第60話 何もできぬ父
辺境伯領。アーデルハイト家の屋敷。
わし、ガイウスは、執務室の窓辺に立って——遠い王都の方角を、見つめていた。
胸の中には——晴れぬもやが、垂れ込めていた。
*
あの謁見から——もう、しばらく経つ。
わしはルキと共に王宮へ参内し——王の前で、大神官の意を受けた牽制を受けた。「秩序を乱すな」と。——あれは明らかに、あの商会と、ルキを狙った脅しだった。
そして——辺境に戻ってからも、王都の報せは、次々と届いた。
ルキの商会が、「王の名」のもとに——厳しい締めつけを受けている、という。検査。特別税。——行商の差し止め。あらゆる手を使って、あの子の商会を——じわじわと追い詰めている、と。
(——大神官め)
わしは、奥歯を噛んだ。
*
「あなた」
妻のエルマが、そっと執務室に入ってきた。その顔にも——隠せぬ心配が、滲んでいた。
「ルキは……大丈夫、でしょうか」
「……わからん」
わしは、正直に答えた。
「相手は——王の権威を笠に着た、大神官だ。一介の商会が抗える相手では、ない。——だが」
わしは、こぶしを握りしめた。
「あの子は——逃げぬだろう。あのまっすぐな目で——立ち向かう。それが——どれほど危ういことか」
エルマは——目を伏せた。
「わたしたちに——何か。あの子のために、できることは、ないのでしょうか」
その問いに——わしは、答えられなかった。
*
——何か、できることはないか。
わしも——ずっと、それを考えていた。
だが。考えれば考えるほど——己の無力さを、思い知らされるばかりだった。
辺境伯。——確かに貴族だ。領地もある。兵もいる。だが——王都から遠く、中央に確かな伝手もない。財も——豊かとは言えぬ。
そんなわしらが——王の名を操る大神官に、どう抗えというのか。
社交界で根回しを試みても——「アーデルハイト家は女神に背く一族」という噂が、先に立っている。味方は——少ない。
(——情けない)
わしは——自分の無力さに、歯噛みした。
息子が——あれほど大きな敵と、仲間と共に戦っているというのに。父であるわしは——遠い辺境で、ただ案じることしか——できぬ。
*
その時。執務室の扉が、叩かれた。
長男のヴィルだった。
「父上。——少し、よろしいですか」
「ヴィルか。——入れ」
ヴィルは入ってくると——硬い表情で言った。
「ルキのことです。——王都の知人から、報せがありました。商会の締めつけは——日に日に厳しくなっている、と」
「……ああ。わしも、聞いておる」
「父上」
ヴィルは——拳を握りしめて言った。
「私は——かつてルキを、責めました。『結果として、家が危うくなっている』と。あれの活動を、家の重荷だと——思っていました」
ヴィルの声が——震えた。
「ですが——今は、違います。あの商会で、生き生きと働く人々を、この目で見て——わかったのです。ルキのしていることは、間違っていない、と」
「ヴィル……」
「なのに——私には、何もできない。弟が苦しんでいるのに——長男の私が、家のためと言いながら——ただ見ていることしか、できないのです」
ヴィルの、その言葉は——わしの思いと、同じだった。
*
わしら家族は——皆、同じもどかしさを、抱えていた。
ルキを——案じている。力になりたいと——願っている。
なのに——できることが、何もない。
あの子は、家を出て、たった一人で——あの大それた理想に、立ち向かっている。そして——たくさんの仲間を得て。今や、王宮すら相手に——戦っている。
その姿は——誇らしい。けれど、同時に——胸が張り裂けそうに、心配だった。
「……エルマ。ヴィル」
わしは——絞り出すように言った。
「わしらに、何ができるか——わからん。だが。——もし。あの子が、わしらを頼ってくることが、あったなら」
わしは、窓の外の——遠い王都の空を、見つめた。
「その時は——家を挙げて、あの子の力になろう。——たとえ、何を犠牲にしても。それが——親の。そして、兄の——務め、というものだ」
エルマが頷いた。ヴィルも——強く、頷いた。
*
その夜。わしは——眠れぬまま、一人、星空を見上げていた。
遠い王都で——今も。あの子は、戦っているのだろうか。
不器用なわしには——気の利いた言葉も、かけてやれぬ。大きな力も——持っておらぬ。
だが。——それでも。
(——ルキ。——もし、お前が困った時は)
わしは——心の中で、呼びかけた。
(——遠慮、するな。——父を。兄を。——家族を、頼れ。わしらは——いつでも、お前の味方だ)
その思いが——届くことを。わしは——ただ、願った。
遠い辺境の空の下で、何もできぬ父は——それでも、息子の無事を——祈り続けていた。




