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第57話 巣立ちの日

 卒業の日が、来た。


 よく晴れた春の朝。学院の講堂で、卒業生たちが——晴れやかな表情で、新たな門出を迎えていた。


 その中に。——クラリスティアが、いた。


 いつもの制服とは違う、卒業生の正装に身を包んだ彼女は——息を呑むほど美しかった。艶やかな黒髪。深い緑の瞳。凛とした立ち姿。——「氷のバラ」の名にふさわしい、気高さ。


 でも——ワタシは知っている。その氷の下にある、温かい心を。



 式が終わった後。ワタシは中庭で——彼女を待った。


 あの、いつもの中庭。——彼女と何度も、言葉を交わした場所。


 やがて——クラリスティアが、やってきた。


「ルキウス。——待っていてくれたの」


「はい。——どうしても、お祝いを言いたくて」


 ワタシは、頭を下げた。


「ご卒業、おめでとうございます。クラリスティアさん」


 彼女は——ふっと微笑んだ。学院では、めったに見せない、柔らかな笑顔だった。


「ありがとう。——あなたにそう言ってもらえると。——いちばん、嬉しいわ」


 そう言ってから——彼女は、はっとしたように。——わずかに頬を染めた。


「……い、今のは。深い意味は、ないのよ。ただ——古い付き合い、だから」


 慌てて付け加える、その様子は。いつもの凛とした「氷のバラ」とは——少し違っていた。


(——クラリスティアさん。なんだか、可愛らしいな)


 ワタシは、思わず頬が緩みそうになった。



 二人で——しばらく中庭を歩いた。


 春の陽射しが、木々の若葉を、きらきらと照らしている。


「思えば。——いろいろなことが、あったわね」


 クラリスティアが、ぽつりと言った。


「あなたと出会って。——わたくしの世界は、変わった。氷の仮面の下で、一人、凍えていたわたくしが。——今は、こうして、信じる道を歩いている」


「クラリスティアさん……」


「あなたがいなければ。——わたくしは今も、あの冷たい家の中で、心を殺して生きていたでしょうね」


 彼女は立ち止まり——ワタシを、まっすぐ見た。


「ありがとう、ルキウス。——あなたは、わたくしに『生き方』を教えてくれた」


 その言葉に——ワタシは、胸が熱くなった。


「ワタシは……何も。ただ、あなたが——自分の力で、氷を溶かしたんです。ワタシは、ほんのきっかけに過ぎません」


「ふふ。——相変わらず、ね」


 クラリスティアは、おかしそうに笑った。



「——これから。あなたは、どうされるんですか」


 ワタシが問うと、クラリスティアの表情が——きりりと引き締まった。


「言ったでしょう。——社交界で、改革派の足場を作る」


 彼女は、まっすぐ前を見て言った。


「卒業してしまえば、わたくしはもう、学院という守られた立場には、いられない。一人の貴族として——社交界の荒波に、出ていくことになる」


「……危険は、ないんですか」


「あるわ。——もちろん」


 クラリスティアは、即答した。


「父の後ろ盾も、ない。わたくしはこれから、たった一人で——貴族たちの駆け引きの中に、身を置くの。敵も、できるでしょう。——でも」


 その緑の瞳に——強い光が、宿った。


「わたくしには——守りたいものが、ある。あなたや、商会のみんなや。——救われるべき人々が。だから——わたくしは、退かない」


 ワタシは——彼女の覚悟に、胸を打たれた。


 学院で出会った頃の、冷たく閉ざされた令嬢は——もう、どこにもいない。今、ここにいるのは、自らの意思で戦いに身を投じる——一人の、気高い戦士だった。



「——ルキウス」


 クラリスティアは、少し改まった声で言った。


「学院を離れても——わたくしたちの戦いは、続くわ。いいえ。——むしろ、これからが本番、かもしれない」


「……はい」


「だから。——これからも、共に戦いましょう。あなたの灯を、わたくしも——貴族の側から、支えるわ」


 彼女はそっと——右手を差し出した。


 ワタシは——その手を握った。細く、けれど、確かな力のこもった手だった。


「——はい。クラリスティアさん。これからも、どうか、よろしくお願いします」


 二人の手が——固く結ばれた。


 それは、同志としての誓い。——けれど、その温もりには。それだけではない、何か、もっと大切なものが——込められている気がした。


 握った手を——クラリスティアは、なかなか離さなかった。ほんの数秒。——けれど確かに、名残惜しむように。その指先が、ワタシの手に——とどまっていた。


 やがて、彼女は——はっと、手を引いた。


「……ご、ごめんなさい。つい」


 また——頬が、ほのかに赤い。彼女は取り繕うように——こほん、と咳払いをした。


(——クラリスティアさん)


 ワタシは、彼女の手の温もりを感じながら——ふと、思った。


 この人と。——これからも、共に歩いていきたい、と。


 その思いに、「同志」という言葉だけでは——足りない何かが、混じり始めていることに。ワタシは、薄々——気づき始めていた。



 別れ際。クラリスティアは——もう一度振り返って、言った。


「ルキウス。——あなたは、まだ学院に残るのだから。くれぐれも、油断しないで。——あの影には、気をつけて」


「はい。——クラリスティアさんも、どうか、ご無事で」


 彼女は、頷いた。それから——一瞬、何かを言いかけて。——口を開いた。


「……あなたが、いて、くれたから。わたくしは——」


 けれど。その先は——続かなかった。


 彼女はふいに、目を伏せ——いつもの凛とした表情に、戻った。


「……いいえ。なんでも、ないわ。——ごきげんよう、ルキウス。また、会いましょう」


 言いかけた言葉を——飲み込んで。彼女は、颯爽と去っていった。


(——今、何を。言おうと、したんだろう)


 ワタシには——わからなかった。けれど。その伏せたまつげの奥に——ほんの一瞬、覗いた、何か柔らかな色が。妙に——心に残った。


 その後ろ姿は、もう、学院の生徒のものではなかった。これから、貴族社会という戦場へ——一人、踏み出していく。気高い女性の、背中だった。


 ワタシは——その姿が見えなくなるまで、見送った。


 一つの季節が——終わった。


 でも。これは——終わりではない。クラリスティアは、新たな場所で、戦いを続ける。ワタシも——ここで、戦い続ける。


 それぞれの場所で。同じ灯を、胸に抱いて。


(——また、会おう。クラリスティアさん)


 ワタシは、春の空に、そっと誓った。

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