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第63話 市井に広がる

 貴族の間で、紙が評判を得たことで——商会には、少しずつ、注文が入り始めていた。


 でも。——ワタシの本当の望みは、そこじゃない。


「ニコ。——次は。市井の人たちに、この紙を届けたい」


 ワタシがそう言うと、ニコは——にやり、と笑った。


「だろうと思ったぜ、旦那。——よし。そっちは——おれの出番だ」



 ニコは——元、行商人で——元、詐欺師だ。


 市井の人々の心を掴むこつを——誰よりもよく知っていた。


「いいか、旦那。——貴族さま方は『権威』で動く。だが——庶民は違う。庶民を動かすのは——『得した』って実感だ」


 ニコは、生き生きと語った。


「まず——でかい商店や、市場の顔役に話をつける。『貴族さま方もこぞって使う紙が、庶民にも手の届く値で買える』——そう銘打って、売り出すのさ」


「なるほど」


「それから——実際に使って見せる。市場の店先で、注文を紙に書きつけて渡す。帳面の代わりに使う。——『便利だ』ってのを、目の前で見せつけるんだ」


 ニコの商才が——存分に発揮され始めた。



 ニコの読みは——的中した。


 大きな商店が、仕入れの帳面に紙を使い始める。市場の商人たちが——客への覚え書きに、使い始める。


 「あの貴族さま方が使う紙が、こんなに安く手に入る」。——その評判は、市井に瞬く間に——広がっていった。


「ねえ、聞いた? あのアステリア商会の紙。——羊皮紙の何分の一かの値で、買えるんだってさ」


「ああ。——うちの店でも、使い始めたよ。帳面が安くつくし——軽くて扱いやすい」


「貴族さまも使ってる、っていうあれだろ? ——いっぺん、買ってみようかね」


 人々の警戒は——もう、なかった。むしろ——「あの紙が欲しい」と——こぞって、求め始めた。



 そして。——ワタシがいちばん嬉しかったのは。


 ある日。商会に——一人の母親が、子どもの手を引いて——やってきたことだった。


「あの……この紙を。——少し、分けていただけませんか」


 母親は——遠慮がちに言った。


「うちは——貧しくて。子どもに、学問なんて——とてもさせてやれないと、諦めていたんです。でも……この紙なら、安いから。——うちでも、子どもに、文字を——教えてやれるかもしれない、って」


(——っ)


 ワタシの胸が——熱くなった。


 羊皮紙は——高すぎた。だから、文字は、一部の恵まれた者だけのものだった。貧しい子どもには——学ぶ機会すら——与えられなかった。


 でも。——安い紙が、あれば。


「もちろん、です」


 ワタシは——母親に、紙を渡した。


「どうぞ。——たくさん使ってください。お子さんが、文字を覚えるお手伝いができるなら。これ以上、嬉しいことは、ありません」


 母親は——何度も頭を下げて、子どもと一緒に——帰っていった。


 その子どもの——きらきらした瞳が。ワタシの胸に——焼きついた。



 その光景を見て。ワタシは——改めて、思った。


 紙は——ただの商品では、ない。


 それは——知識の扉を、開く鍵、なのだ。


 これまで、文字は——羊皮紙が買える、一部の者だけのものだった。知識も、学問も——豊かな者が、独り占めしていた。


 でも。——安い紙が広まれば。貧しい人々も、子どもたちも——文字を学べる。知識に——触れられる。


 それは——いつか、この国のありようを——変えていくかもしれない。身分や貧富で——閉ざされていた扉が、少しずつ——開かれていく。


(——ああ、そうか)


 ワタシは——確信した。


(——ワタシが、前世の知識で——本当にしたかったことは。きっと——これ、なんだ)



 紙は——市井に、どんどん広がっていった。


 商店。市場。職人の工房。——そして、慎ましい家庭の中にまで。


 大神官の締めつけは——もはや、まったく意味をなさなかった。新しい品で、材料は辺境から——彼の手の届かぬところで生まれ、人々の暮らしの中に——深く根を下ろしていったのだから。


「やったな、旦那」


 ニコが、満足げに言った。


「締めつけなんざ——どこ吹く風だ。それどころか——うちの商会は、前よりずっと——評判を上げてる」


「ニコのおかげだよ」


 ワタシは、笑った。


「ニコの商才がなければ——この紙は、きっと、貴族の間だけで——終わっていた」


「へへ。——まあな」


 ニコは——照れたように、鼻をこすった。



 その夜。ワタシは、賑わう商会を眺めながら——静かな充実感に、包まれていた。


 締めつけをはね返し、商会は——前にも増して、活気づいている。そして、何より——あの紙が、たくさんの人の手に、届き始めている。


 貧しい子どもが、文字を覚える。職人が、覚え書きを残す。——商人が、帳面をつける。


 その一つひとつが——小さな、けれど、確かな——希望、だった。


(——一枚の紙が)


 ワタシは——思った。


(——少しずつ、世界を——変え始めている)


 まだ——ほんの始まりだ。でも。この流れは——きっと、止まらない。


 ワタシは——市井に灯り始めた、無数の小さな灯を、思い描いて——静かに、微笑んだ。

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