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第56話 学び舎の影

 商会が締めつけられる日々の中でも——ワタシには、果たさねばならない、もう一つの顔があった。


 学院の生徒、としての顔だ。


 王都の魔法学院。——ワタシは、ここに通う一人の生徒。表向きは、どこにでもいる、平凡な辺境伯の三男。——そういうことに、なっている。



 その日も。ワタシは講義を受け、何食わぬ顔で、学院の廊下を歩いていた。


 ——けれど。内心は、穏やかではなかった。


 商会は今、王の名を盾にした締めつけで、日に日に追い詰められている。仲間たちが必死にしのいでいる、その間にも。——ワタシはこうして、学生でいなければならない。


 もどかしさは——あった。けれど。学院の生徒、という立場。それもまた、ワタシの大切な隠れ蓑だ。ここで怪しまれては——元も子もない。


 だから——ワタシは、努めて平静を装った。凡庸な成績。目立たぬ振る舞い。——積み重ねてきた力を、誰にも悟られぬよう。



 ——だが。その日。ワタシは、奇妙なことに気づいた。


 見慣れない男が、学院の片隅から——じっと、ワタシを見ている。


 生徒では、ない。教師でも、ない。下働きの装いをしているが——その目つき。さりげなくこちらをうかがう、その所作。


(——間者だ)


 ワタシは、直感した。


 商会で見た、あの洗練された影と——同じ匂い。大神官の手の者が——とうとう、学院にまで忍び込んでいる。


(——なるほど)


 ワタシは、背筋が冷たくなるのを感じた。


 大神官は、商会を締めつけるだけではない。ワタシのもう一つの顔——学院での姿まで、探ろうとしている。「アーデルハイトの三男は何者か」。その答えを、あらゆる場所で——嗅ぎ回っているのだ。


 学院も、もはや——安全な場所では、ない。


 ワタシは、いっそう気を引き締めた。ここでボロを出すわけには——いかない。



 その帰り道。ワタシは中庭で——クラリスティアと出くわした。


「あら。——ルキウス」


 彼女は相変わらず、学院では「氷のバラ」の仮面を、きちんと被っていた。けれど。——ワタシと目が合うと、その緑の瞳が、ほんの少し和らぐ。


「クラリスティアさん。——こんなところで」


「ええ。——少し、感傷にひたっていたの」


 彼女は、中庭の木々を——懐かしむように見上げた。


「わたくし。——もうすぐ、卒業なの」


「! ——そう、でしたか」


 そういえば——彼女は、ワタシより年上の上級生。卒業が近いのは——当然のことだった。


 なのに。ワタシは——どこか、寂しさのようなものを、感じていた。



「この学院で。——わたくしは、あなたと出会った」


 クラリスティアは、静かに言った。


「氷の仮面を被って、誰にも心を開かず。——そんなわたくしに、あなたは。『同じことを思っている』と——言ってくれた」


「クラリスティアさん……」


「ここは——わたくしにとって、特別な場所。あなたと出会い、氷が溶け始めた。——始まりの場所だわ」


 彼女の横顔は——少しだけ、感傷に彩られていた。


 けれど、次の瞬間。その瞳に——強い光が、戻った。


「でも。——感傷にひたってばかりも、いられない。卒業したら——わたくしは、学院という立場を離れる」


「……これから、どうされるんですか」


「決めているわ」


 クラリスティアは、まっすぐ前を見て言った。


「貴族として、社交界で——改革派の足場を作る。これまでは学生だったから、できることに限りがあった。——でも。卒業すれば、一人の貴族として、もっと自由に動ける」


(——クラリスティアさん)


「父とは決別した。家の後ろ盾も、ない。——でも、だからこそ。わたくしは、誰にも縛られず、わたくしの信じる道を進める」


 その言葉には——迷いが、なかった。


 学院で出会った頃の、氷のように閉ざされた彼女は——もう、いない。今、ここにいるのは、自らの足で立ち、戦おうとする——一人の、強い女性だった。



「——あなたも」


 クラリスティアは、ワタシを見て微笑んだ。


「学院にいる間は——気をつけなさい。最近、妙な影が、うろついているわ」


(——っ。気づいていたのか)


 さすがは、クラリスティア。——あの間者の存在に、彼女も感づいていた。


「ええ。——わかって、います」


「あなたを探る目は、きっと、これからも増えていく。——学院でも。どこでも。どうか——油断しないで」


「……はい。ありがとうございます」


 ワタシは、頷いた。


 卒業していく、クラリスティア。学院に忍び寄る、影。——学び舎での穏やかな日々もまた、少しずつ——終わりへと、近づいている。



 その夜。ワタシは一人、学院での日々を——思い返していた。


 クラリスティアと出会い、同志を得た、この場所。——平凡な生徒を装いながら、ワタシはここで、多くのものを得てきた。


 でも。——その学び舎にも、今や、敵の影が伸びている。そして——共に戦ってきたクラリスティアは、まもなく、ここを巣立っていく。


(——一つの季節が、終わろうとしている)


 ワタシは、そう感じた。


 けれど。それは——終わり、ではない。クラリスティアは、卒業してなお。——いや、卒業するからこそ、より大きく戦おうとしている。


 ならば——ワタシも、立ち止まってはいられない。


 学院の影も。商会の苦境も。囚われの王も。——すべてを抱えて、ワタシは進む。


(——負けない。——進み続ける)


 ワタシは、静かに、そう心に誓った。


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