第64話 古き家の面影
卒業して——わたくし、クラリスティアの暮らしは、大きく変わった。
学院という、守られた立場を離れ、一人の貴族として——社交界の只中に、身を置くようになった。
目的は、ただ一つ。改革派の足場を作ること。ルキウスたちの戦いを——貴族の側から、支えるため。
お茶会。夜会。華やかな、けれど、腹の探り合いの絶えない世界。わたくしは、氷の仮面を被り直し、その荒波に——たった一人、漕ぎ出していた。
*
その日。わたくしは、とある老伯爵夫人の邸宅で、開かれた——茶会に、招かれていた。
古い家柄の夫人で——昔の社交界のことを、よく知る人物だった。
話が——ふと、古い貴族の家系のことに及んだ時。
わたくしは——何気なく、問うてみた。
「そういえば——昔、ヴァレンクール公爵家という家が、あったと聞きます。今は——お見かけしませんが」
その瞬間。
和やかだった夫人の表情が——わずかに、こわばった。
*
「……ヴァレンクール、ね」
夫人は、声を潜めた。周りを——気にするように。
「あなたは、まだお若いから——ご存じないでしょうね。ええ。確かに、ありましたよ。それは、それは——栄えた名門でした」
「何が——あったのですか」
「……さあ。——わたくしにも、よくはわからないの」
夫人は——言葉を濁した。
「ある時——突然でした。表向きは——ご当主さまと奥方さまが、馬車の事故で亡くなられた、と。……けれど、おかしいのです。同じ夜のうちに、お屋敷の方々まで。お仕えの者まで、みな——亡くなられた、というのですから」
「一夜のうちに……?」
わたくしは——息を、呑んだ。
「ええ。まるで、何かに、薙ぎ払われたように。——馬車の事故で、そんなことが起こるはずも、ないでしょうに。そして——その後。ヴァレンクール家のことは。まるで——最初からなかったかのように、歴史から——消されてしまった。誰も、語らない。語ることを——許されない、かのように」
夫人の目に——影が差した。
「ふしぎなこと、でしょう。——あれほどの名門が、一夜にして、絶えてしまう、なんて。……いえ。これ以上は、よしましょう。古い話だわ。それに——うかつに口にするものでは、ないの。この、お話は」
夫人は——それきり、口を閉ざした。
まるで——触れてはならないことに、触れてしまったかのように。
*
(——一夜にして、一族そろって)
わたくしは——胸の中で、その言葉を反芻した。
表向きは、馬車の事故。けれど、同じ夜に、屋敷の者まで、みな亡くなった。そして、その死は——語られることもなく、歴史から消された。
貴族の家が没落することは、ある。だが、一族が一夜で絶え、その真相が、これほど徹底的に伏せられるというのは——尋常では、ない。
いったい——何が、あったのか。
そして、なぜ、夫人は、あれほど——口をつぐんだのか。「うかつに口にするものではない」と。まるで——今なお、その名を語ることが——危険であるかのように。
(——気に、なるわ)
*
その帰り道。
わたくしは、ふと、あることを——思い出していた。
ヴァレンクール家ゆかりの品だ、という、古い肖像画。先ほどの夫人の邸宅の、広間の隅に——掛けられていた。
茶会の合間に、何気なく——目に留めたもの。
古びたその絵に、描かれていたのは——一人の貴婦人だった。
銀色の髪。澄んだ瞳。気高く——けれど、どこか優しげな——面立ち。
(——あら?)
その面影に、わたくしは——奇妙な既視感を、覚えたのだ。
どこかで、見たことがある。この雰囲気。この佇まい。——いったい、どこで。
*
馬車に揺られ——記憶を辿るうちに。
わたくしは——はっと、した。
商会だ。——ルキウスの商会で、いつも働いている、あの少女。
フィー。——銀色の髪の、あの子。
(——まさか)
わたくしは——自分の考えを、慌てて打ち消した。
馬鹿げている。あの肖像画の貴婦人と、奴隷の身の少女が——関わりが、あるはずがない。銀色の髪など、珍しくはあっても——ないわけでは、ない。ただの——他人の空似だ。
そう。きっと。——そうに、決まっている。
……でも。
(——あの、気高い面影は)
ただの偶然と片づけるには、フィーのたたずまいと、あまりにも——重なっていた。
奴隷として買われてきた、あの子の所作には、時折、奇妙なほど、品のよさが、にじむことがある。まるで——生まれながらに、高貴な何かを——身につけているかのように。
*
(——いいえ)
わたくしは——首を振った。
今は、考えすぎだ。古い家の肖像画と、一人の少女が似ていた。——ただ、それだけのこと。
わたくしには、やるべきことがある。改革派の足場を作る。大神官との戦いを、支える。——その大事の最中に、こんな根拠のない空想に、心を奪われている暇は——ない。
そう——自分に、言い聞かせた。
……けれど。
馬車の窓から、流れゆく王都の景色を、眺めながら。わたくしの心の片隅には、小さな、けれど消えない問いが——残っていた。
(——あの子は——いったい、何者なのかしら)
銀色の髪の少女。——フィー。
その出自を、わたくしは、何も知らない。ルキウスが、どこかで——買い取った、奴隷の子だと。——それしか。
でも。もし。あの子が——ただの奴隷では、なかったとしたら。
(——いいえ。やめましょう)
わたくしは、その考えを、そっと、心の奥に——しまい込んだ。
今は、まだ、何もわからない。それに——確かめる術も、ない。
ただ——一度、芽生えたその小さな疑問は。
もう——消えることは、なかった。




