第8話 連れて帰る、ということ
「…………わかり、ません」
それが、少女の最初の言葉だった。
名前を訊いても、「わかりません」。
ワタシはしゃがんだまま、しばらく、その子を見ていた。
名前がない。——いや、たぶん、ある。鑑定が「※鑑定不可※」と弾いた以上、何かに覆い隠されているだけだ。でも本人は、それを自分でも、わからない。
(——名前すら、奪われてるのか)
ワタシはそっと立ち上がった。
「……そっか。じゃあ、それは、これからゆっくり考えよう」
少女は答えない。ただ、ワタシが立ち上がると、つられるように、のろのろと立った。
命令には従う。ワタシがこれまでこっそり調べた限りでは、隷紋を刻まれた奴隷は、主人の意に逆らえない。この子がいまワタシに「ついてくる」のは、心を許したからではなかった。ただ、そういう仕組みだからだ。
それが——たまらなく、嫌だった。
「歩ける? ……無理は、しなくていいから」
「……はい」
感情のない声だった。
ワタシはふう、と息を吐いて、セバスを振り返った。
「セバス。父さんと、待ち合わせの場所に戻ろう」
「……かしこまりました」
セバスは少女を見て、一瞬、何か言いたげに口を開きかけた。けれど結局、何も言わずに、ただ深く頷いた。
*
待ち合わせは、街の中央広場の、大きな噴水の前だった。
所用を終えた父ガイウスは、すでにそこで待っていた。ワタシたちの姿を見つけると、いつもの大きな声で手を振り——そして、ワタシの後ろの少女に気づいて、その手を、止めた。
「……ルキ。その子は?」
ワタシの背に、半分隠れるように立つ、銀髪の少女。痩せて、汚れて、首には、隷紋の痕の残る、奴隷の証。父の表情から、すっと、笑みが引いた。
「……奴隷、か」
「うん。市場で、買いました」
ワタシは、まっすぐ父を見て、答えた。ごまかしても仕方がない。
父は、しばらく無言だった。熊のような体格の、いつも豪快な父が、めずらしく、言葉に詰まっている。怒っているのか、戸惑っているのか、ワタシには読めなかった。
やがて父は、ぼりぼりと頭を掻いて、低く唸った。
「……お前のことだ。何か、考えがあってのことなんだろう。だが、これは——わしの一存じゃ、決められん。屋敷に戻って、皆で話す。それで、いいな?」
「……はい」
(——怒鳴られなかった)
正直、その場で雷を落とされるかと、覚悟していた。でも父は、それをしなかった。ワタシをひとまず信じて、判断を屋敷に持ち帰ろうとしている。
(——この人も、ちゃんと、ワタシを見てくれてるんだな)
ただ、その分。屋敷での話し合いが、楽になるわけではない。それは、ワタシにも、よくわかっていた。
*
帰りの馬車。
少女は、座席の隅に、ちんまりと座っていた。父は御者台の隣で別の馬車。この馬車には、ワタシとセバス、そして少女の三人だけだ。
ワタシが向かいに座っても、隣を勧めても、彼女はただ、言われたとおりにするだけだった。自分から何かをすることはない。窓の外を流れる景色にも、目を向けない。膝の上で小さく両手を揃えて、ただ、じっとしている。
(——どうしたら、いいんだろう)
正直、ワタシは途方に暮れていた。
救いたいと思った。手を伸ばさずにいられなかった。それは本当だ。
でも——「救う」って、具体的に、どうすればいいんだ?
この子は笑わない。喋らない。何も望まない。ワタシが何を言っても、「はい」か「わかりません」しか返ってこない。
心がどこかにしまい込まれて、鍵がかかっている。その鍵がどこにあるのかも、ワタシにはわからない。
(——焦るな)
ワタシは自分に言い聞かせた。
一人ずつ。手の届く範囲から。そして——きっと、心も同じだ。一歩ずつ。少しずつ。
ワタシは座席の下に用意しておいた、小さな紙包みを取り出した。市で買っておいた蜜パンだ。
「……これ、食べる?」
差し出すと、少女はぼんやりと、それを見た。そして。
「……いただいて、いいの、ですか」
「もちろん。君のだよ」
少女はおそるおそる、両手でそれを受け取った。
そして、小さく一口。
もぐ、もぐ、とゆっくり噛んで。
——その時。
ほんの一瞬。
少女の薄紫の瞳が、わずかに、揺れた。
驚きとも戸惑いともつかない、何か。すぐに消えてしまった、けれど。
(——今の)
ワタシの胸が、とくん、と鳴った。
今の目。「検出されず」のはずの感情が——ほんのかけらだけ、覗いた。
ああ、そうか。
この子の心は、消えたんじゃない。
ただ——あまりにも深く、奥にしまわれているだけなんだ。
(——なら)
ワタシは思った。
(——なら、いつか、ちゃんと出てこられるように。ワタシが、そばにいよう)
馬車は辺境への道を、ゆっくりと進んでいく。
少女は蜜パンを最後まで大事そうに食べきって、食べ終わると、また膝の上で両手を揃えて、じっとした。
でも、その横顔は、ほんの少しだけ、さっきよりやわらかく見えた。
——気のせい、かもしれないけれど。
*
そして、問題は、屋敷に帰ってからだった。
父はすでに、市で少女を見ている。だから屋敷では、雷の代わりに——家族全員での、話し合いが、待っていた。
夕刻の、玄関ホール。報せを聞いた家族が、勢ぞろいしている。ワタシの後ろには、少女がぽつんと立っていた。
父ガイウスは腕を組み、難しい顔で唸っている。母エルマは、おろおろとワタシと少女を見比べていた。次兄レオは壁にもたれ、眉をひそめている。姉セリアは、少女の痩せた姿に、はっと口元を押さえた。
そして——たまたま領都の務めから戻っていた長兄ヴィルヘルムが、誰よりも静かな目で、こちらを見ていた。
「……ルキ」
口を開いたのは、そのヴィルだった。
九つ年上の、次期当主。生真面目で、いつも、家のことを、第一に、考えている兄。
「事情を、聞かせてもらえるか。——なぜ、奴隷を買った」
その声は、怒ってはいなかった。むしろ静かで、冷静で。だからこそワタシは、ぴりっと背筋が緊張するのを感じた。
「……可哀想、だったからです」
ワタシは用意しておいた、「平凡な三男」の答えを口にした。
「市場で見かけて。あんまり痩せてて。放っておけなくて」
「情けは、立派だ」
ヴィルは頷いた。けれど。
「だがルキ。我が家は辺境伯家だ。領を預かり、領民を守る立場にある。その家が気まぐれで奴隷を買い、家に置く。それがどう見られるか、考えたことはあるか」
「…………」
「お前が一人を哀れんで救う。その気持ちは否定しない。だが、その行いが家の立場を揺るがし、巡り巡って、領民千人の暮らしを危うくするとしたら。——長兄として、私はそれを見過ごすわけにはいかない」
(——っ)
ワタシは、言葉に詰まった。
ヴィルの言っていることは、間違っていない。むしろ——正しい。
悪意で言っているんじゃない。この人は本気で、家と領を守ろうとしている。その重い責任を、たった一人で背負おうとしている。だからこそ、軽率な真似が許せないんだ。
(——この兄さんは、敵じゃない)
ワタシには、それがわかった。わかってしまった。だから——よけいに、苦しかった。
ここで本当のことは言えない。「この子には星六つの素質がある」とも、「いつか奴隷を解放したい」とも。言えるはずがない。
ワタシはただ、うつむいて——
「……あなた」
その時。ずっとおろおろしていた母エルマが、静かに一歩、前に出た。
「ヴィルの言うことも、もっともだわ。でもね」
母はワタシの後ろの、少女の前にしゃがみこんだ。そして、その汚れた頬に、そっと手を添えた。
「——こんなに痩せて。可哀想に。ねえ、あなた。この子、まずはお風呂と、温かいごはんが要るわ。話は、それから。——ね?」
少女が、びくっと肩を震わせた。
知らない大人の手。けれど、その手は叩くためでも、掴むためでもなかった。ただ優しく、頬に触れただけ。
少女の薄紫の瞳が——また、ほんの少し、揺れた。
(——母さん)
ワタシはその背中を見て、思った。
ああ。この家には、ちゃんと、こういう人がいる。理屈でもなく、立場でもなく。ただ、目の前の痩せた子どもに、手を伸ばせる人が。
「……母上」
ヴィルが、ため息をついた。
「私は、家のことを——」
「わかってるわ、ヴィル。あなたは、いつも、家のことを、第一に、考えてくれる。立派な、長男よ」
母は、振り返って、にっこりと、笑った。
「でもね。今日のところは、母に、任せてちょうだい。——この子の、ごはんくらい、いいでしょう?」
ヴィルはしばらく黙って——やがて、もう一度ため息をついて、目を閉じた。
「……今日は。今日だけ、です」
それだけ言って、踵を返した。
その背中に、ワタシは心の中で、頭を下げた。
(——ありがとう、ヴィル兄さん。それと——ごめん)
この問題は、今日で終わりじゃない。むしろ、始まったばかりだ。
でも今日は——とりあえず、この子に温かいごはんを食べさせられる。
それだけで十分だ、と。ワタシは、そう思うことにした。




