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第12話 老いぼれの、昔語り

 その夜、ワタシは、セバスの私室に、招かれた。


 家令の部屋は、思いのほか、質素だった。古い書物が、几帳面に、並べられた棚。磨き込まれた、木の机。壁には、色褪せた、一枚の、風景画。長年、この家に仕えてきた男の、静かな暮らしが、にじむ部屋だった。


「むさ苦しいところで、申し訳ございません。さ、どうぞ」


 セバスは、ワタシに、椅子を勧め、温かいお茶を、淹れてくれた。


 そして、自分も、向かいに腰を下ろすと——しばらく、湯気の立つ、茶器を、見つめていた。


 何かを、語ろうとして。けれど、その言葉を、どこから、切り出すべきか。迷っているような、沈黙だった。


 ワタシは、急かさずに、待った。


 やがて、セバスは、ふう、と、息を吐いて、口を、開いた。


「……坊っちゃま。私には、昔。妹のような、娘が、おりました」



 それは、五十年近くも、前の話だという。


 まだ、セバスが、年若い、見習いの従者だった頃。彼の生まれ育った村に、一人の、流れの少女が、たどり着いた。戦で、家も、家族も、すべてを失い、流民となって、さまよっていた、幼い子。


 村人たちは、よそ者を、嫌った。けれど、年若いセバスだけは、その子を、放っておけなかった。こっそり、食べ物を、分け、寒い夜には、納屋に、かくまった。少女は、次第に、セバスに、なついた。本当の、兄妹のように。


「私は、あの子に、約束したのです。『大丈夫だ。私が、守ってやる』と。——若く、何の力も、なかったくせに。立派なことを、申しました」


 セバスの声は、淡々としていた。けれど、その淡々とした響きが、かえって、こたえた。


 ある日。村に、奴隷商人が、流れてきた。


 彼らは、身寄りのない、流民の少女に、目を、つけた。「こんなよそ者を、置いておくな」という、村の声と、商人の、金とが——少女を、売り渡す方向へと、傾いていった。


「私は、必死に、止めようとしました。あの子を、連れて、逃げようとも、しました。——ですが」


 セバスは、目を、伏せた。


「見習いの、従者でしか、なかった私には。何の、力も、なかった。金も、地位も、人脈も。あの子を、守る、術が——何一つ、なかったのです」


 少女は、商人に、連れて行かれた。


 首に、隷紋を、刻まれて。


 別れ際、少女は、泣きも、わめきも、しなかったという。ただ、振り返って、セバスに、小さく、笑って、見せた。「ありがとう」と、言うように。


「あの、笑顔を」


 セバスの、声が、初めて、わずかに、揺れた。


「私は、五十年、忘れたことが、ございません。——あの子が、その後、どこで、どう生きたのか。生きているのか。それすら、私は、知らないままです」


 部屋に、長い、沈黙が、落ちた。


 ワタシは、何も、言えなかった。


 いつか、鑑定が、視せた、あの一文。「若き日、ある事情により、流民の子を救えなかった過去あり」。その、たった一行の、奥に。こんなにも、長い、五十年もの、後悔が、あったのだ。


「私が、アーデルハイト家に、仕えるように、なったのは。それから、ずっと、後のことです」


 セバスは、お茶を、一口、含んだ。


「忠実に、お仕えしてまいりました。良い、ご一家です。私は、満ち足りておりました。——あの後悔だけを、胸の奥に、しまったまま、静かに、老いていくのだと。そう、思っておりました」


 そして、セバスは、ワタシを、まっすぐ、見た。


「——坊っちゃまが、現れるまでは」



「私は、気づいておりました。ずっと、前から」


 セバスの声に、静かな、熱が、こもり始めた。


「坊っちゃまが、その、お力を、隠しておられること。夜ごと、人知れず、何かに、励んでおられること。そして——奴隷市場で、あの娘を、ただの、気まぐれや、慈悲で、お買いになったのでは、ないことも」


(——やっぱり、見抜かれてたか)


「坊っちゃまは、あの娘の、首の、隷紋を。——消されましたな?」


 ワタシは、息を、呑んだ。


 知られていた。隷紋を、解いたことまで。


 ごまかすことも、できた。けれど——ワタシは、しなかった。この人にだけは、嘘を、つきたくないと、思った。


「……うん」


 ワタシは、頷いた。


「消した。——王国法を、破った。死刑になっても、文句は、言えない。それでも、ワタシは——あの子を、自由にしたかった」


 セバスは、しばらく、ワタシを、見つめていた。


 そして——その、皺だらけの目に。


 うっすらと、光るものが、滲んだ。


「……ああ」


 セバスは、深く、長く、息を、吐いた。まるで、五十年ぶんの、重い荷を、下ろすかのように。


「ようやく。——ようやく、現れて、くださった」


 その声は、震えていた。


「私が、できなかったことを。あの日、力が、なくて、守れなかった、あの子のような子を。——本当に、救おうと、なさる方が」


 セバスは、椅子から、立ち上がると。


 ワタシの前に、片膝を、つき——深々と、頭を、垂れた。老齢の家令が、十二の子どもに対して。臣下が、主君に、誓いを立てるように。


「坊っちゃま。——いえ。ルキウスさま」


「セ、セバス?」


「どうか。この、老いぼれの、残りの生涯を。——あなたさまの、志のために、お使いください」


(——セバス)


「私には、五十年ぶんの、悔いが、ございます。果たせなかった、約束が、ございます。——その、すべてを。あなたさまの、行く道に、捧げとう、ございます」


 ワタシは。


 言葉が、出なかった。


 ただ、立ち上がって、セバスの、皺だらけの手を、両手で、握った。


「……顔を、上げて、セバス」


 ワタシは、精一杯の、声で、言った。


「一人じゃ、何も、できないって。ずっと、思ってた。——でも、君が、いてくれるなら」


 ワタシの、声も、少し、震えていた。


「ワタシは、もっと、遠くまで、行ける気がする。——これからも、ワタシを、支えてくれるか。セバス」


「——是非も、ございません」


 セバスは、顔を上げ、初めて見る、晴れやかな笑みを、浮かべた。



「では、ルキウスさま。さっそく、ですが」


 立ち上がったセバスは、もう、いつもの、有能な家令の顔に、戻っていた。切り替えが、早い。


「奴隷台帳の、件にございます」


「ああ、それだ。隷紋が消えてるのが、ばれたら——」


「ご心配には、及びません」


 セバスは、すらすらと、語り始めた。


「台帳の照合に、立ち会う、隷紋官は、私の、古い知り合いでしてな。融通の利く、人物です。それに——記録の上で、フィー様を、『病で、亡くなった』ことに、すれば。台帳から、抹消できます。死んだ奴隷を、検める者は、おりません」


「——死んだことに?」


「左様。書類の上で、一度、死んでいただく。その上で、フィー様は、アーデルハイト家が、新たに雇い入れた、『自由民の使用人』として、登録し直す。——こうすれば、誰の目にも、ただの、屋敷のメイドにございます」


「——なるほど。じゃあ、家族にも」


「はい。ご家族には、こう、ご説明なさいませ。『あの娘を、不憫に思い、奴隷の身分から、買い上げた。身分は、奴隷のままだが——これからは、家の使用人として、給金を与え、休みも与える。普通の使用人と、同じように雇い、一人の人間として、扱うのだ』と。——坊っちゃまの、お気持ちそのままを、お伝えになれば、よろしいのです」


(——そうか)


 ワタシは、少しだけ、胸が、軽くなった。


 それなら、嘘を、つかなくていい。フィーを、一人の人間として、扱う。——それは、偽りでも、方便でもない。ワタシの、本心そのものだ。役所の台帳の上では、フィーは「死んだ」ことにする。けれど、この家の中では、フィーは、生きた一人の人間として、迎え入れられる。


「でも、セバス。——隷紋は、どうする。この世界じゃ、隷紋は、消せないのが、常識だ。奴隷として雇うにしても、その首を、じっくり見られて——隷紋が、ないと、気づかれたら」


「ですから、坊っちゃま。——あの娘には、常に、首元を、隠していただくのです。あのスカーフを、巻いたままに。人前で、決して、外さぬように」


 セバスは、静かに、続けた。


「幸い、あの娘は、もともと、口数も少なく、控えめな気性。首元を隠していても、慎ましい娘だと、思われるだけ。——誰も、その下に、隷紋がないなどとは、夢にも、思いますまい。この世の誰もが、隷紋は消せぬと、信じておるのですから」


(——なるほど)


 ワタシは、ほっと、息を吐いた。


 隷紋が「ない」ことは、隠し通す。首を、覆い隠して。——皮肉にも、常識が、味方をしてくれる。誰も「隷紋が消えた」なんて、思いつきもしないのだから。


 言われてみれば、今朝も、母も、セリアも、スカーフを巻いたフィーの首元を、不思議がる素振りは、なかった。きっと——「奴隷の子を、坊っちゃまが、可哀想に思って、手元に引き取った」くらいに、受け取っているのだろう。心優しい母たちなら、むしろ、喜びこそすれ。


 ただ、一つ、気がかりが、あった。——ヴィル兄さん、だ。


 母やセリアは、心根が優しいぶん、細かいことは、気にしない。だが、ヴィル兄さんは、違う。生真面目で、聡い。物事の筋が、通っていないと、どうにも、落ち着かない性分だ。


「兄上には、少し、気をつけないと、な」


 ワタシが、呟くと、セバスは、静かに、頷いた。


「左様でございますな。——ですが、ご心配は、無用かと。ヴィル様とて、『主が、奴隷を憐れんで、手元に引き取り、人並みに雇う』という話に、表向き、おかしなところは、ございません。堂々と、その筋で、通されませ。かえって、こそこそすれば、あらぬ、疑いを、招きます」


「……そうだね。うん。——変に、隠し立てせず、堂々と、いくよ」


 隷紋を消したことは、誰にも——兄にも、言わない。ただ、「奴隷を、人として、扱う」という、その一点だけを、まっすぐ、貫いていけばいい。それは、嘘では、ないのだから。


(——なるほど)


 ワタシは、舌を、巻いた。


 書類の上で、一度殺して、別人として、蘇らせる。法の、裏を、かいくぐる、鮮やかな、知恵。ワタシの、魔法の力だけでは、決して、思いつかない、やり方だった。


(——これだ。これが、ワタシに、足りなかったもの)


 ワタシには、力が、ある。でも、世の中の、仕組みや、人と人との、つながりを、使って、立ち回る術は、まだ、なかった。


 セバスには、それが、ある。五十年、この国の、裏も表も、見てきた、知恵が。


(——支え合う、って、こういうことか)


 力と、知恵。若さと、経験。ワタシ一人では、できなかったことが。二人なら、できる。


 それが——たまらなく、心強かった。


「セバス。——ありがとう」


「いいえ。礼を申すのは、こちらのほうで、ございます」


 セバスは、恭しく、一礼して、それから、悪戯っぽく、付け加えた。


「——では、これより。私めも、晴れて、『大罪人』の、仲間入り、ということですな」


「……あはは。なんか、ごめん」


「ふふ。なに。——五十年、待った甲斐が、ございました」


 その夜。


 ワタシの、孤独だった戦いに。


 初めて、確かな、仲間が、加わった。


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