔らかい、生成りのスカーフを、選び出した。これを、フィーに渡そう。首元を、隠すように、巻いてもらう。——事情を知らない者の前では、決して、外さないように。
幸い、この家で、フィーの隷紋を消したことを知るのは、ワタシと、セバスだけだ。家族は、誰も、知らない。——だからこそ、なおさら。フィーの首は、隠しておかなければ、ならなかった。
ワタシは、スカーフを手に、フィーにあてがった、客間へと、向かった。
*
客間では、フィーが、ぽつんと、椅子に、座っていた。
「フィー。おはよう。——これ、君に」
ワタシは、持ってきた、生成りのスカーフを、そっと、差し出した。フィーは、きょとんと、それを、見つめる。
「首に、巻いて、おいてほしいんだ。——外では、いつも。人前では、外さないように」
フィーは、こくりと、頷いた。理由も、訊かずに。ただ、ワタシの言うことだからと、素直に、受け取ってくれる。
その、あまりの素直さに。ワタシは、少しだけ、胸が、痛んだ。
(——ごめんな。本当は、君が、悪いわけじゃ、ないのに)
隷紋を消したのは、ワタシだ。なのに、その痕跡を隠すために、フィーが、首を隠して生きなければ、ならない。理不尽な、話だ。
でも——今は、これしか、ない。この首の秘密が、露見すれば。ワタシだけでなく、フィーの、せっかく手にした、この穏やかな日々まで、崩れてしまう。
フィーは、渡されたスカーフを、両手で、大切そうに、握って。それから、ぎこちない手つきで、自分の首元に、巻いてみせた。生成りの布が、あの忌まわしい痕を、そっと、覆い隠す。
「……こう、ですか」
「うん。——よく、似合ってる」
ワタシが言うと、フィーは、ほんの少し、頬を、赤くした。
*
ワタシが、いったん部屋を出て、しばらく、してから。
もう一度、様子を見に、客間へ、戻ろうとした、その時だった。
中から、声が、聞こえる。
姉セリアの、明るい声と——もう一つ、小さな、ためらいがちな声。
「ねえフィー、こっちのリボン、可愛いと思わない? あなたの髪、銀色で綺麗だから、きっと似合うわ! さ、つけてみましょ!」
「……あの」
「ん?」
「…………」
ワタシは、扉の隙間から、そっと、中を、覗いた。
セリアが、フィーの髪に、青いリボンを、結ぼうとしている。首元には、さっき渡した、生成りのスカーフが、きちんと巻かれたままだ。フィーは、椅子に座って、それを、されるがままに——いや。
フィーの手が、ほんの少し、リボンに、伸びかけて。
止まった。
「フィー? どうしたの? 青、嫌だった?」
セリアが、首を、かしげる。
フィーは、うつむいて、しばらく、黙っていた。何かを、ものすごく、迷っているように。膝の上で、両手を、ぎゅっと、握って。
そして。
「…………あかい、ほうが」
消え入りそうな、声で。
「……あかい、ほうが、いい、です」
ワタシは——扉の陰で、息を、呑んだ。
(——今、フィーが)
セリアの手元には、青いリボンと、赤いリボンが、あった。フィーは、その、赤いほうを、見ていた。
「あら! 赤がいいのね! いいわよ、もちろん!」
セリアは、ぱっと、顔を輝かせて、赤いリボンを、手に取った。
「ふふ、フィーったら、初めて、自分から、おねだりしてくれたわね! お姉ちゃん、嬉しい!」
フィーは、自分でも、自分のしたことに、戸惑っているようだった。「おねだり」なんて、したつもりは、ないのに、と言いたげに。けれど、その頬が——ほんの、少しだけ。
赤く、なっていた。
(——好き、を、言えたんだ)
ワタシは、扉の陰で、ぐっと、こみ上げるものを、堪えた。
昨日まで、「好きなものは?」と訊いても、「わかりません」としか、答えられなかった子が。
今、自分で、「赤いほうがいい」と、言った。
たった、それだけ。リボンの、色を、選んだだけ。
でも——それは、フィーが、出会ってから初めて、自分の「好き」を、口にした、瞬間だった。
隷紋という、鎖が、消えて。
彼女の心が、ほんの一センチ、外の世界へ、踏み出した、証だった。
*
「——というわけで、ルキさま。これ、見て、ください」
その日の、昼下がり。
フィーが、ワタシのところへ、やってきた。赤いリボンで、結わえた、銀色の髪を、ちょっとだけ、得意げに。
(——わざわざ、見せに、来てくれた)
これも、昨日までの、フィーには、なかったことだ。自分から、ワタシに、何かを、伝えに来る。それだけで、ワタシは、もう、嬉しくて、たまらなかった。
「うん。すごく、似合ってる。——赤、選んだんだ?」
「……はい。なんだか……赤が、いい気が、して」
フィーは、自分の髪のリボンに、そっと、触れた。
「……変、ですか」
「ううん。全然。——フィーが、いいと思ったなら、それが、正解だよ」
ワタシが、そう言うと。
フィーは、こくん、と、頷いて。
それから——ほんの、少し、考えるように、首を、傾けてから。
「……ルキさま。あの」
「ん?」
「これからは……その。お洋服も、自分で、選んでも……いい、ですか」
(——っ)
ワタシは、思わず、フィーの顔を、見た。
フィーは、おそるおそる、けれど、まっすぐに、ワタシを、見上げている。
「お洋服を、自分で選びたい」。
たった、それだけの、ささやかな、願い。
でも、それは——フィーが、自分の意思で、自分の暮らしを、選ぼうとし始めた、何よりの、しるしだった。
「——もちろん」
ワタシは、大きく、頷いた。
「フィーの服は、フィーが、選ぶ。当たり前だ。何だって、自分で、決めていい。——君は、もう、自由なんだから」
フィーは、ぱちぱちと、瞬きをして。
それから。
ふ、と。
ほんの、わずかに——口元を、ゆるめた。
笑った、とまでは、いかない。けれど、確かに、その表情は、今までの、無表情とは、違っていた。
春先の、固い蕾が、ほんの少しだけ、ほころんだような。
そんな、変化。
(——いつか)
ワタシは、思った。
(——いつか、この子が、声を上げて、笑う日が。来るといいな)
その日まで。ワタシは、何度でも、待とう。一歩ずつ。少しずつ。
*
——と。
ほのぼのと、していた、ワタシだったが。
その夜、セバスから、告げられた一言で、現実に、引き戻された。
「坊っちゃま。一つ、お耳に、入れておくことが」
いつもの、穏やかな声。けれど、その目は、真剣だった。
「あの娘——フィー様の、ことです。近々、王国の、奴隷台帳の、定期確認が、ございます。領内の、奴隷の数と、隷紋の、照合を行う、お役所仕事ですが」
(——奴隷台帳)
ワタシの、背筋が、すっと、冷えた。
「フィー様の隷紋は、もう、ございません。坊っちゃまが、消されましたゆえ。——ですが、台帳には、まだ、『アーデルハイト家所有の奴隷』として、記録が、残っております」
つまり。
台帳には「奴隷がいる」と書いてあるのに、その奴隷の首には、隷紋が、ない。
照合すれば、すぐに、わかってしまう。台帳にあるはずの隷紋が、フィーの首から、消えていることが。——本来、誰にも消せないはずの隷紋が、だ。そんな、ありえないことを、やってのけた者がいる。そして——国に無断で、隷紋に手を出すことは、それがどんな形であれ、重い罪に問われる。露見すれば、ただでは、済まない。
「……どうすれば、いい?」
「ご安心を」
セバスは、ふっと、目を、細めた。
「方法は、ございます。——ただ、それには。坊っちゃまに、少々、込み入ったお話を、させていただく、必要が」
セバスの声が、わずかに、低くなった。
「私の、昔語りに——少しばかり、お付き合い、願えますかな」
(——セバスの、昔語り)
ワタシは、ごくり、と、唾を、飲んだ。
五年前から、ずっと、気になっていた。この、何も訊かず、何も語らない執事が、胸の奥に、抱えているもの。
それが——今、ようやく、語られようとしている。




