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第60話 何もできぬ父

 辺境伯領。アーデルハイト家の屋敷。


 わし、ガイウスは、執務室の窓辺に立って——遠い王都の方角を、見つめていた。


 胸の中には——晴れぬもやが、垂れ込めていた。



 あの謁見から——もう、しばらく経つ。


 わしはルキと共に王宮へ参内し——王の前で、大神官の意を受けた牽制を受けた。「秩序を乱すな」と。——あれは明らかに、あの商会と、ルキを狙った脅しだった。


 そして——辺境に戻ってからも、王都の報せは、次々と届いた。


 ルキの商会が、「王の名」のもとに——厳しい締めつけを受けている、という。検査。特別税。——行商の差し止め。あらゆる手を使って、あの子の商会を——じわじわと追い詰めている、と。


(——大神官め)


 わしは、奥歯を噛んだ。



「あなた」


 妻のエルマが、そっと執務室に入ってきた。その顔にも——隠せぬ心配が、滲んでいた。


「ルキは……大丈夫、でしょうか」


「……わからん」


 わしは、正直に答えた。


「相手は——王の権威を笠に着た、大神官だ。一介の商会が抗える相手では、ない。——だが」


 わしは、こぶしを握りしめた。


「あの子は——逃げぬだろう。あのまっすぐな目で——立ち向かう。それが——どれほど危ういことか」


 エルマは——目を伏せた。


「わたしたちに——何か。あの子のために、できることは、ないのでしょうか」


 その問いに——わしは、答えられなかった。



 ——何か、できることはないか。


 わしも——ずっと、それを考えていた。


 だが。考えれば考えるほど——己の無力さを、思い知らされるばかりだった。


 辺境伯。——確かに貴族だ。領地もある。兵もいる。だが——王都から遠く、中央に確かな伝手もない。財も——豊かとは言えぬ。


 そんなわしらが——王の名を操る大神官に、どう抗えというのか。


 社交界で根回しを試みても——「アーデルハイト家は女神に背く一族」という噂が、先に立っている。味方は——少ない。


(——情けない)


 わしは——自分の無力さに、歯噛みした。


 息子が——あれほど大きな敵と、仲間と共に戦っているというのに。父であるわしは——遠い辺境で、ただ案じることしか——できぬ。



 その時。執務室の扉が、叩かれた。


 長男のヴィルだった。


「父上。——少し、よろしいですか」


「ヴィルか。——入れ」


 ヴィルは入ってくると——硬い表情で言った。


「ルキのことです。——王都の知人から、報せがありました。商会の締めつけは——日に日に厳しくなっている、と」


「……ああ。わしも、聞いておる」


「父上」


 ヴィルは——拳を握りしめて言った。


「私は——かつてルキを、責めました。『結果として、家が危うくなっている』と。あれの活動を、家の重荷だと——思っていました」


 ヴィルの声が——震えた。


「ですが——今は、違います。あの商会で、生き生きと働く人々を、この目で見て——わかったのです。ルキのしていることは、間違っていない、と」


「ヴィル……」


「なのに——私には、何もできない。弟が苦しんでいるのに——長男の私が、家のためと言いながら——ただ見ていることしか、できないのです」


 ヴィルの、その言葉は——わしの思いと、同じだった。



 わしら家族は——皆、同じもどかしさを、抱えていた。


 ルキを——案じている。力になりたいと——願っている。


 なのに——できることが、何もない。


 あの子は、家を出て、たった一人で——あの大それた理想に、立ち向かっている。そして——たくさんの仲間を得て。今や、王宮すら相手に——戦っている。


 その姿は——誇らしい。けれど、同時に——胸が張り裂けそうに、心配だった。


「……エルマ。ヴィル」


 わしは——絞り出すように言った。


「わしらに、何ができるか——わからん。だが。——もし。あの子が、わしらを頼ってくることが、あったなら」


 わしは、窓の外の——遠い王都の空を、見つめた。


「その時は——家を挙げて、あの子の力になろう。——たとえ、何を犠牲にしても。それが——親の。そして、兄の——務め、というものだ」


 エルマが頷いた。ヴィルも——強く、頷いた。



 その夜。わしは——眠れぬまま、一人、星空を見上げていた。


 遠い王都で——今も。あの子は、戦っているのだろうか。


 不器用なわしには——気の利いた言葉も、かけてやれぬ。大きな力も——持っておらぬ。


 だが。——それでも。


(——ルキ。——もし、お前が困った時は)


 わしは——心の中で、呼びかけた。


(——遠慮、するな。——父を。兄を。——家族を、頼れ。わしらは——いつでも、お前の味方だ)


 その思いが——届くことを。わしは——ただ、願った。


 遠い辺境の空の下で、何もできぬ父は——それでも、息子の無事を——祈り続けていた。


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