第6話 五年ぶりの、あの場所へ
「——領都の、大市?」
ある日の昼下がり。父の執務室に呼ばれたワタシは、その話を聞いて、思わず、聞き返した。
「うむ。年に一度の、大きな市が立つ。今年は、わしも、所用で出向くのでな。——どうだ、ルキ。お前も、来るか?」
父ガイウスが、にやりと、笑った。
「お前も、もう十二だ。そろそろ、辺境の外の、広い世界を、見ておくのも、いいだろう」
(——領都の、大市)
ワタシの、胸が、とくん、と、鳴った。
領都。この辺境領で、いちばん大きな街。年に一度の大市ともなれば、近隣から、商人も、人も、物も、どっと集まる。
そして——そういう場所には、必ず。
(——奴隷市場が、ある)
ワタシの、脳裏に、五年前の、あの光景が、よぎった。
鉄の檻。首の鎖。木の、値札。そして——からっぽの、目をした、子ども。
救えなかった、あの子。
ワタシは、ぎゅっと、膝の上で、こぶしを、握った。
あれから、五年。ワタシは、力を、つけた。鑑定も、磨いた。お小遣いも、こっそり、貯めてきた。
まだ、何もかもを、変える力は、ない。
でも——もう、あの頃の、何もできなかった、七歳の自分とは、違う。
「……行きます。父さん。連れて行ってください」
ワタシが、まっすぐ、そう答えると、父は、満足そうに、頷いた。
「うむ! よし、では、セバスも連れて——」
「あ。ワタシ、セバスと、二人で、別行動しても、いいですか?」
「ん?」
「父さんは、お仕事でしょう? ワタシ、ゆっくり、市を、見て回りたくて。セバスがいれば、危なくないし」
(——よし、自然に言えた)
父の仕事に、くっついて回っていては、自由に動けない。セバスとなら——あの、何も詮索しない執事となら、ワタシは、好きなところへ、行ける。
「ふむ。まあ、セバスがおれば、安心か。——よいぞ。ただし、危ないことは、するなよ?」
「しませんしません。ワタシ、平凡な三男なので」
「ぬはは! 違いない!」
(——うん。実に、便利だな。この「平凡」の、肩書き)
*
大市の日。
領都は、すさまじい、賑わいだった。
大通りには、見たこともない品々を並べた露店が、ずらりと連なり、人いきれと、香辛料と、家畜と、揚げ物の匂いが、ごちゃ混ぜになって、押し寄せてくる。あちこちで、商人が、声を、張り上げている。
「さあさあ、南方産の絹だよ! こんな上物、領都じゃ、今日しか拝めないよ!」
「焼きたての、蜜パン! 一個、銅貨三枚!」
石畳の上を、荷車が、がらがらと、行き交う。色とりどりの天幕。吊るされた、干し肉と、香草の束。籠いっぱいの、見たこともない果実。鎧を磨く、武具屋。よく光る、ガラス玉を並べた、露店。客と商人が、値切りの応酬で、火花を散らしている。子どもが、犬と、駆け抜けていく。
「うわ……すごい人。辺境の市と、規模が、全然ちがう」
「左様でございますな。坊っちゃま、はぐれませぬよう」
セバスが、ワタシの歩調に、そっと、合わせてくれる。
ワタシは、しばらく、無邪気に、市を、楽しんだ。——いや、半分は、本当に、楽しかった。
「セバス、見て、あの魔道具! 手をかざすと、勝手に火がつくって!」
「ほう。便利なものですな」
「……うっわ、ぼったくり価格。あれ、術式は、ただの初級の火種だ。中身、原価の十倍は、取ってるよ、あの店」
「……坊っちゃま。それは、声に出されませんよう」
串焼きを齧り、見たこともない魔道具を覗き込み、空中で皿を回す大道芸に、目を丸くする。揚げたての、油の匂い。誰かの弾く、弦楽器の、陽気な調べ。あちこちから、笑い声が、上がっている。
光が、満ちていた。
人々の、暮らしの、音と、匂いと、活気が。
——けれど。
ワタシの、もう半分の、心の片隅は。
ずっと、別のことを、考えていた。
(——この、賑わいの、どこかに)
奴隷市場。
この、明るい光の、すぐ裏側に。きっと、それは、ある。同じ街の、同じ空の下に。人が、品物のように、並べられた場所が。
賑やかな表通りには、それらしきものは、見当たらない。きっと、こういうものは、人目につかない、奥まった場所に、あるはずだ。誰もが、見て見ぬふりを、できるように。
「……セバス」
ワタシは、できるだけ、さりげなく、切り出した。
「この街の——その。奴隷を、売っている場所って、どこにあるか、知ってる?」
セバスの足が、ほんの一瞬、止まった。
そして、ワタシの顔を、静かに、見下ろした。何かを、見極めるような、まなざしで。
「……坊っちゃま。そこへ、行かれるおつもりで?」
「うん」
ワタシは、ごまかさずに、頷いた。この人には、たぶん、ごまかしても、無駄だ。
「見ておきたいんだ。ちゃんと、自分の目で」
セバスは、しばらく、何も言わなかった。
やがて、ふう、と、小さく、息を吐いて。
「……こちらへ」
そう言って、ワタシを、賑わいの、裏手へと、導き始めた。
*
表通りの、喧騒が。
一歩、路地を、奥へ進むごとに。
すうっ、と、遠ざかっていく。
やがて、たどり着いたのは——大通りの、すぐ裏側だとは、信じられないほど、ひっそりとした、一角だった。
空気が、違った。
活気も、笑い声も、揚げ物の匂いも、ここには、ない。あるのは、どんよりと、淀んだ、沈黙。そして、嗅ぎ慣れない、饐えた、匂い。
そこに。
あった。
五年前と、同じ。
いや——もっと、大きな。
鉄の、檻が、いくつも、いくつも、並んでいた。
その中に、大人が、子どもが、老人が。痩せて、汚れて、うずくまり、あるいは、虚ろな目で、宙を、見つめている。首には、太い、鎖。木の、札。
値段が、書かれていた。
ワタシは、ゆっくりと、その、列の前を、歩いた。
手前の檻には、屈強な、男たちが、いた。腕に、戦の傷跡。戦争奴隷、というやつだろうか。彼らは、ワタシのような子どもには、見向きもせず、ただ、地面の一点を、睨みつけていた。その目には、まだ、怒りが、残っていた。
その隣の檻には、若い、女が、いた。膝に、幼い子を、抱いて。子は、眠っているのか、ぐったりと、母の腕に、もたれている。女は、誰かが通るたびに、すがるような目を、向けては——誰も、足を止めないと知ると、また、うつむいた。その繰り返しを、もう、何百回も、してきたような、疲れた仕草で。
(——札に、二人ぶんの値段が、別々に、書いてある)
ワタシは、それに、気づいて——気づいてしまって、目を、逸らした。
親子は、別々に、売られるのだ。ここでは、それが、当たり前なのだ。
奥には、年老いた、男が、いた。痩せこけて、もう、立つ力も、なさそうな。値札には、ほかより、ずっと、安い数字。誰にも、買われないまま、ここで、朽ちていくのを、待っているように、見えた。
そして——子どもたちが、いた。
ワタシと、同じくらいの。あるいは、もっと、幼い。一つの檻に、何人も、押し込められて。みな、同じように、痩せて、同じように、汚れて、同じように——目から、光が、消えかけていた。
五年前に、ワタシが、見た、あの子の目が。
ここには、何人分も、何十人分も、あった。
(——っ)
ワタシは、ぐっと、奥歯を、噛んだ。
知っていた。覚悟も、していた。五年前に、一度、見たはずだった。
なのに——胸の奥が、ざわつくのは、あの時と、少しも、変わらない。
いや。むしろ。
あの時より、もっと、苦しい。
なぜなら、今のワタシには——少しだけ、力が、あるから。少しだけ、できることが、あると、知っているから。だからこそ、この、檻の数の、多さが。救える数の、あまりの、少なさが。
(——重い)
ずん、と、のしかかってくる。
「……ひどいものでございましょう」
セバスが、隣で、静かに、呟いた。その声には、ワタシには、まだ聞き取れない、深い、何かが、滲んでいた。
「坊っちゃま。お辛ければ、いつでも、お戻りに——」
「ううん」
ワタシは、首を、横に振った。
「もう少し、見せて。——ちゃんと、最後まで」
ワタシは、ゆっくりと、檻の、列の間を、歩き始めた。
一つ、一つ。
そこにいる、人々の、顔を。目を。見ながら。
——むやみに、人を視ない。自分に課した、ルール。
でも、ここでは、そのルールを、ワタシは、自分に、許した。
もし、この中に。
もし、たった一人でも。誰にも気づかれず、埋もれている、誰かが、いるのなら。
(——視せてくれ)
ワタシは、そっと、「鑑定」の、目を、開いた。
檻の中を、一つ、また一つ、見つめながら、奥へ。奥へと、進んでいく。
そして——
いちばん、奥の。
ひときわ、ひっそりとした、小さな檻の前で。
ワタシの、足が。
止まった。




