第57話 巣立ちの日
卒業の日が、来た。
よく晴れた春の朝。学院の講堂で、卒業生たちが——晴れやかな表情で、新たな門出を迎えていた。
その中に。——クラリスティアが、いた。
いつもの制服とは違う、卒業生の正装に身を包んだ彼女は——息を呑むほど美しかった。艶やかな黒髪。深い緑の瞳。凛とした立ち姿。——「氷のバラ」の名にふさわしい、気高さ。
でも——ワタシは知っている。その氷の下にある、温かい心を。
*
式が終わった後。ワタシは中庭で——彼女を待った。
あの、いつもの中庭。——彼女と何度も、言葉を交わした場所。
やがて——クラリスティアが、やってきた。
「ルキウス。——待っていてくれたの」
「はい。——どうしても、お祝いを言いたくて」
ワタシは、頭を下げた。
「ご卒業、おめでとうございます。クラリスティアさん」
彼女は——ふっと微笑んだ。学院では、めったに見せない、柔らかな笑顔だった。
「ありがとう。——あなたにそう言ってもらえると。——いちばん、嬉しいわ」
そう言ってから——彼女は、はっとしたように。——わずかに頬を染めた。
「……い、今のは。深い意味は、ないのよ。ただ——古い付き合い、だから」
慌てて付け加える、その様子は。いつもの凛とした「氷のバラ」とは——少し違っていた。
(——クラリスティアさん。なんだか、可愛らしいな)
ワタシは、思わず頬が緩みそうになった。
*
二人で——しばらく中庭を歩いた。
春の陽射しが、木々の若葉を、きらきらと照らしている。
「思えば。——いろいろなことが、あったわね」
クラリスティアが、ぽつりと言った。
「あなたと出会って。——わたくしの世界は、変わった。氷の仮面の下で、一人、凍えていたわたくしが。——今は、こうして、信じる道を歩いている」
「クラリスティアさん……」
「あなたがいなければ。——わたくしは今も、あの冷たい家の中で、心を殺して生きていたでしょうね」
彼女は立ち止まり——ワタシを、まっすぐ見た。
「ありがとう、ルキウス。——あなたは、わたくしに『生き方』を教えてくれた」
その言葉に——ワタシは、胸が熱くなった。
「ワタシは……何も。ただ、あなたが——自分の力で、氷を溶かしたんです。ワタシは、ほんのきっかけに過ぎません」
「ふふ。——相変わらず、ね」
クラリスティアは、おかしそうに笑った。
*
「——これから。あなたは、どうされるんですか」
ワタシが問うと、クラリスティアの表情が——きりりと引き締まった。
「言ったでしょう。——社交界で、改革派の足場を作る」
彼女は、まっすぐ前を見て言った。
「卒業してしまえば、わたくしはもう、学院という守られた立場には、いられない。一人の貴族として——社交界の荒波に、出ていくことになる」
「……危険は、ないんですか」
「あるわ。——もちろん」
クラリスティアは、即答した。
「父の後ろ盾も、ない。わたくしはこれから、たった一人で——貴族たちの駆け引きの中に、身を置くの。敵も、できるでしょう。——でも」
その緑の瞳に——強い光が、宿った。
「わたくしには——守りたいものが、ある。あなたや、商会のみんなや。——救われるべき人々が。だから——わたくしは、退かない」
ワタシは——彼女の覚悟に、胸を打たれた。
学院で出会った頃の、冷たく閉ざされた令嬢は——もう、どこにもいない。今、ここにいるのは、自らの意思で戦いに身を投じる——一人の、気高い戦士だった。
*
「——ルキウス」
クラリスティアは、少し改まった声で言った。
「学院を離れても——わたくしたちの戦いは、続くわ。いいえ。——むしろ、これからが本番、かもしれない」
「……はい」
「だから。——これからも、共に戦いましょう。あなたの灯を、わたくしも——貴族の側から、支えるわ」
彼女はそっと——右手を差し出した。
ワタシは——その手を握った。細く、けれど、確かな力のこもった手だった。
「——はい。クラリスティアさん。これからも、どうか、よろしくお願いします」
二人の手が——固く結ばれた。
それは、同志としての誓い。——けれど、その温もりには。それだけではない、何か、もっと大切なものが——込められている気がした。
握った手を——クラリスティアは、なかなか離さなかった。ほんの数秒。——けれど確かに、名残惜しむように。その指先が、ワタシの手に——とどまっていた。
やがて、彼女は——はっと、手を引いた。
「……ご、ごめんなさい。つい」
また——頬が、ほのかに赤い。彼女は取り繕うように——こほん、と咳払いをした。
(——クラリスティアさん)
ワタシは、彼女の手の温もりを感じながら——ふと、思った。
この人と。——これからも、共に歩いていきたい、と。
その思いに、「同志」という言葉だけでは——足りない何かが、混じり始めていることに。ワタシは、薄々——気づき始めていた。
*
別れ際。クラリスティアは——もう一度振り返って、言った。
「ルキウス。——あなたは、まだ学院に残るのだから。くれぐれも、油断しないで。——あの影には、気をつけて」
「はい。——クラリスティアさんも、どうか、ご無事で」
彼女は、頷いた。それから——一瞬、何かを言いかけて。——口を開いた。
「……あなたが、いて、くれたから。わたくしは——」
けれど。その先は——続かなかった。
彼女はふいに、目を伏せ——いつもの凛とした表情に、戻った。
「……いいえ。なんでも、ないわ。——ごきげんよう、ルキウス。また、会いましょう」
言いかけた言葉を——飲み込んで。彼女は、颯爽と去っていった。
(——今、何を。言おうと、したんだろう)
ワタシには——わからなかった。けれど。その伏せたまつげの奥に——ほんの一瞬、覗いた、何か柔らかな色が。妙に——心に残った。
その後ろ姿は、もう、学院の生徒のものではなかった。これから、貴族社会という戦場へ——一人、踏み出していく。気高い女性の、背中だった。
ワタシは——その姿が見えなくなるまで、見送った。
一つの季節が——終わった。
でも。これは——終わりではない。クラリスティアは、新たな場所で、戦いを続ける。ワタシも——ここで、戦い続ける。
それぞれの場所で。同じ灯を、胸に抱いて。
(——また、会おう。クラリスティアさん)
ワタシは、春の空に、そっと誓った。




