第7話 名前を、まだ持たない少女
いちばん奥の、小さな檻。
その中に、その子は、いた。
銀色の、髪。
光の加減で、淡く、銀に輝く、長い髪。けれど、手入れもされず、汚れて、ぼさぼさに、もつれている。痩せた、体。膝を抱えて、檻の隅に、ちんまりと、座り込んでいる。
歳は——ワタシより、少し、下くらいか。十一か、十くらい。
顔立ちは、整っている。整っているのに。
その顔には、何の、表情も、なかった。
悲しみも、恐れも、諦めすら、ない。
ただ、薄紫の、瞳が、何も映していない、磨りガラスのように、虚空を、見つめていた。
——五年前の、あの子の、目を。
ワタシは、思い出した。
でも、違った。あの子の目は、「諦めた」目だった。この子の目は——もっと、奥が、深い。諦めることすら、もう、忘れてしまったような。感じることを、ずっと昔に、手放してしまったような。
(——なんだ、この子)
ワタシの、足が、動かなかった。
目が、逸らせなかった。
気づけば、ワタシは——そっと、「鑑定」の目を、その子に、向けていた。
*
ぶわっ、と、視界に、文字が、浮かぶ。
——そして、ワタシは、息を、呑んだ。
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名前:※大部分が鑑定不可※(かろうじて読み取れる断片……「フィ」)
種族:人間/年齢:11
魔力:※規格外※(測定不能)
潜在素質:【魔法素質】★★★★★★/【知性】★★★★★
隷紋:所有者登録あり / ※構造に不審点※
感情の傾向:※検出されず※
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(——なんだ、これ)
ワタシの、思考が、ぐらりと、揺れた。
一つ、一つが、おかしい。
まず、名前。「※大部分が鑑定不可※」。——こんなの、初めてだ。ワタシの鑑定は、奴隷だろうと、誰だろうと、名前くらいは、必ず、はっきり視えてきた。なのに、この子の名前は、まるで何かに覆い隠されているように、大部分が靄の向こうに沈んでいる。かろうじて読み取れたのは、ほんの断片——「フィ」という、響きだけ。まるで、それ以外を、何かの力が守り隠しているみたいに。
魔力は、※規格外※。測定不能。ワタシ自身の魔力すら、数値で出るのに。この子のそれは、桁が、振り切れている。
潜在素質。魔法素質、星六つ。——星六つ、なんて、ワタシは、見たことがない。星五つが、最高ランクだと、思っていた。それを、超えている。
そして。
感情の傾向、※検出されず※。
怒りでも、悲しみでも、空白でもない。「検出されない」。まるで、心という機能が、そこに、存在していないかのような。
最後に——隷紋。「構造に不審点」。
(——不審点?)
ワタシは、隷紋について、この数年で、こっそり、調べてきた。奴隷の体に刻まれる、魔法の紋章。所有者への服従を、強制するもの。
でも、この子の隷紋は——ワタシの鑑定が、「何かがおかしい」と、警告している。普通の、出生奴隷や、債務奴隷の、それとは、違う、何かが。
(——この子は、いったい)
わからない。何も、わからない。
わかるのは、ただ一つ。
この子は——「ただの、奴隷の子」では、ない。
誰かが。何かが。この子の、名前を、出自を——覆い隠している。
まるで、この子を、何かから守るように。あるいは——そっと、遠ざけるように。
*
「お目が高い」
しわがれた声に、ワタシは、はっと、我に返った。
いつの間にか、奴隷商人が、すぐ横に、立っていた。脂ぎった顔に、商売用の、笑みを、貼り付けて。
「その娘ですか。へへ、まあ、見てくれだけは、悪くないんですがね」
商人は、檻を、こつこつ、と、叩いた。少女は、ぴくりとも、しない。
「こいつァ、訳あり、でしてね。どこの生まれかも、わからねえ。喋らねえ、笑わねえ、命令にしか、反応しねえ。気味が悪いってんで、買い手も、つかなくて。——だから、安くしときますよ。坊っちゃん、どうです?」
(——安く)
ワタシの、胸の奥で。
何かが、静かに、燃えた。
この子の、星六つの素質も。覆い隠された、名前も。消えた、感情も。
この男は、何一つ、視えていない。視えていないまま、「気味が悪い」「安くしとく」と、値札を、つけている。
(——ふざけるな)
ワタシは、ぐっと、奥歯を、噛んだ。
でも——顔には、出さなかった。出しては、いけない。ここで、ワタシが、この子の価値に、気づいていると、知られたら。値は、跳ね上がる。あるいは、もっと、面倒なことに、なる。
ワタシは、すうっと、息を吸って——「平凡な三男」の、仮面を、かぶり直した。
「……うーん。よく、わかんないけど」
ワタシは、わざと、気のない、子どもの声で、言った。
「なんか、可哀想だから。この子に、します」
「へへっ、毎度あり! いやあ、お優しい坊っちゃんだ!」
(——優しい、か)
ワタシは、心の中で、苦く、笑った。
優しさなんかじゃ、ない。これは——もっと、勝手な、ワタシのエゴだ。
五年前、救えなかった、あの子。
あの、からっぽの目を、ワタシは、まだ、忘れられずにいる。だから——今度こそ、と。手を、伸ばさずには、いられないだけだ。
自分のために。後悔したくない、自分のために。
(——それでも)
ワタシは、檻の中の、少女を、見た。
少女は、相変わらず、何も映さない瞳で、虚空を、見ている。ワタシが、自分を「買った」ことすら、たぶん、わかっていない。何も、期待していない。何も、思っていない。
(——それでも、ワタシは、君を、ここから、出す)
ワタシは、静かに、心の中で、誓った。
*
手続きは、呆気なかった。
ワタシが、こつこつ貯めた小遣いで、足りてしまう。人間、一人の、値段が。それが、また、たまらなく、苦しかった。
檻の、鍵が、開けられる。
商人が、少女の腕を、乱暴に、掴んで、引っ張り出した。少女は、抵抗も、しない。されるがままに、ワタシの、前に、立たされた。
近くで見ると、少女は、本当に、小さくて、痩せていて。今にも、折れそうだった。
「ほら。今日から、こちらの坊っちゃんが、お前のご主人さまだ。せいぜい、可愛がってもらいな」
商人が、げらげらと、笑う。
ワタシは、その笑いを、無視して。
少女の、目の前に、しゃがみこんだ。
彼女と、目の高さを、合わせて。できるだけ、穏やかな、声で。
「……はじめまして」
ワタシは、言った。
少女は、答えない。薄紫の瞳が、ぼんやりと、ワタシを、映した。ただ、それだけ。
「ワタシは、ルキ。——君の、名前は?」
少女の、唇が。
ほんの、わずかに、動いた。
そして、初めて、聞こえた、その声は。
驚くほど、小さくて、かすれていて——感情の、かけらも、なかった。
「…………わかり、ません」




