第63話 市井に広がる
貴族の間で、紙が評判を得たことで——商会には、少しずつ、注文が入り始めていた。
でも。——ワタシの本当の望みは、そこじゃない。
「ニコ。——次は。市井の人たちに、この紙を届けたい」
ワタシがそう言うと、ニコは——にやり、と笑った。
「だろうと思ったぜ、旦那。——よし。そっちは——おれの出番だ」
*
ニコは——元、行商人で——元、詐欺師だ。
市井の人々の心を掴むこつを——誰よりもよく知っていた。
「いいか、旦那。——貴族さま方は『権威』で動く。だが——庶民は違う。庶民を動かすのは——『得した』って実感だ」
ニコは、生き生きと語った。
「まず——でかい商店や、市場の顔役に話をつける。『貴族さま方もこぞって使う紙が、庶民にも手の届く値で買える』——そう銘打って、売り出すのさ」
「なるほど」
「それから——実際に使って見せる。市場の店先で、注文を紙に書きつけて渡す。帳面の代わりに使う。——『便利だ』ってのを、目の前で見せつけるんだ」
ニコの商才が——存分に発揮され始めた。
*
ニコの読みは——的中した。
大きな商店が、仕入れの帳面に紙を使い始める。市場の商人たちが——客への覚え書きに、使い始める。
「あの貴族さま方が使う紙が、こんなに安く手に入る」。——その評判は、市井に瞬く間に——広がっていった。
「ねえ、聞いた? あのアステリア商会の紙。——羊皮紙の何分の一かの値で、買えるんだってさ」
「ああ。——うちの店でも、使い始めたよ。帳面が安くつくし——軽くて扱いやすい」
「貴族さまも使ってる、っていうあれだろ? ——いっぺん、買ってみようかね」
人々の警戒は——もう、なかった。むしろ——「あの紙が欲しい」と——こぞって、求め始めた。
*
そして。——ワタシがいちばん嬉しかったのは。
ある日。商会に——一人の母親が、子どもの手を引いて——やってきたことだった。
「あの……この紙を。——少し、分けていただけませんか」
母親は——遠慮がちに言った。
「うちは——貧しくて。子どもに、学問なんて——とてもさせてやれないと、諦めていたんです。でも……この紙なら、安いから。——うちでも、子どもに、文字を——教えてやれるかもしれない、って」
(——っ)
ワタシの胸が——熱くなった。
羊皮紙は——高すぎた。だから、文字は、一部の恵まれた者だけのものだった。貧しい子どもには——学ぶ機会すら——与えられなかった。
でも。——安い紙が、あれば。
「もちろん、です」
ワタシは——母親に、紙を渡した。
「どうぞ。——たくさん使ってください。お子さんが、文字を覚えるお手伝いができるなら。これ以上、嬉しいことは、ありません」
母親は——何度も頭を下げて、子どもと一緒に——帰っていった。
その子どもの——きらきらした瞳が。ワタシの胸に——焼きついた。
*
その光景を見て。ワタシは——改めて、思った。
紙は——ただの商品では、ない。
それは——知識の扉を、開く鍵、なのだ。
これまで、文字は——羊皮紙が買える、一部の者だけのものだった。知識も、学問も——豊かな者が、独り占めしていた。
でも。——安い紙が広まれば。貧しい人々も、子どもたちも——文字を学べる。知識に——触れられる。
それは——いつか、この国のありようを——変えていくかもしれない。身分や貧富で——閉ざされていた扉が、少しずつ——開かれていく。
(——ああ、そうか)
ワタシは——確信した。
(——ワタシが、前世の知識で——本当にしたかったことは。きっと——これ、なんだ)
*
紙は——市井に、どんどん広がっていった。
商店。市場。職人の工房。——そして、慎ましい家庭の中にまで。
大神官の締めつけは——もはや、まったく意味をなさなかった。新しい品で、材料は辺境から——彼の手の届かぬところで生まれ、人々の暮らしの中に——深く根を下ろしていったのだから。
「やったな、旦那」
ニコが、満足げに言った。
「締めつけなんざ——どこ吹く風だ。それどころか——うちの商会は、前よりずっと——評判を上げてる」
「ニコのおかげだよ」
ワタシは、笑った。
「ニコの商才がなければ——この紙は、きっと、貴族の間だけで——終わっていた」
「へへ。——まあな」
ニコは——照れたように、鼻をこすった。
*
その夜。ワタシは、賑わう商会を眺めながら——静かな充実感に、包まれていた。
締めつけをはね返し、商会は——前にも増して、活気づいている。そして、何より——あの紙が、たくさんの人の手に、届き始めている。
貧しい子どもが、文字を覚える。職人が、覚え書きを残す。——商人が、帳面をつける。
その一つひとつが——小さな、けれど、確かな——希望、だった。
(——一枚の紙が)
ワタシは——思った。
(——少しずつ、世界を——変え始めている)
まだ——ほんの始まりだ。でも。この流れは——きっと、止まらない。
ワタシは——市井に灯り始めた、無数の小さな灯を、思い描いて——静かに、微笑んだ。




