第56話 学び舎の影
商会が締めつけられる日々の中でも——ワタシには、果たさねばならない、もう一つの顔があった。
学院の生徒、としての顔だ。
王都の魔法学院。——ワタシは、ここに通う一人の生徒。表向きは、どこにでもいる、平凡な辺境伯の三男。——そういうことに、なっている。
*
その日も。ワタシは講義を受け、何食わぬ顔で、学院の廊下を歩いていた。
——けれど。内心は、穏やかではなかった。
商会は今、王の名を盾にした締めつけで、日に日に追い詰められている。仲間たちが必死にしのいでいる、その間にも。——ワタシはこうして、学生でいなければならない。
もどかしさは——あった。けれど。学院の生徒、という立場。それもまた、ワタシの大切な隠れ蓑だ。ここで怪しまれては——元も子もない。
だから——ワタシは、努めて平静を装った。凡庸な成績。目立たぬ振る舞い。——積み重ねてきた力を、誰にも悟られぬよう。
*
——だが。その日。ワタシは、奇妙なことに気づいた。
見慣れない男が、学院の片隅から——じっと、ワタシを見ている。
生徒では、ない。教師でも、ない。下働きの装いをしているが——その目つき。さりげなくこちらをうかがう、その所作。
(——間者だ)
ワタシは、直感した。
商会で見た、あの洗練された影と——同じ匂い。大神官の手の者が——とうとう、学院にまで忍び込んでいる。
(——なるほど)
ワタシは、背筋が冷たくなるのを感じた。
大神官は、商会を締めつけるだけではない。ワタシのもう一つの顔——学院での姿まで、探ろうとしている。「アーデルハイトの三男は何者か」。その答えを、あらゆる場所で——嗅ぎ回っているのだ。
学院も、もはや——安全な場所では、ない。
ワタシは、いっそう気を引き締めた。ここでボロを出すわけには——いかない。
*
その帰り道。ワタシは中庭で——クラリスティアと出くわした。
「あら。——ルキウス」
彼女は相変わらず、学院では「氷のバラ」の仮面を、きちんと被っていた。けれど。——ワタシと目が合うと、その緑の瞳が、ほんの少し和らぐ。
「クラリスティアさん。——こんなところで」
「ええ。——少し、感傷にひたっていたの」
彼女は、中庭の木々を——懐かしむように見上げた。
「わたくし。——もうすぐ、卒業なの」
「! ——そう、でしたか」
そういえば——彼女は、ワタシより年上の上級生。卒業が近いのは——当然のことだった。
なのに。ワタシは——どこか、寂しさのようなものを、感じていた。
*
「この学院で。——わたくしは、あなたと出会った」
クラリスティアは、静かに言った。
「氷の仮面を被って、誰にも心を開かず。——そんなわたくしに、あなたは。『同じことを思っている』と——言ってくれた」
「クラリスティアさん……」
「ここは——わたくしにとって、特別な場所。あなたと出会い、氷が溶け始めた。——始まりの場所だわ」
彼女の横顔は——少しだけ、感傷に彩られていた。
けれど、次の瞬間。その瞳に——強い光が、戻った。
「でも。——感傷にひたってばかりも、いられない。卒業したら——わたくしは、学院という立場を離れる」
「……これから、どうされるんですか」
「決めているわ」
クラリスティアは、まっすぐ前を見て言った。
「貴族として、社交界で——改革派の足場を作る。これまでは学生だったから、できることに限りがあった。——でも。卒業すれば、一人の貴族として、もっと自由に動ける」
(——クラリスティアさん)
「父とは決別した。家の後ろ盾も、ない。——でも、だからこそ。わたくしは、誰にも縛られず、わたくしの信じる道を進める」
その言葉には——迷いが、なかった。
学院で出会った頃の、氷のように閉ざされた彼女は——もう、いない。今、ここにいるのは、自らの足で立ち、戦おうとする——一人の、強い女性だった。
*
「——あなたも」
クラリスティアは、ワタシを見て微笑んだ。
「学院にいる間は——気をつけなさい。最近、妙な影が、うろついているわ」
(——っ。気づいていたのか)
さすがは、クラリスティア。——あの間者の存在に、彼女も感づいていた。
「ええ。——わかって、います」
「あなたを探る目は、きっと、これからも増えていく。——学院でも。どこでも。どうか——油断しないで」
「……はい。ありがとうございます」
ワタシは、頷いた。
卒業していく、クラリスティア。学院に忍び寄る、影。——学び舎での穏やかな日々もまた、少しずつ——終わりへと、近づいている。
*
その夜。ワタシは一人、学院での日々を——思い返していた。
クラリスティアと出会い、同志を得た、この場所。——平凡な生徒を装いながら、ワタシはここで、多くのものを得てきた。
でも。——その学び舎にも、今や、敵の影が伸びている。そして——共に戦ってきたクラリスティアは、まもなく、ここを巣立っていく。
(——一つの季節が、終わろうとしている)
ワタシは、そう感じた。
けれど。それは——終わり、ではない。クラリスティアは、卒業してなお。——いや、卒業するからこそ、より大きく戦おうとしている。
ならば——ワタシも、立ち止まってはいられない。
学院の影も。商会の苦境も。囚われの王も。——すべてを抱えて、ワタシは進む。
(——負けない。——進み続ける)
ワタシは、静かに、そう心に誓った。




